とある深夜、2人が本来は村人しか利用できない共同湯にいるところへ、向かいの屋敷に住む
村山行馬郎が現れます。見慣れぬ2人を訝しんだものの、医師でもあった行馬郎は事情を察したのでしょう、2人を自邸に引き取って匿うことにしました。
前置きが長くなりましたが、この村山行馬郎の屋敷こそ、上写真の吉田松陰寓寄処(以下、村山邸)となるのです。
室内の様子
さすがに平日の昼間とあって訪れる人もなく、一人で独占して見学できました。
入口の土間の脇にはお風呂も・・・しかも温泉が引かれていたのだそうです。
松陰たちと出会った際、行馬郎は自邸にも温泉があったのに何故、わざわざ共同湯へ行ったのか?
案内してくださったボランティアさんによると、当時は村山邸が単純泉であったのに対し、共同湯は硫黄泉であった(現在は共に単純泉)ことから、行馬郎は体調や病といった何がしかの理由で、硫黄泉を求めてわざわざ共同湯に浸かりにいったのではないか、とのことでした。
村山邸から正面に見える、松陰・重輔の2人が潜んでいた共同湯。
「吉田松陰湯治湯の跡」とあります。
村山邸に戻ります。
村山邸の風呂は写真右奥にあり、その手前に見える階段を上がると・・・
松陰や重輔を匿った隠れの間があります。
階段を取り外して天井板を閉めると、ちょっとした隠し部屋になる構造です。
吉田松陰隠れの間この一間で松陰は、密航の企てを実行に移すタイミングを計っていたのでしょうか。
数日の間を共に過ごすうち、松陰と行馬郎は大変に意気投合したようで、行馬郎の娘が後年、松陰と行馬郎が夜な夜な語り合う様子を語り残しているのだそうです。
(松陰の患っていた皮膚病の具合も)
村山邸を出た松陰と重輔は3月27日の深夜(28日未明)、
柿崎の弁天島の浜から小舟を漕ぎ出し、碇泊していたペリー艦隊(旗艦ポーハタン号)に乗り込んで密航を企てますが拒否され、現在の下田市須崎付近の浜へと送り返されました。
黒船に乗り込んだ際、盗んで漕ぎ寄せてきた小舟を見失っていた2人は事態の発覚を覚悟して自首、江戸伝馬町の牢屋敷へ送られた後に死罪は免れて国許蟄居とされ、松陰は萩の野山獄に入れられました。(重輔は岩倉獄に入れられ、そのまま獄死)
出獄が許された後も杉家幽閉の身となり、このことが
松下村塾(叔父が主宰していたものの名を引き継いだ)を開塾するきっかけとなったのでした。
さて、私も村山邸を辞し、下田の中心街へと向かいます。
宝福寺嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結され、新設された下田奉行の都築駿河守が宿所としたことから、
仮の下田奉行所となりました。
文久3年(1863)には土佐藩の
山内容堂が宿を取り、順動丸で入港した
勝海舟が訪れて
容堂に謁見し、
坂本龍馬の脱藩の罪の許しを取り付けた地としても知られています。
「晴れて赦免の身となった龍馬の活躍はここから始まる」との意から、石柱には「坂本龍馬飛翔之地」ともありました。
こんな可愛らしい龍馬像も。
宝福寺境内、唐人お吉記念館に展示されている
容堂・海舟謁見の間
記念館裏には、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに奉公した
お吉の墓所も。
お吉は下田で芸妓をしていたところを奉行所の目に留まり、
ハリスの元へ侍妾として奉公することになった人物です。
その後は一旦下田を離れたものの、維新後には再び戻って髪結い業を始めたり、小料理屋(安直楼)を開業したりしますが、安直楼は2年で廃業と、なかなか上手くはいかなかったようです。
ハリスの侍妾として奉公した過去から世間に「
唐人」と嘲弄され、貧困の中に世を儚み、明治24年3月27日、豪雨の夜に川へ身を投じて51年の生涯を閉じました。
こちらの墓石は後にお吉を演じた水谷八重子らによって寄進されたもので、向かって右横には小さな元の墓石も祀られていました。
続いて
了仙寺へ。
嘉永7年(1854)3月、日米和親条約が締結されて下田が開港場になると、了仙寺は上陸したペリー艦隊一行の応接所となり、同年5月には和親条約の細部を詰めた
下田条約調印の場にもなりました。
調印された下田条約により、了仙寺は玉泉寺と共にアメリカ人乗組員のための休息所となっています。
満開に咲き誇るアメリカジャスミンの香りが、辺りを濃厚に包んでいました。
今度は了仙寺の目と鼻の先、下田公園へ。
一旦幕末から離れ、戦国期へシフトします。
下田城小田原北条氏の海の拠点の一つ。豊臣秀吉との間に緊張が高まってくると北条氏は、清水康英を城将として入れ、城に改修の手を加えて整備させています。
登り始めて最初に目に飛び込んできた横堀。
細い尾根上に配された曲輪群を取り巻くようにして伸びています。
堀切
5月にもなると下草が伸び、ちょっと見え辛いけど・・・
畝堀。
畝堀の先にも堀が続きます。
先ほどとは反対側から畝堀を見た様子・・・チャンスがあれば冬に再チャレンジですね(^_^;)
元々は「鵜島」という島だったそうで、鵜島城とも呼ばれているようです。
伝「天守台」跡とされる曲輪部分。
下田城の主郭にあたります。
主郭から三方へ伸びる細尾根の一つ。
尾根上から、先ほどの畝堀を見下ろした様子。
城跡からの眺め。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による
小田原征伐が始まると、下田にも長宗我部元親や脇坂安治らの率いる1万余りの大軍が押し寄せます。
僅か600ほどの手勢で立て籠もる清水康英は抵抗するものの、50日間に及ぶ防戦の末に開城しました。
そのまま幕末へ戻り・・・
下田公園北側の中腹に建つ、
開国記念碑。
下田開港100年を記念し、昭和29年(1954)に建てられました。
ペリーとハリスの言葉が刻まれています。
ペリーの「余は平和の使節として此の地に来れり」という言葉を選したのはGHQのマッカーサーで、「開国記念碑」の揮毫は吉田茂元首相によります。
更に麓へ下ると・・・
ペリー上陸の碑。
嘉永7年(1854)に締結された日米和親条約で下田が開港場となり、入港してきたペリー艦隊の
乗組員たちが初めて上陸した地点に建てられています。
さて、これにて初日の史跡めぐりは終了としました。
この後は宿へ入り、温泉に山海の幸、美味しい地酒、、、贅の限りを尽くしてきました(笑)
■5月19日(土)
前夜から明け方まで降り続いた雨も、出発する頃までにはすっかり上がって陽も射してきました。
2日目のスタートは・・・
柿崎弁天島からです。
本記事の冒頭でご紹介した吉田松陰寓寄処の箇所でも書きましたが、吉田松陰が黒船に乗り込んでの密航を企て、金子重輔と共に小舟でペリー艦隊の碇泊する海へと漕ぎ出した場所です。
・・・それにしてもすごく特徴的な地層ですね。
七生説の碑(左)と
金子重輔行状碑(右)
ペリー艦隊を目指し、小舟を漕ぎ出す松陰と重輔の図。
・・・湾内にしちゃ、海が荒れすぎじゃね?(笑)
弁天島に建つ
弁天社(手前)と下田龍神宮(奥)
踏海を企む2人は、手前の
弁天社で仮眠を取ったとも云われています。
柿崎弁天島からの下田湾。
ペリーの乗船するポーハタン号は果たして、どの辺りに碇泊していたのでしょうか。
なんとか黒船に乗り込んでペリーに交渉したものの、乗船を拒否された2人は、写真左奥方向に位置する須崎付近の浜に送り届けられました。
柿崎弁天島の近く、三島神社境内に建つ吉田松陰像。
(弁天島の松陰&重輔の銅像は、すっかり見落としてしまいました・・・)
2人が送り届けられた須崎に行ってみると、ご覧の案内板が設置されていました。
生い茂る樹木の中でひっそりと佇む、
吉田松陰上陸の碑。
上陸地点からの下田湾。
弁天島の方向には、視界は開けていません。
この後の顛末は、吉田松陰寓寄処の箇所でも簡単に触れた通りです。
乗船を拒否され、この地に送り返された時、松陰の目にこの景色はどのように映っていたことでしょう。
さて、今回最後にご紹介するのは
玉泉寺です。
(本当は吉田松陰上陸の碑よりも先に訪れていますが、あしからず)
嘉永7年(1854)5月の下田条約によってアメリカ人乗組員の休息所となり、安政3年(1856)に来日した
初代総領事タウンゼント・ハリスが住居に定めて以降、日米修好通商条約によって開港された横浜へ移る同6年までの間、
アメリカの総領事館として機能しました。
ハリス記念碑
日本最初の屠殺場跡
領事館員の食糧のため、この場所にあった木に牛を繋いで屠殺していたのだそうです。
その木は既に枯れていますが、境内のハリス記念館で保存されているそうです。残念ながら今回は寄りませんでしたが。
山門脇には、カーター大統領来訪記念碑などもありました。
総領事ハリスや、通訳ヒュースケンの居室が置かれていた本堂。
本堂の前にあるのは牛乳の碑。
本堂には穴を空けた石を壁に埋め込み、
ストーブの煙突を通していた痕跡も残っていました。
最後に
ぺルリ艦隊乗組将兵の墓へもお参り。
下田での史跡めぐりは、吉田松陰に始まってペリー来航など、個人的にはこれまであまり詳細には触れて来なかった歴史の連続。
そういった意味でも、改めて見直してみるいい機会にはなりました。
帰路は伊豆半島の東海岸沿いを北上し、伊東で昼食&ひもの購入休憩を挟んで無事に帰宅。土曜日だったこともあって渋滞にもはまらず、愛車にとってもいい運動になったようです。