鳥取城、他
天正9年(1581)の第2次鳥取城攻め。
織田家の将、羽柴秀吉は周囲の山々や城下に付城(陣城)を築いて鳥取城を厳重に包囲し、海上からの補給ルートも封鎖して兵糧攻め(いわゆる「渇え殺し」)にしました。
山麓に築かれた陣跡は既に消滅していますが、山中にはまだ多くの遺構が残っているのです。
今回はその包囲線をめぐるため、4月14~15日にかけて鳥取市へお邪魔してきました。
初日はまず、じっくりと鳥取城を攻めることにします。
鳥取城の城山、久松山を背景に直立する吉川経家像。
鳥取城跡
見事な石垣群が迎えてくれますが、これらは一度、昭和18年の鳥取大震災でその大半が崩れており、後に復元されたものになります。
まずは麓の近世城郭遺構を見ていきます。
中仕切門
昭和50年の台風で倒壊していますが、すぐに再建されました。
二ノ丸の西側に築かれた登り石垣
二ノ丸三階櫓の石垣
山陰地方初の層塔型三階櫓として創建され、元禄5年(1692)に山頂(山上ノ丸)の天守が落雷で焼失して以降は、鳥取城を象徴する存在となりました。
享保5年(1720)の石黒大火で一度は焼失しますが、同13年に再建されて明治の世を迎えます。その後、明治12年に解体撤去されました。
三階櫓の石垣に積まれた「お左近の手水鉢」
近世鳥取城築城の折、侍女お左近の働きが目覚ましく、これにあやかってお左近の手水鉢を石垣に用いたところ、難工事であった三階櫓も無事に完成した、との伝説が残されていました。
そして昭和38年、この「お左近の手水鉢」と思われる石材が発見されたため、石垣修復に際して伝説の通りに復元されました。
二ノ丸の石切り場
元々この場所には、久松山からの尾根が伸びていたようです。それを切り開いて曲輪を造成し、採掘された岩を石垣用の石材として用いました。
二ノ丸から東の方角。
翌日の鳥取城包囲線めぐりは、手前から2本目の尾根を北(左)へ向かって登っていきます。
菱櫓
何故か斜めに積まれた雁木石垣・・・確かに目的がよく分からない(^_^;)
鳥取城の象徴的な存在の一つ、天球丸の巻石垣。
文化年間、崩れそうになっていた石垣の補強のために築かれました。残念ながら甲羅状に貼られた石材の多くが抜き取られていたため、後に復元されています。
巻石垣を上から。
ところで、鳥取城の石垣の中にはこんな、小さな扇状の刻印を持つ石があります。
詳細な場所は失念しましたが、二ノ丸下段の東寄りだったかと・・・目線の高さにありますので探してみてください。
それでは山上の曲輪群(山上ノ丸)へ向かいます。
天球丸からの登山道に入ってすぐ、八幡宮跡。
久松山の登山道は細く、岩場も多くて結構タフな道のりでした。
五合目に祀られていた神社
八合目付近で見かけた石垣
石垣の上は藪ですが、綺麗に削平された痕跡が認められましたので、おそらく曲輪跡と思われます。
登り始めてから約30分弱、ようやく山上ノ丸に到着しました。。。
山上ノ丸の二ノ丸
そして本丸
奥に天守台が見えます。
鳥取城本丸から眺める、羽柴秀吉本陣・太閤ヶ平(中央、鉄塔のようなものが3本見えている山の頂上)。
吉川経家以下、籠城する将兵らが日々にらみつけていた光景・・・こんな距離感で対峙していたのですね。
本丸にあった井戸跡
天守台の石垣
天守は元禄5年(1692)に落雷によって焼失し、以後再建されることはありませんでした。
天守台
穴蔵の痕跡(石列で四角く区画された部分)も。
天守台からは鳥取砂丘も見えていました。
天守台から見下ろす出丸。
残念ながら出丸は見学が制限され、立ち入ることはできませんでした。
この日はとてつもなく風が強かった(もはや台風並み…)のですが、なんとか無事に下山できました。
下山後は県立博物館や・・・
少し離れた場所にある市立歴史博物館にも立ち寄ってから・・・
鳥取東照宮へ
一直線に伸びる参道
鳥取東照宮・・・樗谿神社
慶安3年(1650)、鳥取藩主・池田光仲により、日光東照宮の分霊を勧請して創建されたことから、因幡(鳥取)東照宮とも呼ばれてきました。
こちらの唐門、及び拝殿・幣殿・本殿は国の重要文化財に指定されています。
左手前から拝殿・幣殿、そして少し離れて本殿。
参拝後は徒歩で駅前まで戻り・・・
鳥取へ来たからには・・・ということで、すなば珈琲へ。
驚いたことに、店内の足元が本当に砂場になっていました。
夜は鳥取駅前で、翌日の包囲線めぐりをご一緒するメンバーと前夜祭☆
贅沢な一夜でした・・・♪
織田家の将、羽柴秀吉は周囲の山々や城下に付城(陣城)を築いて鳥取城を厳重に包囲し、海上からの補給ルートも封鎖して兵糧攻め(いわゆる「渇え殺し」)にしました。
山麓に築かれた陣跡は既に消滅していますが、山中にはまだ多くの遺構が残っているのです。
今回はその包囲線をめぐるため、4月14~15日にかけて鳥取市へお邪魔してきました。
初日はまず、じっくりと鳥取城を攻めることにします。
鳥取城の城山、久松山を背景に直立する吉川経家像。
鳥取城跡
見事な石垣群が迎えてくれますが、これらは一度、昭和18年の鳥取大震災でその大半が崩れており、後に復元されたものになります。
まずは麓の近世城郭遺構を見ていきます。
中仕切門
昭和50年の台風で倒壊していますが、すぐに再建されました。
二ノ丸の西側に築かれた登り石垣
二ノ丸三階櫓の石垣
山陰地方初の層塔型三階櫓として創建され、元禄5年(1692)に山頂(山上ノ丸)の天守が落雷で焼失して以降は、鳥取城を象徴する存在となりました。
享保5年(1720)の石黒大火で一度は焼失しますが、同13年に再建されて明治の世を迎えます。その後、明治12年に解体撤去されました。
三階櫓の石垣に積まれた「お左近の手水鉢」
近世鳥取城築城の折、侍女お左近の働きが目覚ましく、これにあやかってお左近の手水鉢を石垣に用いたところ、難工事であった三階櫓も無事に完成した、との伝説が残されていました。
そして昭和38年、この「お左近の手水鉢」と思われる石材が発見されたため、石垣修復に際して伝説の通りに復元されました。
二ノ丸の石切り場
元々この場所には、久松山からの尾根が伸びていたようです。それを切り開いて曲輪を造成し、採掘された岩を石垣用の石材として用いました。
二ノ丸から東の方角。
翌日の鳥取城包囲線めぐりは、手前から2本目の尾根を北(左)へ向かって登っていきます。
菱櫓
何故か斜めに積まれた雁木石垣・・・確かに目的がよく分からない(^_^;)
鳥取城の象徴的な存在の一つ、天球丸の巻石垣。
文化年間、崩れそうになっていた石垣の補強のために築かれました。残念ながら甲羅状に貼られた石材の多くが抜き取られていたため、後に復元されています。
巻石垣を上から。
ところで、鳥取城の石垣の中にはこんな、小さな扇状の刻印を持つ石があります。
詳細な場所は失念しましたが、二ノ丸下段の東寄りだったかと・・・目線の高さにありますので探してみてください。
それでは山上の曲輪群(山上ノ丸)へ向かいます。
天球丸からの登山道に入ってすぐ、八幡宮跡。
久松山の登山道は細く、岩場も多くて結構タフな道のりでした。
五合目に祀られていた神社
八合目付近で見かけた石垣
石垣の上は藪ですが、綺麗に削平された痕跡が認められましたので、おそらく曲輪跡と思われます。
登り始めてから約30分弱、ようやく山上ノ丸に到着しました。。。
山上ノ丸の二ノ丸
そして本丸
奥に天守台が見えます。
鳥取城本丸から眺める、羽柴秀吉本陣・太閤ヶ平(中央、鉄塔のようなものが3本見えている山の頂上)。
吉川経家以下、籠城する将兵らが日々にらみつけていた光景・・・こんな距離感で対峙していたのですね。
本丸にあった井戸跡
天守台の石垣
天守は元禄5年(1692)に落雷によって焼失し、以後再建されることはありませんでした。
天守台
穴蔵の痕跡(石列で四角く区画された部分)も。
天守台からは鳥取砂丘も見えていました。
天守台から見下ろす出丸。
残念ながら出丸は見学が制限され、立ち入ることはできませんでした。
この日はとてつもなく風が強かった(もはや台風並み…)のですが、なんとか無事に下山できました。
下山後は県立博物館や・・・
少し離れた場所にある市立歴史博物館にも立ち寄ってから・・・
鳥取東照宮へ
一直線に伸びる参道
鳥取東照宮・・・樗谿神社
慶安3年(1650)、鳥取藩主・池田光仲により、日光東照宮の分霊を勧請して創建されたことから、因幡(鳥取)東照宮とも呼ばれてきました。
こちらの唐門、及び拝殿・幣殿・本殿は国の重要文化財に指定されています。
左手前から拝殿・幣殿、そして少し離れて本殿。
参拝後は徒歩で駅前まで戻り・・・
鳥取へ来たからには・・・ということで、すなば珈琲へ。
驚いたことに、店内の足元が本当に砂場になっていました。
夜は鳥取駅前で、翌日の包囲線めぐりをご一緒するメンバーと前夜祭☆
贅沢な一夜でした・・・♪
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