萩原(天神)の渡しと美濃路
織田信長が斎藤道三と会見した富田の聖徳寺跡付近から、旧美濃路を南東の方角へ向かうとすぐに・・・
富田の一里塚が見えてきます。
こちらは西側のもので・・・
美濃路を挟んだ東側にも残ります。
一里塚が現在もこうして、一対で残っているケースは結構珍しいのではないでしょうか。
一里塚の脇には、付近の旧道に残っていた道標などが移されていました。
一里塚から更に南東へ進むと、ほどなく天神神社(一宮市西萩原)に行き当たります。
石碑が示すように、こちらはその昔、木曽川の主要な流れの一つでもあった日光川の渡し場、天神の渡しの跡地になります。
天神の渡しは「萩原の渡し」とも呼ばれました。
御立候也、萩原之渡迄廿町計御見送候
「信長公記」天理本によると、聖徳寺での会見を終えた信長と道三は、萩原の渡しまでの廿町計りを同道して見送った、とあります。
廿町は2㎞強で、聖徳寺跡からの距離もほぼ一致します。
一般的に用いられることの多い「信長公記」陽明本では「どこまで」の記述がなく、文意から信長が道三を見送った、と解釈していました(参照記事)が、聖徳寺跡から南東の方角へ進んだとなると、むしろ道三の方が、清須への帰路につく信長を見送った、と理解した方が良さそうです。
萩原の渡しは尾西市にある天神社との間を結ぶ、直線距離480mほどの渡船場でした。
つまり、この480mがほぼ、当時の日光川の川幅だったことになります。
尾西市の天神社は写真左奥に見える工場の煙突の、更にずっと向こうに位置しています。
この写真に見えている光景は、少なくとも天正14年(1586)の洪水で流路が大きく変わる以前までは、全て川の流れだったことになります。
日光川の対岸、尾西市の天神社。
道三に見送られた信長が日光川を渡り終えた地点、ということになります。
こちらにも天神の渡し跡の碑が建っていました。
尾西市側から日光川の旧流域越しに、一宮市の天神神社の方角を望む。
工場の煙突が目印です。
こちらは現在の日光川。
江戸時代に整備された美濃路は、あちらの橋を通っていました。
美濃路が通る「はぎわら波志(橋)」
度重なる洪水による流路の変更で日光川の川幅は狭まり、渡船場も廃止されて橋が架けられるようになりました。
美濃路歩きは桶狭間へ出陣する信長よろしく、清洲から熱田までを歩いたことがありますが、どのポイントも風情があっていいですね。
いずれ、もっと本格的に歩いてみたいと思います。
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