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2018年3月19日 (月)

「小熊」の地蔵菩薩

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今回の旅のスタートはこちら・・・岐阜県羽島市小熊町西小熊にある、小熊山一乗寺からです。

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一乗寺は弘仁10年(819)の創建で、開基はかの弘法大師空海と伝えられる古刹です。
当寺には空海自らが、墨俣川(現長良川)の橋杭を用いて彫ったと云う地蔵菩薩が安置されていました。
源頼朝も文治3年(1187)、その地蔵菩薩に武運長久を祈願し、本堂をはじめとする伽藍の再建にも尽力しています。

ところが永禄11年(1568)12月、地蔵菩薩は織田信長によって岐阜城下へと移されていきました

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一乗寺の地蔵堂
現在の地蔵菩薩像は、慈覚大師による2代目のものと伝えられています。

ちなみに地蔵堂の手前に並べられているのは、源平による墨俣川の戦い(治承5年/1181)に於ける戦死者たちの供養塔です。
合戦は墨俣~西小熊の辺りまでが主戦場となり、一乗寺(西小熊)の近くにあった寺で供養されていましたが、天正14年(1586)の洪水で寺ごと五輪塔も流されて散逸し、後の境川改修工事の際に出土したものが一乗寺に集められました。

・・・話しを地蔵菩薩に戻します。
天正2年(1574)3月初旬のとある夜、地蔵菩薩は信長の枕頭に立って
「元の小熊へ戻りたい」
と告げます。
ところが、これを帰すことを惜しんだ信長は、地蔵菩薩を安置していた城下の地を「小熊」に改めたと云います。

果たして、信長によって岐阜城下へと移された小熊の地蔵菩薩は今、どこにあるのか・・・俄然興味をそそられて調べてみることにしました。
ポイントは信長が、地蔵菩薩を移した岐阜城下の地を「小熊」に改めたという点。

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ここから岐阜市小熊町の存在を知り、更に調べていくうちに・・・

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辿り着いたのが、圓龍寺の山門前に建つ慈恩寺
住所こそ岐阜市大門町になりますが、そのすぐ西側、目の前に小熊町があります。

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織田信長が気に入り、小熊の一乗寺から持ち帰ったと伝えられる木像延命地蔵菩薩
慈恩寺の本尊で、様式からは藤原時代(遣唐使廃止の894年~平家滅亡の1185年まで)後期の作と推定されており、それが本当であれば、835年に亡くなった空海の作とするには無理があるようにも思えるのですが・・・?

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また、前出の圓龍寺の山号は「一乗山」。
なんとなく、一乗寺に通じるものがあるように思えませんか?

小熊から持ち帰った地蔵を安置したからこそ、この地を「小熊」としたのであって、地蔵菩薩が「戻りたい」と言った~云々はそこに尾ひれがつけられたものでしょうが、しかし伝承を辿ることで実際に地蔵菩薩と出会い、そして、やはり伝承通りに地名が残っていたことに、えも言われぬ興奮を覚えました。

ところで、岐阜城周辺では他にも、織田家に関連する史跡をめぐりました。

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こちらは西野不動尊の脇に佇む、濃姫のものと伝わる墓石
現地案内板によると、本能寺の変で信長と運命を共にした濃姫の遺髪を家臣の一人が持ち帰り、この地に埋葬したものとか・・・。

濃姫に関しては確たる記録が殆ど残っておらず、その生涯は多くの謎に包まれたままです。
本能寺で亡くなったとするのも、江戸中期頃に成立した歌舞伎や浄瑠璃の世界でのみで、私も濃姫が本能寺にいた可能性は極めて低いと考えていますが、土地に伝わる伝承の一つとしてご紹介します。

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織田塚
天文16年、織田信秀(信長の父)は稲葉山城を攻めますが、斎藤道三の手痛い反撃に遭って敗走します。
織田塚は、この敗戦による織田方将兵の戦死者たちを、浄泉防(円徳寺の前身)に埋葬したものとも伝えられています。
円徳寺が現在の場所へ移されると織田塚も改装されましたが、その一部が何故、元の場所に残されたままになっているのかは、不勉強につき定かではありません。

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