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2018年3月 4日 (日)

大河内城の戦い (前編)

2月最後の週末は三重県にお邪魔し、織田信長と伊勢国司・北畠氏との間で行われた大河内城の戦い関連地をめぐってきました。
信長公記(以下:公記)」の記述を中心にしつつも、続群書類従に収録されている「勢州軍記(以下:軍記)」には公記とはまた違った合戦の様子が描かれており、そちらの内容も織り交ぜつつ、旅の行程とは順序が異なりますが、合戦の経過に沿って進めていきたいと思います。
※記事中、公記からの引用は青文字、軍記は緑文字で記します。

織田信長は永禄11年(1568)頃までに伊坂・市場・釆女などの各城を落とし、伊勢北部を押さえていきます。
そして翌永禄12年5月には、木造城主で北畠一族でもある木造具政が織田方へ寝返りました。

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本丸跡地に建つ木造城址

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その城址碑のある土盛・・・土塁の残欠か?

木造城跡めぐりには、1620年代頃に描かれたと思われる古絵図を用いました。

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本丸の南西、光(興)正院跡周囲の堀の名残り。

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そして光正院を取り巻いていた土塁。
右奥の竹藪の部分も全て土塁です。

木造具政の寝返りには、源浄院主玄(後の滝川雄利)や柘植三郎左衛門の献策があったと云われていますが、古絵図には本丸の近くに柘植の屋敷や、主玄がいたであろう源浄院も描かれています。

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民家の塀代わりになっている、城域南西端の土塁。
この先に雲出川が流れています。

木造氏の離反を知った北畠氏は、柘植の息女らを木造近邊雲出川端にて処刑し、木造城を攻撃しました。

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木造城跡から雲出川方向の眺め。
この視線の先に、処刑された人質たちの姿があったのでしょうか・・・。

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木造氏の菩提寺、引接寺。

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境内にはキリシタン灯篭もありました。

北畠軍による木造城攻めは、籠城側に織田方からの援軍もあって攻略には至らず、信長が出陣する頃までには引き上げて、大河内城を中心とした防戦体制へと移っています。

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木造城跡めぐりの後、松阪市の須賀城跡にも連れて行っていただきましたので、そちらもちょっとご紹介。

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立派な土塁が残っていました。

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残存する土塁はごく一部で、城域全体の規模は推測の域を出ませんが、それにしても立派な土塁でした。

木造氏の寝返りを受けて織田信長は同年8月20日、7万とも云われる大軍を擁して岐阜を出陣しました。
その日は桑名まで進軍し、そこで2日間逗留した後、更に南へ進みます。

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近鉄白子駅より、伊勢路を南の方向へ歩いてみます。
桑名を出た信長も、おそらくは通ったであろう旧街道です。

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街道沿いには紀州藩白子代官所跡も。
この辺りは紀州藩の飛び地だったようです。

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伊勢神宮へお参りする人々が道に迷わないように、と建てられた道標。

廿二日、白子観音寺に御陣を懸けられ、

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織田信長が永禄12年8月22日に宿陣した白子観音寺白子山子安観音寺
聖武天皇の時代に創建された勅願寺です。

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子安観音寺は、伊勢路から少し北へ入った場所にあります。

廿三日、小作に御着陣。

子安観音寺を出た信長は、翌23日には先にご紹介した木造城に入ります。
近くを伊勢路が通っていますので、信長も木造城まではおおよそ伊勢路のルートで進軍してきたものと思われます。

木造城で北畠氏攻めの具体的な作戦を決定、指示していったのでしょう。
源浄院、柘植の案内で八田城を包囲・攻略し、阿坂城へは使者を派遣して降伏を迫りますが、阿坂城側はこれを拒否します。(軍記)

勧告拒否を受けて信長は8月26日(軍記では27日)、木下秀吉を先陣として阿坂城を攻めます。
この攻城戦は、秀吉自ら堀際まで攻め寄せて薄手を被るほどの激しいものとなり、阿坂城は即日降伏開城しました。

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阿坂城へは行程の都合で行きませんでしたが、その出城と考えられている高城には行ってきました。
写真は、高城付近から見上げる阿坂城。

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高城の主郭には、規模の大きな土塁が廻らされていました。

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主郭北西端の櫓台跡から、西側の虎口。

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北へ伸びる細くて急勾配な尾根を下ると、二重の堀切もありました。
高城、なかなか見応えのある遺構が残されています。

是れよりわきゝゝの小城へは御手遣もなく、直ちに奥へ御通り侯て、国司父子楯籠られ侯大河内の城とり詰め、

公記には阿坂城攻略後、他の小城には目もくれずに北畠氏の籠る大河内城へ向かったとあり、その間の動きについては特に触れられていません。
ところが、軍記には阿坂城攻めの前夜(昨二十六日夜…25日か)、進軍していた先鋒の軍勢を阿坂城攻めのために呼び戻した際(攻阿坂城告先勢呼返之時)に、船江城から出撃した北畠方の軍勢が小金塚という地で織田勢を襲撃し、痛手を負わせたエピソードが載っていて、この船江勢は翌日廿七日夜(26日か)にも織田軍が大河内城へ向かう際(つまり、公記でいう直ちに奥へ御通り侯ている際)、やはり小金塚で待ち受けて戦闘になったとあります。
この時は、さすがに信長も用心していたので奇襲は失敗し、今度は船江勢が不覚をとる番になったのだとか。

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小金塚近くに建つ法蔵寺(松阪市深長町)

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その山門前に移設された「小金塚」の五輪塔。
江戸時代の正保年間に建立されたようです。深長町と伊勢寺町の境付近に建っていましたが、周辺の開発に伴い、こちらへ移されてきました。
移設前の場所は法蔵寺の西方にあたるのですが、北方にも「小金」という地名があり、そこに黄金塚神社という名の神社もあります・・・まだ謎が残りますが、いずれにしても法蔵寺付近一帯を指しているのは間違いなさそうです。

※その後、フォロワーのるーちんさんの調べにより、合戦のあった場所について地元の地誌類には、「曲(村)と深長(村)の間」「上ノ庄の内」などとあることが判りました。
これらから判断する限り、やはり法蔵寺北方の黄金塚神社の辺りが古戦場であった可能性が高そうです。
(2018年3月追記)

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法蔵寺前から眺める阿坂城。

船江(松阪市船江町)は伊勢路も通る地域で、軍記も船江通南方(すなわち大河内城方面)への通路としています。
そのため、城主・本田氏の他にも多くの援軍が加わっていました。

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船江を通る伊勢路。

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道中、立派な常夜灯も見かけました。

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伊勢路のほど近くに建つ浄泉寺
ここが船江城の跡地と伝えられています。遺構は残りませんが、寺の周囲が堀の名残りを思わせる楕円形の区画になっていて、側溝が通っていました。

奇襲もあってか信長は船江城を警戒し、あえて攻略しようとはせずに伊勢路を避け、西方の山際を通って大河内城へ向かったようです。
これが、公記のいうわきゝゝの小城へは御手遣もなく、直ちに大河内城へ向かった真相になりますでしょうか。
※先にご紹介した須賀城も、わきゝゝの小城の一つになるのかもしれませんね。

軍記によれば船江衆はこの後、9月上旬にも丹生寺に布陣していた氏家卜全の陣所に夜襲をかけて痛手を負わせる活躍をしています。
丹生寺は後編の記事で触れる信長本陣のすぐ近く・・・事実であれば、織田方にとっては忌々しき事態です。
(但し、公記では卜全の布陣地を大河内城の西としており、全く一致しません

更には和睦成立後、信長は伊勢神宮へ参拝するのですが、船江衆はその帰路にも鉄砲を少々撃ちかけたとあります。
まさに獅子奮迅といった活躍ぶりで、北畠勢の中でも傑出した存在のように語られています。

(後編へつづきます)

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