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2018年3月

2018年3月29日 (木)

沖縄遠征2018 ~エピローグ~

今年の沖縄遠征も最終日。

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この日のスタートはロワジールホテルの裏手にある、三重城(ミーグスク)からです。

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三重城主郭

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所々に残るこれらの石垣は、城壁の名残でしょうか。

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三重城は那覇港に面して築かれた台場でした。
港湾防衛の要として行き交う船の管理・監視を担い、琉球の交易を支える存在だったことでしょう。

お次は本当最南端まで移動し、糸満市の上里城(ウエザトグスク)へ。
近くにはひめゆりの塔や、昨年訪れた具志川城、米須城などがあります。

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上里城には、こちらの拝所脇の小道を入っていくのですが・・・なかなかのジャングル具合で、ハブには最大級の警戒が要りそうです。。。我々もかなり慎重に進みました。

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ジャングルの中にひっそりと眠る、上里城の石垣。

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そのコーナー部分

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樹木が生い茂って石垣の全体を見通すことは難しいですが、グスク特有の曲線を描いている様子は把握することができました。

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平坦な郭内にも低い石垣があり、その奥も郭(主郭)になっています。

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主郭から、一つ前の写真の郭方向。
こうして郭を低い石垣で仕切るのも、グスクの特徴の一つなのでしょうか。

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主郭の先はド藪ですが、深い谷になっています。
谷の先にもグスクの痕跡が残っているとのことでしたので、車で回り込んで行ってみることにしたのですが・・・

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グスクの痕跡を求め、道なき道を進んだものの・・・

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高くそびえる絶壁に行く手を阻まれ、あえなく断念。

この後は高速で一気に北上し、名護城(ナングスク)を目指したものの・・・

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少し手前の許田の辺りで渋滞にハマり、私の帰りのフライト時間が早めだったこともあって、こちらも断念することに。
海が信じられないくらいに美しかったです。。。

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沖縄自動車道を読谷村まで引き返し・・・
(写真はその道中に通りかかった、護佐丸ゆかりの山田城跡の案内板)

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こちらのお店で昼食。

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最後は昨年訪れた座喜味城近くの、やちむんの里へ。
やちむん(焼物)の里は工房が集まって集落を形成したような場所で、写真は共同の登り窯です。

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ここで各々お気に入りの焼物や、琉球ガラスの製品などを購入して旅の〆となりました。

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とても愛想よく相手をしてくれたワンコ。

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今年の沖縄旅も充実して、楽しいものとなりました。
いずれまた再訪するチャンスもあるでしょうが、藪のグスクはもう勘弁かな・・・(^_^;)

今回で2年連続の沖縄訪問となった訳ですが、今はまだ戻ったばかりということもあり、来年以降については何も考えられません。
この先も、自らのライフワークとなっている織田信長や新選組の足跡を辿る旅を続けつつ、ゆっくりと「沖縄」や「グスク」に対する自らの熱を確認してから検討したいと思います。

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2018年3月28日 (水)

沖縄遠征2018 ~久米島(後編)~

前編からのつづきです。

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比屋定バンタから尾根続きのような細い道をしばらく走ると・・・いよいよ眼前に宇江城城が迫ってきました。
逆光になってしまいましたが、肉眼では麓からでもはっきりと石垣が確認できました。

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久米島の最高峰・宇江城岳(310m)に築かれた宇江城城
これほどまでに典型的な「山城」といった立地のグスクを、私は初めて目にしたかもしれません。
それもそのはず、宇江城城は久米島のみならず、沖縄県内でも最高所に築かれたグスクなのだそうです。

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三の郭とされる場所に車を停め、二の郭、一の郭と観ていきます。

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二の郭から見上げる、一の郭の石垣。
グスク特有の曲線美が天空にそびえ、とにかく見栄えがします。

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足元の一段下、主郭部の外縁にも城壁らしきものが見えていました。

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一の郭から二の郭、及び三の郭(駐車スペース)を見下ろす。

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一の郭の城壁

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一の郭

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一の郭の城壁際にあったこちらは・・・貯水施設でしょうか?拝所??

伊敷索按司の長男・久米仲城(クメナカグスク)按司によって築かれたと云う宇江城城。
伊敷索一族一族の繁栄を支えたことと思いますが、16世紀初頭には琉球王国からの遠征軍の攻撃を受け、激しい抵抗の末に落城しています。

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宇江城岳から下山した後は、すぐ北にある県立自然公園へ向かい、遊歩道で断崖を海へ向かって下りていきます。
海面が近づいてくると、目的のものも見えてきました・・・

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天宮城(アンマーグスク)
柱状節理を横にしたような地質の奇岩で、石垣を積んだような岩肌をしていることからその名で呼ばれます。

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天宮城を下から。
かなり海風の激しい場所で、風の浸食による形状であることは、容易に想像がつきました。

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そのまま海岸まで下り切り、もう一つの奇岩で名勝にも指定されている「タチジャミ」にも向かおうかと思いましたが、思いの外距離がありそうで、後の行程を考えてパスすることとなりました。

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ミーフガー(女岩)
風や波による浸食でできた奇岩で、子宝に恵まれない女性にご利益があると崇められてきたのだそうです。
我々の目指す具志川城跡の目の前にありましたので、ちょっと立ち寄ってみました。

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そして具志川城

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具志川城は真達勃(マダフツ)按司によって築城されたと伝えられます。

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具志川城の城壁のずっと先に、先ほどのミーフガーも見えています。

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あちらの城門から城内へ入ります。

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三の郭から城門を振り返る。

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四の郭(手前)から三の郭方向。奥に城門。
郭間を低い石垣が横切ります。

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この仕切りの石垣は二の郭(写真奥)の石垣まで伸び、二・三・四の各郭を仕切る石垣がT字のようになっています。

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二の郭から三の郭方向。

真達勃の子・真金声(マカネゴエ、マカネクイ)按司が城主の時代、久米島で勢力を伸ばしつつあった伊敷索按司の次男・真二古樽(マニクダル)按司によって攻められ、具志川城は落城します。
真金声按司は沖縄本島南部の喜屋武岬近くの地へ逃れ、そこに城を築いて郷里と同じ名をつけたと云います。
参照記事

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糸満市の具志川城も久米島のものも、共に海に面した段丘・断崖上という立地で、船を係留できる岩場の存在も確認されています。
全体的な構造、雰囲気もどことなく似ているように感じました。

昨年、糸満市の具志川城を訪れてその成り立ちを知り、それならば真金声按司が元いた久米島の具志川城にも行ってみよう、となったのが今回の旅のきっかけ。
とても素晴らしい城跡で、訪問が実現して本当に良かったと思います。

さて、久米島での最後の行程は、ちょっと変わり種で・・・
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こちら、おばけ坂
平成2年頃、ギアをニュートラルに入れて停車していた車が、何故か上り坂に向かって進むという現象が起きたことから話題になったそうです。

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先頭で屈んでいる同行者のいる辺りが坂の鞍部。
その先は上り坂に見えるのに、何故かニュートラルの車が進む、というのですが・・・。
現地の案内板には、周囲の風景や勾配などで引き起こされる錯覚ではないか、ともありましたが、実際に歩いてみた体感では錯覚でも何でもなく、上り坂だったような・・・?
なお、案内板には島の古老の言い伝えとして、宇江城城の攻防で命を落とした兵士の霊が、戦場だったこの辺り一帯を彷徨って引き起こしている現象ではないか、ともありました。

日帰りとはいえ、とっても満喫しました、久米島

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さ、那覇へ帰りますか☆
空港でフライト時間を待ちながら何気なく海を眺めていると、偶然にも遠目に鯨のジャンプする姿を目撃しました!
きっと鯨もお見送りに来てくれたのでしょうね。いい久米島旅の締め括りになりました♪

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無事に那覇へ戻った後は、昨年もお邪魔したこちらのお店で乾杯☆
お料理がどれも美味しく、アットホームでとても雰囲気のいいお店です。好物の人参シリシリも堪能しました。

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2018年3月27日 (火)

沖縄遠征2018 ~久米島(前編)~

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沖縄の旅2日目は早朝、宿から歩いて波上宮への参拝からスタートしました。
琉球八社の一つで、その最上位に格付けされています。

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那覇市内唯一の砂浜、波の上ビーチから見上げる波上宮。
波上(ナンミン)は古くから景勝地としても知られた地で、波上宮はこの地を聖地・拝所として、ニライカナイの神々に祈りを捧げたことに始まるとされます。
第2次大戦で社殿は灰燼に帰しましたが、昭和28年、ハワイの人々の尽力によって再建されました。

波上宮参拝を終えた後は那覇空港へ移動し、最後のメンバーとも合流。

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恐らくは人生初搭乗となるプロペラ機で、いよいよ久米島へ渡ります。

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プロペラ機の機内。
高速バス程度の広さですが、新しいのか清潔感もあり、なかなか快適な乗り心地でした。

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高度を上げて水平飛行している時は安定していたものの・・・
着陸に向けて高度を下げていくに連れ、揺れが結構激しくなりました・・・(^_^;)
(写真は渡嘉敷島上空からの眺め)

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飛行時間僅か30分弱で久米島空港に到着!

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レンタカーを確保し、まず最初に向かったのは久米島博物館。
博物館のすぐ横に伊敷索(チナハ、イシキナハ)城があるのですが、まずは博物館を見学。

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久米島の城(グスク)マップ

久米島には14世紀末頃から按司(アジ、アンジ)と呼ばれる支配層が現れ、各地に城(グスク)を築き始めます。
そして、中山王の系統をひくと云われる按司は伊敷索に城を築いて拠点としました。
この伊敷索按司は徐々に勢力を広げ、長男を宇江城(ウエグスク)に、次男を具志川、三男を登武那覇(トンナハ)に配して久米島全域にその勢力圏を広げていきます。
ところが16世紀初頭、三山を統一した琉球王朝の尚真王の命で久米島の按司は討伐され、それ以降久米島は琉球王国の支配下に治められることになりました。

今回、我々もこれら伊敷索・宇江城・具志川・登武那覇の各グスクを中心に、久米島の名所などをめぐっていきます。
まずは、博物館の目の前にある伊敷索城から。

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伊敷索城、虎口を抜けた先の郭内。
立派な石垣が取り囲みます。

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沖縄地方の石垣、やはり独特ですね。

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石垣を横目に、細長い郭を奥へと進みます。

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郭間を仕切るように低い石垣が横切ります。この奥が主郭。

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主郭の石垣は残存状態も良好で、一段と立派な印象を受けました。

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伊敷索城から北の方角を眺めると、遠くに宇江城城のある宇江城岳が見えていました。
(写真中央やや右奥)

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一端グスクから離れ、お次は奥武島へ。
その道中、あまりの見事な青さに魅せられて撮った1枚。

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ついつい美しい海に目を奪われがちですが、目的はその手前に広がる畳石です。

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奥武島畳石
溶岩が冷えて固まる過程で割れ目(節理)が入り、柱状の岩塊を形成した柱状節理です。
五、六角形の天辺部分だけが地表面に現れ、直径1~2mの柱は地下深くへと続いています。

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こうしてちょっと段差があると、一つ一つが独立した柱状になっていることがわかりますね。

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お昼は畳石近くのお店で、久米島そばをいただきました。

さて、次は登武那覇城へ向かいます。
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中腹の公園に付随した駐車場に車を停めたものの城跡の位置がわからず、間違って山頂まで登ってしまいました。
写真は頂上付近からの眺め。遠くに、はての浜まで見えています。

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実際の城跡は中腹の公園の先端、標柱の奥の藪を掻き分けた先にあります。
ご覧の通り、理由は定かではありませんが、山の中腹の斜面に築かれたグスクでした。

藪の入口があまりにワイルドだったので・・・ハブが怖い私はチャレンジを断念。

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突入した同行者が撮影した、登武那覇城の石垣。
(写真提供:あむさん)

先に述べた通り、登武那覇城には伊敷索按司の三男・笠末若茶良(ガサシワカチャラ)が入れられました。
ところが若茶良は、後に父である伊敷索按司の追討を受けて自害に追い込まれる運命にあります。
この地方には若茶良を唄ったオモロ(歌/沖縄方言の「思い」が語源)が数首残っており、領民に慕われていたことを偲ばせます。

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次の目的地である比屋定バンタへ向かう道すがら、あまりの絶景に思わず車を停めて撮った1枚。右奥にはての浜。

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比屋定バンタ
バンタとは、「崖」や「端」を意味する言葉なのだそうです。
物凄い断崖絶壁から吹き上げる海風がまた強烈で、まともに立っていられないほどでした。

この後は宇江城城へ向かいますが、ここから先は後編へ続きます。

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2018年3月26日 (月)

沖縄遠征2018 ~プロローグ~

3月16~18日、2年連続となる沖縄遠征に出かけてきました。
今回の旅のメインは2日目に渡る久米島ですが、初日は小雨の降る中、首里城周辺を散策します。

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空港からゆいレールで儀保駅まで移動、一部の参加メンバーと合流し、首里城を横目に散策開始。

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琉球王世子の邸宅、中城御殿(ナカグスクウドゥン)の井戸跡。

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中城御殿跡の石垣塀には、アーチ門らしき痕跡も。

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首里城外郭の継世門
国王が死去すると世子はこの門から城内へ入り、世誇殿で王位継承の儀式を執り行ったことにその名を由来します。

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とても見通しの良い坂道を少し下ると・・・

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こんな標柱を見かけたので、ちょっと立ち寄ってみることにしました。

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推定樹齢200年を超えるアカギの大木が、全部で6本自生しているそうです・・・誰が言ったか「六本木」(・ω・)

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根元には凄いコブ。

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大木それぞれに拝所もありました。これらの大木を崇め、祈りを捧げていたのでしょう。
一昔前までは首里城内や周辺に多く自生していまいたが、その殆どは第2次大戦で焼失してしまったようです。

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続いて県の名勝にも指定されている金城町石畳道を下ります。
尚真王の時代に築かれた軍用道「真珠道」の一部になります。

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歴史と風情を感じさせる、とても素敵な古道です。

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石畳道の途中に金城大樋川(カナグスクウフヒージャー)
金城村の共同井戸で、東側には坂道を上下する人馬が樋川の水で喉を潤すための広場もあったそうです。

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石畳道を下り切りました。

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石畳道の直線上に続く細い坂道を南へ、今度は上っていきます。

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上り詰めて振り返った様子・・・かなり高低差があります。
正面奥には、先ほど歩いた石畳道も見えていました。

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繁多川(ハンターガー)
「端(ハンタ)にある井泉」を意味するとされます。地域の生活用水として利用されてきました。

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メーミチー(前道)に残る石垣塀
戦前から残る石垣ですが、その一部は第2次大戦による空爆で破損しています。
なおメーミチーも「真珠道」の一部だったようで、往時は石畳敷きだったそうです。やはり金城町石畳道から谷を挟んでつづく、歴史ある道だったのですね。

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坊主川(ボージガー)
近くにあった神応寺や識名宮にちなんだものとされています・・・坊主が利用していた泉、ということでしょうか。
大変に美味しい水だったそうで、豆腐作りにも利用されていました。

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ちょいちょい道を間違えながらも、なんとか辿り着いた・・・識名宮
琉球八社の一つで、尚元王長子の病気回復に霊験を得て創建されたと伝わります。
尚賢王の代からは毎年1、5、9月の吉日、国王の参拝が慣例となりました。

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識名宮からタクシーでおもろまち駅まで移動し、安里八幡宮を目指して歩いている際に見かけた琉球コーラの自販機。

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安里八幡宮
こちらも琉球八社の一つです。

安里八幡に参拝したところで、この日の散策は終了。
ゆいレールで宿まで移動し、夜は国際通りへ。

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仕事の関係で2日目から合流する1名を除いたメンバー6名で集合し、久米島入りの前夜祭は楽しく盛り上がりました♪

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2018年3月23日 (金)

古木江城

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愛知県愛西市に位置する古木江城

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今も周囲を蓮田が取り囲みますが、この辺りは伊勢長島にも近く、木曽三川が集まる低湿地帯の広がる土地柄でした。

信長公の御舎弟織田彦七、尾州の内こきゑ村に足懸かり拵へ、御居城のところに、志賀御陣に御手塞がりの様体見及び申し、長島より一揆蜂起せしめ、取り懸け、日を逐つて、攻め申し候。既に城内へ攻め込むなり。一揆の手にかゝり侯ては御無念とおぼしめし、御天主へ御上り侯て、
霜月廿一日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり。

(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より抜粋)

元亀元年(1570)11月、織田信長志賀の陣で近江坂本に釘づけにされていると長島の一揆が蜂起し、古木江城を預けられていた信長の弟・伸興は自害に追い込まれました。

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古木江城跡から長島の方角を望む。
右奥に見えている山の麓には、第一次長島攻めでの退却時に、氏家卜全が討死した場所もあります。

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古木江城跡に建つ富岡神社
城の鎮守として、当時から置かれていたものと考えられているようです。

さて、古木江城跡訪問の後は一気に桶狭間まで移動し、太田輝夫先生の講座を拝聴いたしました。
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数年前、太田先生のご著書を参考に古戦場を歩き倒しましたので、ご興味のある方はコチラをご参照ください。

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2018年3月22日 (木)

萩原(天神)の渡しと美濃路

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織田信長斎藤道三と会見した富田の聖徳寺跡付近から、旧美濃路を南東の方角へ向かうとすぐに・・・

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富田の一里塚が見えてきます。
こちらは西側のもので・・・

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美濃路を挟んだ東側にも残ります。

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一里塚が現在もこうして、一対で残っているケースは結構珍しいのではないでしょうか。

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一里塚の脇には、付近の旧道に残っていた道標などが移されていました。

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一里塚から更に南東へ進むと、ほどなく天神神社(一宮市西萩原)に行き当たります。
石碑が示すように、こちらはその昔、木曽川の主流だった日光川の渡し場の一つ、天神の渡しの跡地になります。
天神の渡しは「萩原の渡し」とも呼ばれました。

御立候也、萩原之渡迄廿町計御見送候

「信長公記」天理本によると、聖徳寺での会見を終えた信長と道三は、萩原の渡しまでの廿町計りを同道して見送った、とあります。
廿町は2㎞強で、聖徳寺跡からの距離もほぼ一致します。

一般的に用いられることの多い「信長公記」陽明本では「どこまで」の記述がなく、文意から信長が道三を見送った、と解釈していました(参照記事)が、聖徳寺跡から南東の方角へ進んだとなると、むしろ道三の方が、清須への帰路につく信長を見送った、と理解した方が良さそうです。

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萩原の渡しは尾西市にある天神社との間を結ぶ、直線距離480mほどの渡船場でした。
つまり、この480mがほぼ、当時の日光川の川幅だったことになります。

尾西市の天神社は写真左奥に見える工場の煙突の、更にずっと向こうに位置しています。
この写真に見えている光景は、少なくとも天正14年(1586)の洪水で流路が大きく変わる以前までは、全て川の流れだったことになります。

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日光川の対岸、尾西市の天神社
道三に見送られた信長が日光川を渡り終えた地点、ということになります。

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こちらにも天神の渡し跡の碑が建っていました。

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尾西市側から日光川の旧流域越しに、一宮市の天神神社の方角を望む。
工場の煙突が目印です。

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こちらは現在の日光川。
江戸時代に整備された美濃路は、あちらの橋を通っていました。

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美濃路が通る「はぎわら波志(橋)」
度重なる洪水による流路の変更で日光川の川幅は狭まり、渡船場も廃止されて橋が架けられるようになりました。

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美濃路歩きは桶狭間へ出陣する信長よろしく、清洲から熱田までを歩いたことがありますが、どのポイントも風情があっていいですね。
いずれ、もっと本格的に歩いてみたいと思います。

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2018年3月21日 (水)

墨俣川古戦場と源義円

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小熊の一乗寺を訪れた際、墨俣川合戦の戦死者たちの供養塔を目にしたので・・・

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墨俣川古戦場にも立ち寄ってみました。
碑は義円公園の中に建っています。

墨俣川合戦は治承5年(1181)3月10日(諸説あり)、墨俣川(現在の長良川)を挟んで対峙した源平による戦い。
この合戦で源義朝の八男・義円(母は義経と同じ常盤御前)が命を落としています。

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義円の供養塔

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奇しくも我々が訪れた3月10日は、諸説あるものの合戦のあった義円の命日
この日は毎年、地元の方が供養を続けているそうです。
※1181年の7月に養和へ改元しているので、合戦のあった3月は治承5年。

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そんな訳で我々が訪れると、居合わせた地元の方が義円地蔵のお堂を開けてお参りさせてくださいました。

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義円地蔵
お地蔵さんというよりは、道祖神のような雰囲気を醸していました。

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少し離れた場所に眠る義円の墓所。

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2018年3月20日 (火)

高桑城

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岐阜県岐阜市柳津町の高桑城跡

高桑城は鎌倉時代、高桑氏による築城と推定されています。
高桑氏は代々、美濃国守護の土岐氏に仕えていましたが、大永7年(1527)、斎藤道三に通じた武山氏に城を占拠されて越前へ逃れています。
その数年後には土岐氏も道三に追われ、高桑城はそのまま武山氏の居城となりました。

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現地案内板には「土盛りが残る」とありましたが、どれを指しているのかがわからず、竹藪の周囲も探ってみたのですが・・・とても突入できそうにはないですね、これは(^_^;)

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高桑城跡の近くにある、慈恩寺の観音堂

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この観音堂の基礎部分には、高桑城の城石(石垣?)が用いられているそうです。

高桑城はその後、永禄10年(1567)に織田信長の軍勢によって落城したと云います。

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織田勢に攻められ、この地で自刃した武山氏一党の16名を供養する無念塔。
正面に「永禄戊辰武山党一六士自刃各霊供養塔」と彫られていました。

ちなみに、永禄の戊辰年は永禄11年にあたり、城が落城したと云う同10年とは1年のズレが生じます。
また、無念塔の現地案内板には、高桑城を攻めたのは織田信忠とありましたが、この時点での信忠は11~13歳くらいで、しかも元服前・・・ちょっと考えづらいように思えます。

なかなか史料も少なくて難しそうですが、この辺りはもう少し丁寧に検証してみる必要がありそうですね。

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2018年3月19日 (月)

「小熊」の地蔵菩薩

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今回の旅のスタートはこちら・・・岐阜県羽島市小熊町西小熊にある、小熊山一乗寺からです。

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一乗寺は弘仁10年(819)の創建で、開基はかの弘法大師空海と伝えられる古刹です。
当寺には空海自らが、墨俣川(現長良川)の橋杭を用いて彫ったと云う地蔵菩薩が安置されていました。
源頼朝も文治3年(1187)、その地蔵菩薩に武運長久を祈願し、本堂をはじめとする伽藍の再建にも尽力しています。

ところが永禄11年(1568)12月、地蔵菩薩は織田信長によって岐阜城下へと移されていきました

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一乗寺の地蔵堂
現在の地蔵菩薩像は、慈覚大師による2代目のものと伝えられています。

ちなみに地蔵堂の手前に並べられているのは、源平による墨俣川の戦い(治承5年/1181)に於ける戦死者たちの供養塔です。
合戦は墨俣~西小熊の辺りまでが主戦場となり、一乗寺(西小熊)の近くにあった寺で供養されていましたが、天正14年(1586)の洪水で寺ごと五輪塔も流されて散逸し、後の境川改修工事の際に出土したものが一乗寺に集められました。

・・・話しを地蔵菩薩に戻します。
天正2年(1574)3月初旬のとある夜、地蔵菩薩は信長の枕頭に立って
「元の小熊へ戻りたい」
と告げます。
ところが、これを帰すことを惜しんだ信長は、地蔵菩薩を安置していた城下の地を「小熊」に改めたと云います。

果たして、信長によって岐阜城下へと移された小熊の地蔵菩薩は今、どこにあるのか・・・俄然興味をそそられて調べてみることにしました。
ポイントは信長が、地蔵菩薩を移した岐阜城下の地を「小熊」に改めたという点。

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ここから岐阜市小熊町の存在を知り、更に調べていくうちに・・・

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辿り着いたのが、圓龍寺の山門前に建つ慈恩寺
住所こそ岐阜市大門町になりますが、そのすぐ西側、目の前に小熊町があります。

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織田信長が気に入り、小熊の一乗寺から持ち帰ったと伝えられる木像延命地蔵菩薩
慈恩寺の本尊で、様式からは藤原時代(遣唐使廃止の894年~平家滅亡の1185年まで)後期の作と推定されており、それが本当であれば、835年に亡くなった空海の作とするには無理があるようにも思えるのですが・・・?

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また、前出の圓龍寺の山号は「一乗山」。
なんとなく、一乗寺に通じるものがあるように思えませんか?

小熊から持ち帰った地蔵を安置したからこそ、この地を「小熊」としたのであって、地蔵菩薩が「戻りたい」と言った~云々はそこに尾ひれがつけられたものでしょうが、しかし伝承を辿ることで実際に地蔵菩薩と出会い、そして、やはり伝承通りに地名が残っていたことに、えも言われぬ興奮を覚えました。

ところで、岐阜城周辺では他にも、織田家に関連する史跡をめぐりました。

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こちらは西野不動尊の脇に佇む、濃姫のものと伝わる墓石
現地案内板によると、本能寺の変で信長と運命を共にした濃姫の遺髪を家臣の一人が持ち帰り、この地に埋葬したものとか・・・。

濃姫に関しては確たる記録が殆ど残っておらず、その生涯は多くの謎に包まれたままです。
本能寺で亡くなったとするのも、江戸中期頃に成立した歌舞伎や浄瑠璃の世界でのみで、私も濃姫が本能寺にいた可能性は極めて低いと考えていますが、土地に伝わる伝承の一つとしてご紹介します。

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織田塚
天文16年、織田信秀(信長の父)は稲葉山城を攻めますが、斎藤道三の手痛い反撃に遭って敗走します。
織田塚は、この敗戦による織田方将兵の戦死者たちを、浄泉防(円徳寺の前身)に埋葬したものとも伝えられています。
円徳寺が現在の場所へ移されると織田塚も改装されましたが、その一部が何故、元の場所に残されたままになっているのかは、不勉強につき定かではありません。

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2018年3月 5日 (月)

大河内城の戦い (後編)

前編からのつづきになります。

信長懸け廻し御覧じ、東の山に信長御陣を居ゑさせられ、其の夜、先、町を破らせ、焼き払ひ、

大河内城へ迫った織田信長は、自らの本陣を(大河内城の)東の山に据えました。
公記には東の山とあるだけですが、軍記では;

信長勢陣四方之山々。本陣東方桂瀬山也。

としています。
桂瀬山は松阪市桂瀬町にある丘陵。大河内城跡からは北東2km弱、方角もほぼ一致します。

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桂瀬山、伝織田信長本陣跡。
麓からは15分ほどで登ることができます。

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織田信長腰掛石
元々古墳があったようで、この石もその一部らしいです。

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桂瀬山から大河内城を眺める。
写真ほぼ中央辺りに大河内城跡があります。

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本陣跡から大河内城方向へ放射状に伸びる尾根上には、古道や虎口のような痕跡がそこかしこにありました。

廿八日に四方を懸けまはし御覧じ、

8月28日、信長は諸将を四方の山々に配して大河内城を包囲しました。

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大河内城遠景
写真右(北)が大手、左(南)が搦手になります。

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大河内城略図
今回、我々は大手から登ることにしました。

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大手口
谷底を登っていくような感じで、略図に櫓と書かれた曲輪に左右から見下ろされています。

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東側の櫓先端部
三段ほどの平坦地が階段状に連なっていました。

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東側から大手道を見下ろした様子。

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続いて西側へ。
右の谷底が、先ほど登ってきた大手道。こうして左右の高所から大手口を、監視・防衛する構造になっています。

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西側の櫓先端部へ向かう途中に切られた堀切。

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この堀切から尾根の側面を回り込むようにして進むと・・・

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西側の櫓先端部へ出ます。
東西共に、先端部は一段低くなっていました。
振り返った時の切岸がなかなか見事です。

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こちらは火薬庫跡手前に切られた堀切。
薬研状の鋭利な角度がとても美しい堀切でした。

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火薬庫跡
写真左の土塁上にもう一段あり、二段構成になっていました。高い土塁で保護してあり、如何にもといった印象です。
写真正面の土塁の奥が、先ほどの堀切になります。

包囲完了後、大河内城をめぐる攻防戦は;

9月8日
夜に稲葉一鉄、池田恒興、丹羽長秀らに搦手からの攻撃を命じるも、雨で鉄砲を用いることができずに撤退。

9月9日
滝川一益に命じて、北畠氏の本拠・多芸城(霧山城)を焼き討ち。

といった経過を辿りますが、この後の両軍が和睦するまでの一ヶ月間については、公記は何ら両軍の動きを伝えてはくれません。
しかし軍記には10月上旬、滝川一益が西方の魔虫谷(マムシ谷)と呼ばれる谷間から攻め登ったとあります。

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そのマムシ谷
火薬庫と西の丸の間の谷間になります。

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谷底を進むと、城内側との圧倒的な高低差が眼前に迫ります。
こうして大きな高低差のある城内から際限なく弓・鉄砲を撃ちかけられ、滝川勢は斃れた人馬が谷を埋めたと表現されるほどの苦戦にも立ち向かい、何度も攻め登る激戦となったようです。

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マムシ谷から見上げる西の丸先の堀切。
あそこから登って城内へ戻ります。

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その堀切

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城内側から見下ろすマムシ谷。
攻め寄せる滝川勢を迎え撃つ籠城兵の目線。

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西の丸と本丸間の堀切。
マムシ谷の最奥でもあります。マムシ谷を攻略されると、こうしてすぐに主郭部へ迫られてしまうのですから、防戦する側も必死だったでしょうね。

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西の丸
高低差や曲輪の配置からは、むしろこちらの方が本丸のようにも感じられました。

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本丸に建つ大河内合戦四百年記念

つづいて出丸方面へ向かいます。

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本丸南側の谷を挟み、西へ張り出した稜線の先端に築かれた、見張り台のような小曲輪との間を断ち切る堀切。

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その小曲輪
狭いながらもちゃんと、城外に向けてΓ字に土塁が築かれていました。

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最南端部へ向かう手前に切られた二重?の堀切。
どこが二重?と言われると・・・

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よ~く見ると、堀底に土塁のようなものが1本、竪に通っているから・・・(^_^;)

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城域最南端部の曲輪跡

2時間以上かけてじっくりと、ほぼ全域を観てまわることができました。
大河内城、なかなか見応えがあります。

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麓の西蓮寺に建つ、北畠氏の供養碑。

下山した後、伊勢自動車道を挟んだ南西側の尾根上にも出城のような痕跡があるとのことなので、今度はそちらにも行ってみました。

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歩道橋で高速道路を渡り、獣除けのフェンスから10分ほど登った先のピークには、いかにも急拵えといった印象の甘い削平地がいくつかあり、写真のような堀切も確認できました。
更には・・・

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削平地間を連結するかのように、土塁のようなものが渡されている様子も確認できました。
これらの土塁は、大河内城の方向に面しています。
大河内城の外郭になるのかもしれませんが、それにしてはあまりに急拵えな感が否めず、城内の遺構に比しても造成・作り込みが甘いことなどから、これらの遺構は織田方の包囲陣の痕跡、いわゆる仕寄ではないかと思えてきました。

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そうなると、大河内城に面して築かれたこれらの土塁のようなものは、ひょっともすると・・・

四方しゝ垣二重三重結はせられ、緒口の通路をとめ、

大河内城包囲のために信長が築かせたと云う、二重三重しゝ垣の一部である可能性も出てくるのではないでしょうか・・・とても興味深い遺構に出会えました。
※しし垣…害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に石や土などで築いた垣のこと。

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ピークは藪で視界が効かないため、少し下った場所からの大河内城の眺め。

既に端々餓死に及ぶに付いて、種々御侘言して、信長公の御二男、お茶箋へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて、
十月四日、大河内の城、滝川左近・津田掃部両人に相渡し、国司父子は、笠木・坂ないと申す所へ退城侯ひしなり。


見てきたように、織田方は無理な城攻めを繰り返して焦りのようなものも感じられますし、決して公記が記すように北畠氏側が一方的に種々御侘言するような戦況ではなかったと思われますが、籠城側も兵糧の不安があったのは事実だったようで、織田の大軍を向こうにまわして戦い続けるのも成り難く、信長の次男・茶筅丸(後の信雄)を具房の養嗣子とすることで和睦が成立しました。

和睦成立後、信長は田丸城を始めとする伊勢国中の城の破却(田丸城は後に信雄が拠点を移して改修)、及び人々の往来の妨げとなっていた関所・関銭(通行税)の撤廃などを命じ、自身は伊勢神宮へ参拝してから岐阜へと帰りました。

茶筅丸は一旦、船江の薬師寺へ預けられますが、和睦成立後も件の船江勢が抵抗を続けていたため、滝川一益も同じ船江の浄泉寺に入ってその処置にあたりました。

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茶筅丸が最初に預けられた薬師寺
伊勢路に面して建てられています。

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本堂は承応2年(1653)の創建と伝わります。

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そして一益が入った浄泉寺
前編の記事でも書いた通り、現在のお寺は船江城跡に建っていますが、浄泉寺は永禄12年当時も場所こそ違え、すぐ近くにあったようです。

和睦成立後、北畠父子が船江に出向き、薬師寺において茶筅丸との対面を果たしました。

さて、大河内城の戦いをめぐる旅も終了です。
今回もご案内いただいた方や、同行の方々にもお世話になりました。ありがとうございました。

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2018年3月 4日 (日)

大河内城の戦い (前編)

2月最後の週末は三重県にお邪魔し、織田信長と伊勢国司・北畠氏との間で行われた大河内城の戦い関連地をめぐってきました。
信長公記(以下:公記)」の記述を中心にしつつも、続群書類従に収録されている「勢州軍記(以下:軍記)」には公記とはまた違った合戦の様子が描かれており、そちらの内容も織り交ぜつつ、旅の行程とは順序が異なりますが、合戦の経過に沿って進めていきたいと思います。
※記事中、公記からの引用は青文字、軍記は緑文字で記します。

織田信長は永禄11年(1568)頃までに伊坂・市場・釆女などの各城を落とし、伊勢北部を押さえていきます。
そして翌永禄12年5月には、木造城主で北畠一族でもある木造具政が織田方へ寝返りました。

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本丸跡地に建つ木造城址

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その城址碑のある土盛・・・土塁の残欠か?

木造城跡めぐりには、1620年代頃に描かれたと思われる古絵図を用いました。

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本丸の南西、光(興)正院跡周囲の堀の名残り。

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そして光正院を取り巻いていた土塁。
右奥の竹藪の部分も全て土塁です。

木造具政の寝返りには、源浄院主玄(後の滝川雄利)や柘植三郎左衛門の献策があったと云われていますが、古絵図には本丸の近くに柘植の屋敷や、主玄がいたであろう源浄院も描かれています。

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民家の塀代わりになっている、城域南西端の土塁。
この先に雲出川が流れています。

木造氏の離反を知った北畠氏は、柘植の息女らを木造近邊雲出川端にて処刑し、木造城を攻撃しました。

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木造城跡から雲出川方向の眺め。
この視線の先に、処刑された人質たちの姿があったのでしょうか・・・。

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木造氏の菩提寺、引接寺。

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境内にはキリシタン灯篭もありました。

北畠軍による木造城攻めは、籠城側に織田方からの援軍もあって攻略には至らず、信長が出陣する頃までには引き上げて、大河内城を中心とした防戦体制へと移っています。

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木造城跡めぐりの後、松阪市の須賀城跡にも連れて行っていただきましたので、そちらもちょっとご紹介。

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立派な土塁が残っていました。

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残存する土塁はごく一部で、城域全体の規模は推測の域を出ませんが、それにしても立派な土塁でした。

木造氏の寝返りを受けて織田信長は同年8月20日、7万とも云われる大軍を擁して岐阜を出陣しました。
その日は桑名まで進軍し、そこで2日間逗留した後、更に南へ進みます。

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近鉄白子駅より、伊勢路を南の方向へ歩いてみます。
桑名を出た信長も、おそらくは通ったであろう旧街道です。

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街道沿いには紀州藩白子代官所跡も。
この辺りは紀州藩の飛び地だったようです。

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伊勢神宮へお参りする人々が道に迷わないように、と建てられた道標。

廿二日、白子観音寺に御陣を懸けられ、

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織田信長が永禄12年8月22日に宿陣した白子観音寺白子山子安観音寺
聖武天皇の時代に創建された勅願寺です。

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子安観音寺は、伊勢路から少し北へ入った場所にあります。

廿三日、小作に御着陣。

子安観音寺を出た信長は、翌23日には先にご紹介した木造城に入ります。
近くを伊勢路が通っていますので、信長も木造城まではおおよそ伊勢路のルートで進軍してきたものと思われます。

木造城で北畠氏攻めの具体的な作戦を決定、指示していったのでしょう。
源浄院、柘植の案内で八田城を包囲・攻略し、阿坂城へは使者を派遣して降伏を迫りますが、阿坂城側はこれを拒否します。(軍記)

勧告拒否を受けて信長は8月26日(軍記では27日)、木下秀吉を先陣として阿坂城を攻めます。
この攻城戦は、秀吉自ら堀際まで攻め寄せて薄手を被るほどの激しいものとなり、阿坂城は即日降伏開城しました。

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阿坂城へは行程の都合で行きませんでしたが、その出城と考えられている高城には行ってきました。
写真は、高城付近から見上げる阿坂城。

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高城の主郭には、規模の大きな土塁が廻らされていました。

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主郭北西端の櫓台跡から、西側の虎口。

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北へ伸びる細くて急勾配な尾根を下ると、二重の堀切もありました。
高城、なかなか見応えのある遺構が残されています。

是れよりわきゝゝの小城へは御手遣もなく、直ちに奥へ御通り侯て、国司父子楯籠られ侯大河内の城とり詰め、

公記には阿坂城攻略後、他の小城には目もくれずに北畠氏の籠る大河内城へ向かったとあり、その間の動きについては特に触れられていません。
ところが、軍記には阿坂城攻めの前夜(昨二十六日夜…25日か)、進軍していた先鋒の軍勢を阿坂城攻めのために呼び戻した際(攻阿坂城告先勢呼返之時)に、船江城から出撃した北畠方の軍勢が小金塚という地で織田勢を襲撃し、痛手を負わせたエピソードが載っていて、この船江勢は翌日廿七日夜(26日か)にも織田軍が大河内城へ向かう際(つまり、公記でいう直ちに奥へ御通り侯ている際)、やはり小金塚で待ち受けて戦闘になったとあります。
この時は、さすがに信長も用心していたので奇襲は失敗し、今度は船江勢が不覚をとる番になったのだとか。

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小金塚近くに建つ法蔵寺(松阪市深長町)

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その山門前に移設された「小金塚」の五輪塔。
江戸時代の正保年間に建立されたようです。深長町と伊勢寺町の境付近に建っていましたが、周辺の開発に伴い、こちらへ移されてきました。
移設前の場所は法蔵寺の西方にあたるのですが、北方にも「小金」という地名があり、そこに黄金塚神社という名の神社もあります・・・まだ謎が残りますが、いずれにしても法蔵寺付近一帯を指しているのは間違いなさそうです。

※その後、フォロワーのるーちんさんの調べにより、合戦のあった場所について地元の地誌類には、「曲(村)と深長(村)の間」「上ノ庄の内」などとあることが判りました。
これらから判断する限り、やはり法蔵寺北方の黄金塚神社の辺りが古戦場であった可能性が高そうです。
(2018年3月追記)

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法蔵寺前から眺める阿坂城。

船江(松阪市船江町)は伊勢路も通る地域で、軍記も船江通南方(すなわち大河内城方面)への通路としています。
そのため、城主・本田氏の他にも多くの援軍が加わっていました。

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船江を通る伊勢路。

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道中、立派な常夜灯も見かけました。

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伊勢路のほど近くに建つ浄泉寺
ここが船江城の跡地と伝えられています。遺構は残りませんが、寺の周囲が堀の名残りを思わせる楕円形の区画になっていて、側溝が通っていました。

奇襲もあってか信長は船江城を警戒し、あえて攻略しようとはせずに伊勢路を避け、西方の山際を通って大河内城へ向かったようです。
これが、公記のいうわきゝゝの小城へは御手遣もなく、直ちに大河内城へ向かった真相になりますでしょうか。
※先にご紹介した須賀城も、わきゝゝの小城の一つになるのかもしれませんね。

軍記によれば船江衆はこの後、9月上旬にも丹生寺に布陣していた氏家卜全の陣所に夜襲をかけて痛手を負わせる活躍をしています。
丹生寺は後編の記事で触れる信長本陣のすぐ近く・・・事実であれば、織田方にとっては忌々しき事態です。
(但し、公記では卜全の布陣地を大河内城の西としており、全く一致しません

更には和睦成立後、信長は伊勢神宮へ参拝するのですが、船江衆はその帰路にも鉄砲を少々撃ちかけたとあります。
まさに獅子奮迅といった活躍ぶりで、北畠勢の中でも傑出した存在のように語られています。

(後編へつづきます)

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