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2018年3月22日 (木)

萩原(天神)の渡しと美濃路

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織田信長斎藤道三と会見した富田の聖徳寺跡付近から、旧美濃路を南東の方角へ向かうとすぐに・・・

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富田の一里塚が見えてきます。
こちらは西側のもので・・・

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美濃路を挟んだ東側にも残ります。

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一里塚が現在もこうして、一対で残っているケースは結構珍しいのではないでしょうか。

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一里塚の脇には、付近の旧道に残っていた道標などが移されていました。

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一里塚から更に南東へ進むと、ほどなく天神神社(一宮市西萩原)に行き当たります。
石碑が示すように、こちらはその昔、木曽川の主要な流れの一つでもあった日光川の渡し場天神の渡しの跡地になります。
天神の渡しは「萩原の渡し」とも呼ばれました。

御立候也、萩原之渡迄廿町計御見送候

「信長公記」天理本によると、聖徳寺での会見を終えた信長と道三は、萩原の渡しまでの廿町計りを同道して見送った、とあります。
廿町は2㎞強で、聖徳寺跡からの距離もほぼ一致します。

一般的に用いられることの多い「信長公記」陽明本では「どこまで」の記述がなく、文意から信長が道三を見送った、と解釈していました(参照記事)が、聖徳寺跡から南東の方角へ進んだとなると、むしろ道三の方が、清須への帰路につく信長を見送った、と理解した方が良さそうです。

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萩原の渡しは尾西市にある天神社との間を結ぶ、直線距離480mほどの渡船場でした。
つまり、この480mがほぼ、当時の日光川の川幅だったことになります。

尾西市の天神社は写真左奥に見える工場の煙突の、更にずっと向こうに位置しています。
この写真に見えている光景は、少なくとも天正14年(1586)の洪水で流路が大きく変わる以前までは、全て川の流れだったことになります。

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日光川の対岸、尾西市の天神社
道三に見送られた信長が日光川を渡り終えた地点、ということになります。

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こちらにも天神の渡し跡の碑が建っていました。

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尾西市側から日光川の旧流域越しに、一宮市の天神神社の方角を望む。
工場の煙突が目印です。

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こちらは現在の日光川。
江戸時代に整備された美濃路は、あちらの橋を通っていました。

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美濃路が通る「はぎわら波志(橋)」
度重なる洪水による流路の変更で日光川の川幅は狭まり、渡船場も廃止されて橋が架けられるようになりました。

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美濃路歩きは桶狭間へ出陣する信長よろしく、清洲から熱田までを歩いたことがありますが、どのポイントも風情があっていいですね。
いずれ、もっと本格的に歩いてみたいと思います。

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