大庭城
本日(1/7)は、神奈川県藤沢市の大庭城址公園までドライブしてきました。

大庭城は南北に伸びる舌状台地に築かれた城跡で、その起こりは定かではありませんが、源頼朝に仕えた大庭氏の拠点だったとも考えられています。
その後、室町時代中期に太田道灌の手により本格的な築城が成され、北条早雲(伊勢新九郎)に攻略されて後は北条氏の支配下に置かれたとも伝えられています。

大庭城縄張図
図面上が北になります。

Ⅳ郭東側の空堀aは・・・ド藪(^_^;)

Ⅲ郭とⅡ郭間の空堀b
こちらは規模も大きく、割と形状をハッキリと確認できました。

cのコーナー部分

Ⅱ郭とⅠ郭間の土橋から見る堀切、その東側。
城址公園として整備されているのは平坦な曲輪面のみで、堀跡などは基本的に藪に覆われていました。

同じく西側。この先は・・・

竪堀として落とされています(d)。

Ⅰ郭から、その堀切越しにⅡ郭を見る。

台地の先端、Ⅰ郭。
昭和43年の発掘調査で明らかになった、建物の掘立柱址を示す石柱が建てられています。

Ⅰ郭で見かけた・・・井戸跡?

城跡西側の横堀

Ⅱ郭とⅢ郭間の堀切跡(の窪み)。
堀切は、写真右手前の笹藪の先まで続き・・・

そのまま竪堀として落とされていました(e)。

fの竪堀

城下、西側から眺める大庭城遠景。

大庭城の南麓には、お地蔵さんが舟に乗った舟地蔵が祀られていました。
大庭城を攻める北条早雲は、城の周囲を取り囲む沼地に手を焼いていました。そこで近くに住む老婆に尋ねると、引地川の堤を切れば沼はたちまちに干上がると言います。
これによって早雲方は大庭城を攻略することができましたが、機密の漏洩を恐れ、その老婆を殺害してしまったとの伝承が伝えられています。
この舟地蔵は、その老婆を供養するためのものと云われているようです。

大庭城は南北に伸びる舌状台地に築かれた城跡で、その起こりは定かではありませんが、源頼朝に仕えた大庭氏の拠点だったとも考えられています。
その後、室町時代中期に太田道灌の手により本格的な築城が成され、北条早雲(伊勢新九郎)に攻略されて後は北条氏の支配下に置かれたとも伝えられています。

大庭城縄張図
図面上が北になります。

Ⅳ郭東側の空堀aは・・・ド藪(^_^;)

Ⅲ郭とⅡ郭間の空堀b
こちらは規模も大きく、割と形状をハッキリと確認できました。

cのコーナー部分

Ⅱ郭とⅠ郭間の土橋から見る堀切、その東側。
城址公園として整備されているのは平坦な曲輪面のみで、堀跡などは基本的に藪に覆われていました。

同じく西側。この先は・・・

竪堀として落とされています(d)。

Ⅰ郭から、その堀切越しにⅡ郭を見る。

台地の先端、Ⅰ郭。
昭和43年の発掘調査で明らかになった、建物の掘立柱址を示す石柱が建てられています。

Ⅰ郭で見かけた・・・井戸跡?

城跡西側の横堀

Ⅱ郭とⅢ郭間の堀切跡(の窪み)。
堀切は、写真右手前の笹藪の先まで続き・・・

そのまま竪堀として落とされていました(e)。

fの竪堀

城下、西側から眺める大庭城遠景。

大庭城の南麓には、お地蔵さんが舟に乗った舟地蔵が祀られていました。
大庭城を攻める北条早雲は、城の周囲を取り囲む沼地に手を焼いていました。そこで近くに住む老婆に尋ねると、引地川の堤を切れば沼はたちまちに干上がると言います。
これによって早雲方は大庭城を攻略することができましたが、機密の漏洩を恐れ、その老婆を殺害してしまったとの伝承が伝えられています。
この舟地蔵は、その老婆を供養するためのものと云われているようです。
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