大河内城の戦い (後編)
前編からのつづきになります。
信長懸け廻し御覧じ、東の山に信長御陣を居ゑさせられ、其の夜、先、町を破らせ、焼き払ひ、
大河内城へ迫った織田信長は、自らの本陣を(大河内城の)東の山に据えました。
公記には東の山とあるだけですが、軍記では;
信長勢陣四方之山々。本陣東方桂瀬山也。
としています。
桂瀬山は松阪市桂瀬町にある丘陵。大河内城跡からは北東2km弱、方角もほぼ一致します。

桂瀬山、伝織田信長本陣跡。
麓からは15分ほどで登ることができます。

織田信長腰掛石
元々古墳があったようで、この石もその一部らしいです。

桂瀬山から大河内城を眺める。
写真ほぼ中央辺りに大河内城跡があります。

本陣跡から大河内城方向へ放射状に伸びる尾根上には、古道や虎口のような痕跡がそこかしこにありました。
廿八日に四方を懸けまはし御覧じ、
8月28日、信長は諸将を四方の山々に配して大河内城を包囲しました。

大河内城遠景
写真右(北)が大手、左(南)が搦手になります。

大河内城略図
今回、我々は大手から登ることにしました。

大手口
谷底を登っていくような感じで、略図に櫓と書かれた曲輪に左右から見下ろされています。

東側の櫓先端部
三段ほどの平坦地が階段状に連なっていました。

東側から大手道を見下ろした様子。

続いて西側へ。
右の谷底が、先ほど登ってきた大手道。こうして左右の高所から大手口を、監視・防衛する構造になっています。

西側の櫓先端部へ向かう途中に切られた堀切。

この堀切から尾根の側面を回り込むようにして進むと・・・

西側の櫓先端部へ出ます。
東西共に、先端部は一段低くなっていました。
振り返った時の切岸がなかなか見事です。

こちらは火薬庫跡手前に切られた堀切。
薬研状の鋭利な角度がとても美しい堀切でした。

火薬庫跡
写真左の土塁上にもう一段あり、二段構成になっていました。高い土塁で保護してあり、如何にもといった印象です。
写真正面の土塁の奥が、先ほどの堀切になります。
包囲完了後、大河内城をめぐる攻防戦は;
9月8日
夜に稲葉一鉄、池田恒興、丹羽長秀らに搦手からの攻撃を命じるも、雨で鉄砲を用いることができずに撤退。
9月9日
滝川一益に命じて、北畠氏の本拠・多芸城(霧山城)を焼き討ち。
といった経過を辿りますが、この後の両軍が和睦するまでの一ヶ月間については、公記は何ら両軍の動きを伝えてはくれません。
しかし軍記には10月上旬、滝川一益が西方の魔虫谷(マムシ谷)と呼ばれる谷間から攻め登ったとあります。

そのマムシ谷
火薬庫と西の丸の間の谷間になります。

谷底を進むと、城内側との圧倒的な高低差が眼前に迫ります。
こうして大きな高低差のある城内から際限なく弓・鉄砲を撃ちかけられ、滝川勢は斃れた人馬が谷を埋めたと表現されるほどの苦戦にも立ち向かい、何度も攻め登る激戦となったようです。

マムシ谷から見上げる西の丸先の堀切。
あそこから登って城内へ戻ります。

その堀切

城内側から見下ろすマムシ谷。
攻め寄せる滝川勢を迎え撃つ籠城兵の目線。

西の丸と本丸間の堀切。
マムシ谷の最奥でもあります。マムシ谷を攻略されると、こうしてすぐに主郭部へ迫られてしまうのですから、防戦する側も必死だったでしょうね。

西の丸
高低差や曲輪の配置からは、むしろこちらの方が本丸のようにも感じられました。

本丸に建つ大河内合戦四百年記念碑
つづいて出丸方面へ向かいます。

本丸南側の谷を挟み、西へ張り出した稜線の先端に築かれた、見張り台のような小曲輪との間を断ち切る堀切。

その小曲輪
狭いながらもちゃんと、城外に向けてΓ字に土塁が築かれていました。

最南端部へ向かう手前に切られた二重?の堀切。
どこが二重?と言われると・・・

よ~く見ると、堀底に土塁のようなものが1本、竪に通っているから・・・(^_^;)

城域最南端部の曲輪跡
2時間以上かけてじっくりと、ほぼ全域を観てまわることができました。
大河内城、なかなか見応えがあります。

麓の西蓮寺に建つ、北畠氏の供養碑。
下山した後、伊勢自動車道を挟んだ南西側の尾根上にも出城のような痕跡があるとのことなので、今度はそちらにも行ってみました。

歩道橋で高速道路を渡り、獣除けのフェンスから10分ほど登った先のピークには、いかにも急拵えといった印象の甘い削平地がいくつかあり、写真のような堀切も確認できました。
更には・・・

削平地間を連結するかのように、土塁のようなものが渡されている様子も確認できました。
これらの土塁は、大河内城の方向に面しています。
大河内城の外郭になるのかもしれませんが、それにしてはあまりに急拵えな感が否めず、城内の遺構に比しても造成・作り込みが甘いことなどから、これらの遺構は織田方の包囲陣の痕跡、いわゆる仕寄ではないかと思えてきました。

そうなると、大河内城に面して築かれたこれらの土塁のようなものは、ひょっともすると・・・
四方しゝ垣二重三重結はせられ、緒口の通路をとめ、
大河内城包囲のために信長が築かせたと云う、二重三重のしゝ垣の一部である可能性も出てくるのではないでしょうか・・・とても興味深い遺構に出会えました。
※しし垣…害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に石や土などで築いた垣のこと。

ピークは藪で視界が効かないため、少し下った場所からの大河内城の眺め。
既に端々餓死に及ぶに付いて、種々御侘言して、信長公の御二男、お茶箋へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて、
十月四日、大河内の城、滝川左近・津田掃部両人に相渡し、国司父子は、笠木・坂ないと申す所へ退城侯ひしなり。
見てきたように、織田方は無理な城攻めを繰り返して焦りのようなものも感じられますし、決して公記が記すように北畠氏側が一方的に種々御侘言するような戦況ではなかったと思われますが、籠城側も兵糧の不安があったのは事実だったようで、織田の大軍を向こうにまわして戦い続けるのも成り難く、信長の次男・茶筅丸(後の信雄)を具房の養嗣子とすることで和睦が成立しました。
和睦成立後、信長は田丸城を始めとする伊勢国中の城の破却(田丸城は後に信雄が拠点を移して改修)、及び人々の往来の妨げとなっていた関所・関銭(通行税)の撤廃などを命じ、自身は伊勢神宮へ参拝してから岐阜へと帰りました。
茶筅丸は一旦、船江の薬師寺へ預けられますが、和睦成立後も件の船江勢が抵抗を続けていたため、滝川一益も同じ船江の浄泉寺に入ってその処置にあたりました。

茶筅丸が最初に預けられた薬師寺。
伊勢路に面して建てられています。

本堂は承応2年(1653)の創建と伝わります。

そして一益が入った浄泉寺。
前編の記事でも書いた通り、現在のお寺は船江城跡に建っていますが、浄泉寺は永禄12年当時も場所こそ違え、すぐ近くにあったようです。
和睦成立後、北畠父子が船江に出向き、薬師寺において茶筅丸との対面を果たしました。
さて、大河内城の戦いをめぐる旅も終了です。
今回もご案内いただいた方や、同行の方々にもお世話になりました。ありがとうございました。
信長懸け廻し御覧じ、東の山に信長御陣を居ゑさせられ、其の夜、先、町を破らせ、焼き払ひ、
大河内城へ迫った織田信長は、自らの本陣を(大河内城の)東の山に据えました。
公記には東の山とあるだけですが、軍記では;
信長勢陣四方之山々。本陣東方桂瀬山也。
としています。
桂瀬山は松阪市桂瀬町にある丘陵。大河内城跡からは北東2km弱、方角もほぼ一致します。

桂瀬山、伝織田信長本陣跡。
麓からは15分ほどで登ることができます。

織田信長腰掛石
元々古墳があったようで、この石もその一部らしいです。

桂瀬山から大河内城を眺める。
写真ほぼ中央辺りに大河内城跡があります。

本陣跡から大河内城方向へ放射状に伸びる尾根上には、古道や虎口のような痕跡がそこかしこにありました。
廿八日に四方を懸けまはし御覧じ、
8月28日、信長は諸将を四方の山々に配して大河内城を包囲しました。

大河内城遠景
写真右(北)が大手、左(南)が搦手になります。

大河内城略図
今回、我々は大手から登ることにしました。

大手口
谷底を登っていくような感じで、略図に櫓と書かれた曲輪に左右から見下ろされています。

東側の櫓先端部
三段ほどの平坦地が階段状に連なっていました。

東側から大手道を見下ろした様子。

続いて西側へ。
右の谷底が、先ほど登ってきた大手道。こうして左右の高所から大手口を、監視・防衛する構造になっています。

西側の櫓先端部へ向かう途中に切られた堀切。

この堀切から尾根の側面を回り込むようにして進むと・・・

西側の櫓先端部へ出ます。
東西共に、先端部は一段低くなっていました。
振り返った時の切岸がなかなか見事です。

こちらは火薬庫跡手前に切られた堀切。
薬研状の鋭利な角度がとても美しい堀切でした。

火薬庫跡
写真左の土塁上にもう一段あり、二段構成になっていました。高い土塁で保護してあり、如何にもといった印象です。
写真正面の土塁の奥が、先ほどの堀切になります。
包囲完了後、大河内城をめぐる攻防戦は;
9月8日
夜に稲葉一鉄、池田恒興、丹羽長秀らに搦手からの攻撃を命じるも、雨で鉄砲を用いることができずに撤退。
9月9日
滝川一益に命じて、北畠氏の本拠・多芸城(霧山城)を焼き討ち。
といった経過を辿りますが、この後の両軍が和睦するまでの一ヶ月間については、公記は何ら両軍の動きを伝えてはくれません。
しかし軍記には10月上旬、滝川一益が西方の魔虫谷(マムシ谷)と呼ばれる谷間から攻め登ったとあります。

そのマムシ谷
火薬庫と西の丸の間の谷間になります。

谷底を進むと、城内側との圧倒的な高低差が眼前に迫ります。
こうして大きな高低差のある城内から際限なく弓・鉄砲を撃ちかけられ、滝川勢は斃れた人馬が谷を埋めたと表現されるほどの苦戦にも立ち向かい、何度も攻め登る激戦となったようです。

マムシ谷から見上げる西の丸先の堀切。
あそこから登って城内へ戻ります。

その堀切

城内側から見下ろすマムシ谷。
攻め寄せる滝川勢を迎え撃つ籠城兵の目線。

西の丸と本丸間の堀切。
マムシ谷の最奥でもあります。マムシ谷を攻略されると、こうしてすぐに主郭部へ迫られてしまうのですから、防戦する側も必死だったでしょうね。

西の丸
高低差や曲輪の配置からは、むしろこちらの方が本丸のようにも感じられました。

本丸に建つ大河内合戦四百年記念碑
つづいて出丸方面へ向かいます。

本丸南側の谷を挟み、西へ張り出した稜線の先端に築かれた、見張り台のような小曲輪との間を断ち切る堀切。

その小曲輪
狭いながらもちゃんと、城外に向けてΓ字に土塁が築かれていました。

最南端部へ向かう手前に切られた二重?の堀切。
どこが二重?と言われると・・・

よ~く見ると、堀底に土塁のようなものが1本、竪に通っているから・・・(^_^;)

城域最南端部の曲輪跡
2時間以上かけてじっくりと、ほぼ全域を観てまわることができました。
大河内城、なかなか見応えがあります。

麓の西蓮寺に建つ、北畠氏の供養碑。
下山した後、伊勢自動車道を挟んだ南西側の尾根上にも出城のような痕跡があるとのことなので、今度はそちらにも行ってみました。

歩道橋で高速道路を渡り、獣除けのフェンスから10分ほど登った先のピークには、いかにも急拵えといった印象の甘い削平地がいくつかあり、写真のような堀切も確認できました。
更には・・・

削平地間を連結するかのように、土塁のようなものが渡されている様子も確認できました。
これらの土塁は、大河内城の方向に面しています。
大河内城の外郭になるのかもしれませんが、それにしてはあまりに急拵えな感が否めず、城内の遺構に比しても造成・作り込みが甘いことなどから、これらの遺構は織田方の包囲陣の痕跡、いわゆる仕寄ではないかと思えてきました。

そうなると、大河内城に面して築かれたこれらの土塁のようなものは、ひょっともすると・・・
四方しゝ垣二重三重結はせられ、緒口の通路をとめ、
大河内城包囲のために信長が築かせたと云う、二重三重のしゝ垣の一部である可能性も出てくるのではないでしょうか・・・とても興味深い遺構に出会えました。
※しし垣…害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に石や土などで築いた垣のこと。

ピークは藪で視界が効かないため、少し下った場所からの大河内城の眺め。
既に端々餓死に及ぶに付いて、種々御侘言して、信長公の御二男、お茶箋へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて、
十月四日、大河内の城、滝川左近・津田掃部両人に相渡し、国司父子は、笠木・坂ないと申す所へ退城侯ひしなり。
見てきたように、織田方は無理な城攻めを繰り返して焦りのようなものも感じられますし、決して公記が記すように北畠氏側が一方的に種々御侘言するような戦況ではなかったと思われますが、籠城側も兵糧の不安があったのは事実だったようで、織田の大軍を向こうにまわして戦い続けるのも成り難く、信長の次男・茶筅丸(後の信雄)を具房の養嗣子とすることで和睦が成立しました。
和睦成立後、信長は田丸城を始めとする伊勢国中の城の破却(田丸城は後に信雄が拠点を移して改修)、及び人々の往来の妨げとなっていた関所・関銭(通行税)の撤廃などを命じ、自身は伊勢神宮へ参拝してから岐阜へと帰りました。
茶筅丸は一旦、船江の薬師寺へ預けられますが、和睦成立後も件の船江勢が抵抗を続けていたため、滝川一益も同じ船江の浄泉寺に入ってその処置にあたりました。

茶筅丸が最初に預けられた薬師寺。
伊勢路に面して建てられています。

本堂は承応2年(1653)の創建と伝わります。

そして一益が入った浄泉寺。
前編の記事でも書いた通り、現在のお寺は船江城跡に建っていますが、浄泉寺は永禄12年当時も場所こそ違え、すぐ近くにあったようです。
和睦成立後、北畠父子が船江に出向き、薬師寺において茶筅丸との対面を果たしました。
さて、大河内城の戦いをめぐる旅も終了です。
今回もご案内いただいた方や、同行の方々にもお世話になりました。ありがとうございました。
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