鳥取旅2日目、いよいよ念願の
鳥取城包囲線めぐりです。
スタートはこちら。
芳心寺南東脇の尾根に取り付き、そのまま尾根上を北東方向へ進んでいきます。
登り始めて10分も経たないうちに早速、一つ目の陣跡が見えてきました。
何やら切岸の上で小躍りしている人がいますが、あの切岸の上は、江戸時代の古絵図で
仙石権兵衛秀久の陣跡と伝えられています。
伝仙石陣跡
写真ではわかりづらいのですが、周囲には土塁らしき高まりも残っていました。
伝仙石陣跡から見上げる鳥取城
こうして包囲線上から、その対象となる城との距離感を感じながらめぐるのも楽しみの一つです。
伝仙石陣跡、北東側の切岸。
更に進みます。
尾根上には数多くの陣跡が連なっており、進むにつれてこうした切岸や削平地が散見され・・・
一部、堀切らしき痕跡も見受けられました。
尾根に沿って伸びていた古道?らしき跡。
現地では何気なく過ごしてしまいましたが、鳥取城の方角に面しており、後でご紹介することになる秀吉本陣・太閤ヶ平の下(西側)に築かれていた
防塁線にも似たような形状をしていますので、或いはこちらも、そうした防塁線の一部として築かれたものだったのでは?と思えてきます。
既にいくつめの陣跡だったか定かではありませんが・・・これまた立派な切岸に行き当たりました。
この切岸の上も・・・
綺麗に削平され、四方を土塁が取り巻いていました。
その土塁
奥で一段上がり、二段構成の陣跡になっていました。
太閤ヶ平の南側では最高所となる地点に築かれていた陣跡の虎口。
太閤ヶ平南側の最高所から見上げる鳥取城。
こうした
馬蹄段状の小曲輪が幾段にも重なる斜面をアップダウンしつつ・・・
陣跡の削平地を拾い歩きながら進むと、やがて六角展望台の辺りで舗装された管理道に出ました。
その管理道に沿って20分ほども登ると、いよいよ太閤ヶ平へと辿り着くことができます。
ここまでの行程。
■が山中に残る陣跡で、おおよそ
赤い線に沿って登ってきました。
さ、
太閤ヶ平の横堀が見えてきました。
太閤ヶ平縄張図
東虎口
虎口に土橋、横堀、そして横堀の先で横矢を掛ける土塁の折れ、、、
一目この光景を目にした瞬間、痺れました。
主郭内
とってもシンプルな構造だけに、その広さや土塁の頑強さといったスケール感が際立ちます。
主郭の南東隅で、大きく突き出た部分。
手前の窪んだ箇所は、弾薬庫のような倉庫的な施設があったのではないか、との見解もあるそうです。
先端部分は一段高く上がっています。東と南の2ヶ所に設けられた虎口の中間に位置しており、両虎口への備えのための縄張でしょう。
土塁の先にも、腰曲輪状の平坦地。
東虎口へしっかりと横矢を掛ける土塁の折れ。
主郭南西隅の櫓台
櫓台の上に、太閤ヶ平の石碑が建っていました。
南西櫓は、南虎口にしっかりと横矢を掛けています。
南虎口
土橋に横堀、虎口の先の主郭内まで続く土塁、、、その全てが美しいです。
南虎口と南西櫓台
太閤ヶ平・・・とにかく遺構の規模の大きさに、大袈裟ではなく度肝を抜かれました。
これは一部将の陣城の規模ではなく、もはや巨大な山城。
とつとりの東に、七、八町程隔て、並ぶ程の高山あり。羽柴筑前守、彼の山へ取り上り、是れより見下墨、則ち、この山を大将軍の居城に拵へ、(信長公記 巻十四「因幡国鳥取城取り詰めの事」より抜粋)
信長公記も
大将軍の居城に拵へた、と記しています。
厳重な兵糧攻めが効果を発揮し、鳥取城は
結果的には僅か3ヶ月ほどで開城することになりますが、当の秀吉に
それを予知することはできませんし、現に三木城の包囲戦では開城までに2年の歳月を要しています。
鳥取城の包囲が長引くことで
毛利氏の来援も考えられ、秀吉は来たる(かもしれない)毛利本隊との決戦に備え、
この陣城(太閤ヶ平)に主君・織田信長を迎え入れることも想定した上で、これほどの規模に築き上げたのではないでしょうか。
信長公記の
大将軍という表現が、あたかもそれを裏付けているように思えてなりません。
(天正9年)
八月十三日、因幡国とつとり表に至りて、藝州より、毛利・吉川・小早川、後巻として、罷り出づべきの風説これあり。則ち、御先手に在国の衆、一左右次第、夜を日に継ぎて、参陣いたすべき用意、少しも由断あるべからずの趣、仰せ出だされ候。(信長公記 巻十四「八月朔日御馬揃への事」より抜粋。)
8月に入ると実際に
毛利氏来援の風説が流れ、信長は在国衆にいつでも自らの先陣として出陣できるよう、油断なく準備する旨を厳命しています。
結果的に毛利本隊との決戦/信長の出馬は、
水攻めで有名な
備中高松城攻めの時まで持ち越され、その道中、京へ入った信長を光秀の謀反という未曾有の大事件(
本能寺の変)が襲い、中国出馬~毛利との決戦も幻となるのですが・・・。
太閤ヶ平から、包囲する鳥取城を眺める・・・約3ヶ月間、秀吉が毎日目にしていた光景。
至近と言ってもよさそうな距離感に、当時の緊迫感が迫ってくるかのようです。
さて、太閤ヶ平を満喫した後は、太閤ヶ平南西の尾根を少し下ります。
太閤ヶ平周辺図(以下周辺図)
太閤ヶ平南西の尾根を下った先、周辺図
1の陣跡。
外縁の土塁も確認できます。
その土塁の外側を覗き込むと・・・横堀のような溝があります。
周辺図
a部分の堀状遺構。写真左側の一段下がった位置にも並行して掘られていて、
二重になっています。
(周辺図で水色に塗られている部分が堀状遺構)
周辺図でも明らかなようにこれは、太閤ヶ平と鳥取城の間を断ち切り、鳥取城を包み込むようにして築かれた
防塁線です。
ここからは、この防塁線に沿って進んでいきます。
急斜面を、まるで竪堀のように駆け下る防塁腺(周辺図
b)
やはりここでも二重に掘られていました。
(同行者2名が立っている位置が、それぞれの堀底)
下った先から振り返る・・・
鹿垣結ひまわし、とり籠め、五・六町、七・八町宛に、諸陣、近ゝと取り詰めさせ、堀をほつては、尺(柵)を付け、又、堀をほつては、塀を付け、築地高ゝとつかせ、透間なく、(信長公記 巻十四「因幡国鳥取城取り詰めの事」より抜粋。)
これこそまさしく、信長公記が云う「
鹿垣」「
堀」「
築地」の遺構でしょう!
防塁線に沿って谷合の鞍部まで下りた地点。
生い茂る樹木でわかりづらいですが、二重の防塁線はすぐに反対側の斜面を駆け上がっていきます。
我々も急勾配の堀底を直登・・・。
登り切ると防塁線は、尾根を断ち切る
二重の堀切のようになっていました。(周辺図
c)
地形に合わせて折れを伴いつつ、なおも延々と続きます。
再び斜面を下り始めました。
しばらく下ると、今度は水溜まりのような池のある鞍部に出ました。
この池の手前辺りから、ここまで歩いてきたルートとは対岸の斜面を上がっていきます。
池の近くから駆け上がる防塁線(周辺図
d)
この辺りでは
三重になっていて、写真左手に1本、右手の高い土塁の上にも1本通っていました。
この右手の高い土塁などは、「
築地」と表現してもよさそうな規模です。
堀の斜面に残っていた石列
池からの斜面を登り切ると、周辺図
2の陣跡に出ました。
こちらは
羽柴秀長(秀吉弟)の陣跡とも伝えられる場所です。
伝秀長陣跡は東西に細長く、陣跡まで伸びていた防塁線の延長線上、削平地(曲輪)の縁に沿って土塁が続いています。
伝秀長陣跡西端から、再び土塁と堀を伴った二重の防塁線が北西方向に伸びていました。
土塁越しに堀底を覗く。。。
これにて、
鳥取城包囲線めぐりは終了とします。
帰路は伝秀長陣跡付近から尾根上を西へ進み、途中1~2ヶ所の陣跡を拾いつつ、鳥取城(久松山)を経由することにしました。
20分ほどで鳥取城の城域へ到着。
写真は鳥取城の出城、
十神砦の虎口。
十神砦から眺める太閤ヶ平・・・よく歩いたなぁ~
砦の外側へ向け、斜面に築かれていた石垣。
鳥取城山上ノ丸、三ノ丸へと続く虎口。
前日に訪れた際は爆風に負け、二ノ丸までで引き返していたので、改めて来ることができてよかったです。
やはり石垣には、晴れた空が合い似合いますね~
本丸からの
太閤ヶ平
とつとりと、西の方、海手との真中、廿五町程隔て、西より東南町際へ付きて流るゝ大河あり。此の川舟渡しなり。とつとりへ廿町程隔て、川際につなぎの出城あり。又、海の口にも取り継ぐ要害あり。藝州よりの味方引き入るべき行として、二ケ所拵へ置きたり。(信長公記 巻十四「因幡国鳥取城取り詰めの事」より抜粋。)
信長公記のこの一節は、
まさにこの光景を描写したものですね。
上の写真で、尾根先端の先にある独立した小山が鳥取城の
補給基地になっていた丸山城で、手前の尾根続きには
中継拠点となる雁金山城などの支城が築かれていました。
秀吉は細川水軍衆を海上へ配し、
雁金山城を宮部隊に急襲・攻略させて、鳥取城の補給路を完全に遮断したと云います。
これにより天正9年10月、兵糧が枯渇した城側は城主・吉川経家以下、主だった重臣の切腹を以て降服開城しました。
よく晴れたので、前日以上に砂丘も綺麗に見えていました。
念願だった鳥取城包囲線めぐり、想定以上に有意義なものとなりました。
吉川経家像
山上の石垣も綺麗に見えています。
最後に車で少し移動し、
吉川経家の墓所へ。
経家はどのような思いで散っていったのでしょうか・・・それを少し窺わせる彼の書状の一節をご紹介して、本記事の締め括りとさせていただきたいと思います。
日本貮ツ之御弓矢於堺及切腹候事 末代之可為名誉存候日ノ本二つの御弓矢(織田×毛利)境に於いて切腹に及び候事、末代の名誉と存じなさるべく候。
(吉川経言(広家)宛吉川経家書状の一節)