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2018年5月

2018年5月27日 (日)

鹿野大仏

本日は東京都日の出町の寶光寺までドライブ。
平成30年(つまり今年)3月に竣工したばかりの鹿野大仏(ろくやだいぶつ)を拝観いたします。

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寶光寺脇の専用駐車場(一般車500円也)に車を停め、西参道を進みます。

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「鹿野」命名の由来となった鹿の湯跡
室町時代、寶光寺に湧き出る泉で鹿が傷を治している様子を見て、当寺の文済禅師が「鹿の湯」と名付けたとか。
明治初頭まで湯治客で賑わい、多摩七湯の一つにも数えられていました。

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整備されたばかりの奇麗な参道を登ること7~8分で・・・

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だいぶ近づいてまいりました。

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鹿野大仏

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仏身高12m、台座を含めると18mにも及び、重量はなんと60t!

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大仏の見つめる先。麓に車を停めた駐車場が見えています。
いずれはここに、大仏の足元まで真っ直ぐに伸びる参道が付けられるそうです。

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その正面参道の入口。
今はまだ、整備許可が下りるのを待っている状態なのだそうです。

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また、体の不自由な参拝者のため、台数は限られるものの、大仏のすぐ近くまで車で登れる道も(写真右)整備しているとのこと。
こちらも許可待ちの段階とか・・・早く許可が下りるといいですね。

最後に、寶光寺本堂にもお参りして帰路につきました。

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2018年5月24日 (木)

下田で史跡めぐり

なんとなく年一の恒例となっている家族での温泉旅行。今年の行き先は、ちょっとした紆余曲折を経て伊豆は下田になりました。
家族連れとはいえ、そこは折角の遠出。勿論、史跡めぐりも盛り込んでいきます(笑)
※テーマは方々に飛び散ってまとめるのも面倒なので、今回は単純に訪問順でご紹介していきます。

■5月18日(金) 
偶然なのですが、この週末は下田で黒船祭りが開催されることを旅行計画後に知り、慌てて祭りのスケジュールを睨みながら、なんとかバッティングを避けるように行程を組みました。

道路渋滞もない快適なドライブ。順調に天城越えで下田市域に入り、まず最初に訪れたのは・・・

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蓮台寺温泉の吉田松陰寓寄処です。

嘉永7年(1854)3月3日、神奈川で日米和親条約が締結されます。
条約によって開港場に指定された下田へと向かったペリー艦隊を追い、吉田松陰(寅次郎)も金子重輔を伴って下田へと向かいました。
同18日、松陰は「瓜中万二」、重輔は「市木公太」という変名を用い、まずは下田の岡方屋(岡村屋とも。現下田屋旅館)という宿に入ります。
当時、皮膚病(疥癬)を患っていた松陰は下田到着後、治療のために蓮台寺温泉を訪れました。
とある深夜、2人が本来は村人しか利用できない共同湯にいるところへ、向かいの屋敷に住む村山行馬郎が現れます。見慣れぬ2人を訝しんだものの、医師でもあった行馬郎は事情を察したのでしょう、2人を自邸に引き取って匿うことにしました。

前置きが長くなりましたが、この村山行馬郎の屋敷こそ、上写真の吉田松陰寓寄処(以下、村山邸)となるのです。

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室内の様子
さすがに平日の昼間とあって訪れる人もなく、一人で独占して見学できました。

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入口の土間の脇にはお風呂も・・・しかも温泉が引かれていたのだそうです。
松陰たちと出会った際、行馬郎は自邸にも温泉があったのに何故、わざわざ共同湯へ行ったのか?
案内してくださったボランティアさんによると、当時は村山邸が単純泉であったのに対し、共同湯は硫黄泉であった(現在は共に単純泉)ことから、行馬郎は体調や病といった何がしかの理由で、硫黄泉を求めてわざわざ共同湯に浸かりにいったのではないか、とのことでした。

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村山邸から正面に見える、松陰・重輔の2人が潜んでいた共同湯。

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「吉田松陰湯治湯の跡」とあります。

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村山邸に戻ります。
村山邸の風呂は写真右奥にあり、その手前に見える階段を上がると・・・

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松陰や重輔を匿った隠れの間があります。
階段を取り外して天井板を閉めると、ちょっとした隠し部屋になる構造です。

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吉田松陰隠れの間
この一間で松陰は、密航の企てを実行に移すタイミングを計っていたのでしょうか。

数日の間を共に過ごすうち、松陰と行馬郎は大変に意気投合したようで、行馬郎の娘が後年、松陰と行馬郎が夜な夜な語り合う様子を語り残しているのだそうです。
(松陰の患っていた皮膚病の具合も)

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村山邸を出た松陰と重輔は3月27日の深夜(28日未明)、柿崎の弁天島の浜から小舟を漕ぎ出し、碇泊していたペリー艦隊(旗艦ポーハタン号)に乗り込んで密航を企てますが拒否され、現在の下田市須崎付近の浜へと送り返されました。
黒船に乗り込んだ際、盗んで漕ぎ寄せてきた小舟を見失っていた2人は事態の発覚を覚悟して自首、江戸伝馬町の牢屋敷へ送られた後に死罪は免れて国許蟄居とされ、松陰は萩の野山獄に入れられました。(重輔は岩倉獄に入れられ、そのまま獄死)
出獄が許された後も杉家幽閉の身となり、このことが松下村塾(叔父が主宰していたものの名を引き継いだ)を開塾するきっかけとなったのでした。

さて、私も村山邸を辞し、下田の中心街へと向かいます。

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宝福寺
嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結され、新設された下田奉行の都築駿河守が宿所としたことから、仮の下田奉行所となりました。
文久3年(1863)には土佐藩の山内容堂が宿を取り、順動丸で入港した勝海舟が訪れて容堂に謁見し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを取り付けた地としても知られています。
「晴れて赦免の身となった龍馬の活躍はここから始まる」との意から、石柱には「坂本龍馬飛翔之地」ともありました。

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こんな可愛らしい龍馬像も。

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宝福寺境内、唐人お吉記念館に展示されている容堂・海舟謁見の間

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記念館裏には、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに奉公したお吉の墓所も。
お吉は下田で芸妓をしていたところを奉行所の目に留まり、ハリスの元へ侍妾として奉公することになった人物です。
その後は一旦下田を離れたものの、維新後には再び戻って髪結い業を始めたり、小料理屋(安直楼)を開業したりしますが、安直楼は2年で廃業と、なかなか上手くはいかなかったようです。
ハリスの侍妾として奉公した過去から世間に「唐人」と嘲弄され、貧困の中に世を儚み、明治24年3月27日、豪雨の夜に川へ身を投じて51年の生涯を閉じました。
こちらの墓石は後にお吉を演じた水谷八重子らによって寄進されたもので、向かって右横には小さな元の墓石も祀られていました。

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続いて了仙寺へ。
嘉永7年(1854)3月、日米和親条約が締結されて下田が開港場になると、了仙寺は上陸したペリー艦隊一行の応接所となり、同年5月には和親条約の細部を詰めた下田条約調印の場にもなりました。
調印された下田条約により、了仙寺は玉泉寺と共にアメリカ人乗組員のための休息所となっています。
満開に咲き誇るアメリカジャスミンの香りが、辺りを濃厚に包んでいました。

今度は了仙寺の目と鼻の先、下田公園へ。
一旦幕末から離れ、戦国期へシフトします。

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下田城
小田原北条氏の海の拠点の一つ。豊臣秀吉との間に緊張が高まってくると北条氏は、清水康英を城将として入れ、城に改修の手を加えて整備させています。

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登り始めて最初に目に飛び込んできた横堀。
細い尾根上に配された曲輪群を取り巻くようにして伸びています。

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堀切

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5月にもなると下草が伸び、ちょっと見え辛いけど・・・畝堀

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畝堀の先にも堀が続きます。

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先ほどとは反対側から畝堀を見た様子・・・チャンスがあれば冬に再チャレンジですね(^_^;)

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元々は「鵜島」という島だったそうで、鵜島城とも呼ばれているようです。

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伝「天守台」跡とされる曲輪部分。
下田城の主郭にあたります。

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主郭から三方へ伸びる細尾根の一つ。

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尾根上から、先ほどの畝堀を見下ろした様子。

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城跡からの眺め。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、下田にも長宗我部元親や脇坂安治らの率いる1万余りの大軍が押し寄せます。
僅か600ほどの手勢で立て籠もる清水康英は抵抗するものの、50日間に及ぶ防戦の末に開城しました。

そのまま幕末へ戻り・・・

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下田公園北側の中腹に建つ、開国記念碑
下田開港100年を記念し、昭和29年(1954)に建てられました。

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ペリーとハリスの言葉が刻まれています。
ペリーの「余は平和の使節として此の地に来れり」という言葉を選したのはGHQのマッカーサーで、「開国記念碑」の揮毫は吉田茂元首相によります。

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更に麓へ下ると・・・ペリー上陸の碑
嘉永7年(1854)に締結された日米和親条約で下田が開港場となり、入港してきたペリー艦隊の乗組員たちが初めて上陸した地点に建てられています。

さて、これにて初日の史跡めぐりは終了としました。
この後は宿へ入り、温泉に山海の幸、美味しい地酒、、、贅の限りを尽くしてきました(笑)


■5月19日(土)

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前夜から明け方まで降り続いた雨も、出発する頃までにはすっかり上がって陽も射してきました。
2日目のスタートは・・・

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柿崎弁天島からです。
本記事の冒頭でご紹介した吉田松陰寓寄処の箇所でも書きましたが、吉田松陰が黒船に乗り込んでの密航を企て、金子重輔と共に小舟でペリー艦隊の碇泊する海へと漕ぎ出した場所です。
・・・それにしてもすごく特徴的な地層ですね。

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七生説の碑(左)と金子重輔行状碑(右)

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ペリー艦隊を目指し、小舟を漕ぎ出す松陰と重輔の図。
・・・湾内にしちゃ、海が荒れすぎじゃね?(笑)

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弁天島に建つ弁天社(手前)と下田龍神宮(奥)
踏海を企む2人は、手前の弁天社で仮眠を取ったとも云われています。

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柿崎弁天島からの下田湾。
ペリーの乗船するポーハタン号は果たして、どの辺りに碇泊していたのでしょうか。

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なんとか黒船に乗り込んでペリーに交渉したものの、乗船を拒否された2人は、写真左奥方向に位置する須崎付近の浜に送り届けられました。

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柿崎弁天島の近く、三島神社境内に建つ吉田松陰像。
(弁天島の松陰&重輔の銅像は、すっかり見落としてしまいました・・・)

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2人が送り届けられた須崎に行ってみると、ご覧の案内板が設置されていました。

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生い茂る樹木の中でひっそりと佇む、吉田松陰上陸の碑

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上陸地点からの下田湾。
弁天島の方向には、視界は開けていません。

この後の顛末は、吉田松陰寓寄処の箇所でも簡単に触れた通りです。
乗船を拒否され、この地に送り返された時、松陰の目にこの景色はどのように映っていたことでしょう。

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さて、今回最後にご紹介するのは玉泉寺です。
(本当は吉田松陰上陸の碑よりも先に訪れていますが、あしからず)

嘉永7年(1854)5月の下田条約によってアメリカ人乗組員の休息所となり、安政3年(1856)に来日した初代総領事タウンゼント・ハリスが住居に定めて以降、日米修好通商条約によって開港された横浜へ移る同6年までの間、アメリカの総領事館として機能しました。

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ハリス記念碑

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日本最初の屠殺場跡
領事館員の食糧のため、この場所にあった木に牛を繋いで屠殺していたのだそうです。
その木は既に枯れていますが、境内のハリス記念館で保存されているそうです。残念ながら今回は寄りませんでしたが。

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山門脇には、カーター大統領来訪記念碑などもありました。

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総領事ハリスや、通訳ヒュースケンの居室が置かれていた本堂。
本堂の前にあるのは牛乳の碑。

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本堂には穴を空けた石を壁に埋め込み、ストーブの煙突を通していた痕跡も残っていました。

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最後にぺルリ艦隊乗組将兵の墓へもお参り。

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下田での史跡めぐりは、吉田松陰に始まってペリー来航など、個人的にはこれまであまり詳細には触れて来なかった歴史の連続。
そういった意味でも、改めて見直してみるいい機会にはなりました。

帰路は伊豆半島の東海岸沿いを北上し、伊東で昼食&ひもの購入休憩を挟んで無事に帰宅。土曜日だったこともあって渋滞にもはまらず、愛車にとってもいい運動になったようです。

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2018年5月14日 (月)

高安寺

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府中市の高安寺

その昔、藤原秀郷(俵藤汰)の館跡だった地に創建された見性寺が始まりとされています。
壇ノ浦で平家を討ち果たすも、鎌倉入りを許されなかった源義経が京への帰路に立ち寄り、元弘3年(1333)の分倍河原の戦いに於いては、鎌倉幕府軍と対峙する新田義貞が本陣を布いたとも伝えられている地です。

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立派な山門

見性寺はやがて荒廃しますが、後に将軍となった足利尊氏によって再興され、尊氏が全国に展開させていた安国寺の一つ(武蔵国)に位置づけ、寺名も高安寺と改められました。

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そのため、本殿(1803年再建)には尊氏の戒名「等持院殿仁山妙義大居士」にちなんだ扁額も。

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藤原秀郷を祀る秀郷稲荷

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京への帰路に見性寺(高安寺前身)へ立ち寄った源義経は、ここで弁慶らと赦免祈願のための大般若経を写したと云います。
その墨のための水を汲んだとの伝承から、弁慶硯の井と呼ばれる井戸跡もありました。

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高安寺は、多摩川の浸食による段丘の縁のような場所に位置しています。
その地理的条件から、高安寺として再興された後も軍事目的で利用され、度々戦乱に巻き込まれてきました。
戦国期には後北条氏の庇護を受けるものの次第に寺勢を失い、慶長年間になって青梅の海禅寺七世・関州徳光禅師が再興し、その末寺に入って現在に至ります。

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2018年5月13日 (日)

布多天神社

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調布市の布多天神社

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その境内片隅に建つ日露戦役記念碑

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記念碑裏の従軍人名には、新選組局長・近藤勇の娘たまと婿養子・勇五郎の子で、勇にとっては孫にあたる近藤久太郎の名も刻まれています。
彼は日露戦争に出征し、明治38年(1905)に僅か23歳で戦病死しました。

碑文は上石原の名主だった中村勘六の長男・克昌によります。
慶応4年(1868)3月、甲陽鎮撫隊を率いて甲府へ向かう近藤勇は上石原の西光寺で休息し、西光寺の向かいにあった中村勘六邸で歓待を受けています
・・・世代を経ても、人の縁はこうして繋がっていたのですね。

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西光寺門前に建つ近藤勇像
3年ぶりの再訪ですが、銅像が奇麗になっていました。

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西光寺の向かい、旧甲州街道を挟んだ対面の中村勘六邸跡
布多天神社からは、旧甲州街道を西へ1㎞ほどの距離になります。

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ところで、布多天神社には天正18年(1590)の小田原征伐の際、豊臣秀吉から発給された制札も残されているようです。
今回は日露戦役記念碑を目当てに布多天神社を参拝しましたが、いずれ機会があれば制札にもお目にかかってみたいものですね。

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2018年5月 4日 (金)

鴻巣宿周辺の歴史散策

GWの混雑を避け、本日は近場へお気軽ドライブ・・・埼玉県鴻巣市へ向かいました。
中山道の宿場町、鴻巣宿の周辺を散策します。

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まずは鴻巣市本町勝願寺へ。
勝願寺は天正年間(1573~93)、鴻巣市登戸から当地へ移され、宗派もそれまでの真言宗から浄土宗に改められて再興されました。
石柱にある「檀林」とは浄土宗僧侶のための学問所・養成所のことで、勝願寺は関東十八檀林の一つにも数えられています。
※移転後の登戸跡地はしばらく衰退しますが、秀忠の代になって元の真言宗寺院として再興され、現在も「勝願寺」として存続しています。(登戸勝願寺)

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参道を進むと、石戸藩主から丹後国田辺城主へと転じた牧野氏歴代当主夫妻の墓所がありました。どうやら非公開のようです。

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徳川家康も鷹狩で度々鴻巣を訪れており、同寺中興二世の円誉不残上人に帰依して寺領30石を寄進し、「三つ葉葵紋」の使用も許されました。

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立派な仁王門

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本堂

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境内では、ナンジャモンジャが満開の花を咲かせていました。

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本堂横に祀られている(向かって左から)仙谷権兵衛秀久・真田信重室・真田信重・小松姫(真田信之室)らの墓所。

仙谷秀久は慶長19年(1614)5月6日、江戸から領国の信州小諸への帰途、ここ鴻巣の地で没しています。
本廟は長野県上田市の芳泉寺にありますが、終焉の地である当寺にも分骨建墓されました。
(偶然ですが、訪れた日は5月4日・・・旧暦と新暦の違いはありますが、僅か2日違いだったのですねぇ・・・)

真田信重は真田信之の三男で慶安元年(1648)に、やはり鴻巣にて病没しています。
隣に眠る彼の室(鳥居左京亮六女)は、夫に続き翌慶安2年に没しました。

小松姫は云わずと知れた本田平八郎忠勝の息女で徳川家康の養女となり、真田信之に嫁した人物。元和6年(1620)2月4日没。
生前、円誉不残上人に帰依した縁で一周忌に際し、勝願寺にも分骨して祀られるようになりました。
(本廟は仙谷秀久と同じ芳泉寺)

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中山道鴻巣宿本陣跡

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鴻巣宿は中山道7番目の宿場町で、慶長7年(1602)に北本市の本宿から移されて栄えました。

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お次は、“日本で一番小さい東照宮”が祀られている鴻巣御殿跡へ。

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鴻巣御殿跡の東照宮(祠)
鴻巣御殿は、鷹狩の際などに利用された徳川将軍のための休泊施設で、家康・秀忠・家光の三代に渡って使用されました。

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しかし寛永7年(1630)頃を最後に使用されなくなり、明暦の大火(1657)後には焼失した建物の再建のため、その一部が江戸城へと移築され、元禄4年(1691)になると跡地に東照宮を祀って除地とされました。

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江戸図屏風に描かれた鴻巣御殿

・・・もう少し散策を続けます。

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鴻巣駅から西へ向かい、20分ほど歩いた先にある・・・伝源経基館跡の横堀。

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曲輪内はかなり広い柵平地となっていました。

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こちらは・・・櫓台でしょうか?

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櫓台の上に建っていた石碑

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櫓台から見渡す曲輪

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土塁と横堀

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食い違いに横矢をかける土塁と堀

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伝源経基館跡・・・中世の豪族居館跡であることは確かと思います。
遺構としては単郭の土塁や横堀のみですが、住宅街に残された貴重な歴史遺産といえるでしょう。

渋滞知らずのお気軽ドライブ&歴史散策・・・リフレッシュできた1日となりました。

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