高桑城

岐阜県岐阜市柳津町の高桑城跡。
高桑城は鎌倉時代、高桑氏による築城と推定されています。
高桑氏は代々、美濃国守護の土岐氏に仕えていましたが、大永7年(1527)、斎藤道三に通じた武山氏に城を占拠されて越前へ逃れています。
その数年後には土岐氏も道三に追われ、高桑城はそのまま武山氏の居城となりました。

現地案内板には「土盛りが残る」とありましたが、どれを指しているのかがわからず、竹藪の周囲も探ってみたのですが・・・とても突入できそうにはないですね、これは(^_^;)

高桑城跡の近くにある、慈恩寺の観音堂。

この観音堂の基礎部分には、高桑城の城石(石垣?)が用いられているそうです。
高桑城はその後、永禄10年(1567)に織田信長の軍勢によって落城したと云います。

織田勢に攻められ、この地で自刃した武山氏一党の16名を供養する無念塔。
正面に「永禄戊辰武山党一六士自刃各霊供養塔」と彫られていました。
ちなみに、永禄の戊辰年は永禄11年にあたり、城が落城したと云う同10年とは1年のズレが生じます。
また、無念塔の現地案内板には、高桑城を攻めたのは織田信忠とありましたが、この時点での信忠は11~13歳くらいで、しかも元服前・・・ちょっと考えづらいように思えます。
なかなか史料も少なくて難しそうですが、この辺りはもう少し丁寧に検証してみる必要がありそうですね。
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