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2018年6月

2018年6月30日 (土)

芦田宿・笠取峠松並木・長久保宿(中山道)

前日は小諸からスタートして海野宿~上田と、結果的に北国街道に沿ってドライブしてきましたが、2日目は立科町の芦田宿から中山道を、諏訪方面へ向かって進んでいきます。

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中山道、芦田宿
仙石権兵衛秀久の命で慶長2年(1597)に成立しました。

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芦田宿では明治以降、中山道の道筋が多少改変されているようで、車道から逸れた、現在は畑となっている場所に江戸時代の道の痕跡が一部残されていました。

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石打場公園
この辺りが芦田村の境界にあたるようです。

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芦田宿を抜けると、中山道は笠取峠に差し掛かっていきます。
写真中央奥、交錯する2本の国道の間を縫うようにして進みます。

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先ほどの交差点から2~30mほども進むと、中山道は車道から逸れ、街道沿いに笠取峠の松並木が現れます。

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笠取峠松並木
江戸時代初期、幕府は諸街道の整備を進め、慶長7年(1602)頃からは一里塚の設置や並木の植樹を奨励しています。
芦田宿と長久保宿の間にある笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、峠道約1.6㎞に渡って植樹したものです。

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大正13年(1924)の調査時には229本が確認されていますが、平成の初期段階で110本、平成30年の現在では約70本を残すのみとなっています。

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中山道で唯一現存する江戸時代の松並木・・・何とか永く保っていってもらいたいものです。

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松並木をしばらく登っていくと、中山道が国道142号線に分断される箇所に出ます。

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その国道との交錯点に、小諸領境界石標が建っていました。
前日に訪れた小諸城の本丸跡に笠取峠の石標が移設されていましたので、こちらは復元されたものになりますでしょうか。

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国道を越えても、松並木はまだ続いていました。

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この先、中山道が再び国道にぶつかるところで、松並木も途切れているようです。
この後は少し車で移動します。

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笠取峠松並木から車で5分ほども走ると、芦田宿に続く中山道の宿場町、長久保宿に到着します。

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長久保宿と中山道の景観

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左手前に長久保宿歴史資料館が写っていますが、実は明治初期にほぼ同じアングルで撮られた写真が残っています。

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こちらがその1枚。
左隅で2人の男性が立っている辺りが、現在は歴史資料館になっている場所らしいです。

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まずは長久保宿歴史資料館の見学から。
資料館の建物は明治初期、一福処濱屋という旅籠として建てられたものの、維新後に街道の交通量が減少したことから開業には至らなかったそうです。

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長久保宿本陣、石合家
石合家4代目当主の元には、真田信繁の娘(一般に「すえ」と伝わる)も嫁いでいます。
「真田丸」でも、恒松祐里さん演じる「すえ」が、加藤諒さん演じる「石合十蔵」に嫁いでいましたね。

寛延2年(1749)の絵図面と現状の間取りが同じことから17世紀後半の建築と推定され、中山道に現存する本陣遺構としては最古のものとされています。

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こちらは竹内家住宅(釜鳴屋)
享保16年(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がないことから、それ以前に建てられたものとして、長野県内最古の町屋建築とされています。

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脇本陣跡

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丸木屋の内部もちょっとだけ見学。
元は旅籠で、慶応3年(1867)に築かれました。

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続いて、長久保宿から少し離れて西蓮寺へ。
こちらに石合家へ嫁いだ真田信繁息女のお墓があるというので、お参りさせていただくことにしました。

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墓地の片隅で静かに眠る、真田信繁息女墓。
父の死後も、彼女が平穏な日々を送れたことを願います。

この後は中山道を更に京方へ進み、和田宿へ向かいます。

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2018年6月29日 (金)

海野宿、芳泉寺

小諸をあとにして向かった先は、北国街道の海野宿(東御市)です。

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海野宿の入口に鎮座する白鳥神社
詳しい創建時期は判っていませんが、「平家物語」や「源平盛衰記」が木曽義仲の挙兵(治承5年/1181)を白鳥河原の勢揃」として伝えているので、平安時代には既に鎮座していたものと考えられます。
「白鳥河原」とは白鳥神社の前に広がる千曲川の川原のことで、この地は以仁王の令旨に応じた義仲挙兵の地としても知られているのです。
海野荘に勢力を張る海野氏からも、幸親・幸広父子が義仲軍に参陣して活躍しました。

建久2年(1191)には、海野幸広の子(もしくは弟)・幸氏が白鳥神社の社殿を遷しています。
幸氏は義仲の子・清水冠者義高に仕えて鎌倉入りし、その後は頼朝の家臣となって重用されました。

御神木のケヤキは推定樹齢700年以上ということなので、或いはそういった歴史を見守ってきたのかもしれません。

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海野宿
寛永2年(1625)の成立と伝わる北国街道の宿場町です。
往時は約650mに渡って旅籠屋造の建物が軒を並べていました。今も「海野格子」と呼ばれる出格子を二階に持つ建物がよく残されています。

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こんな立派な「うだつ」も。

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平日とあって訪れる人もごく僅かで、とてもゆったりとした気分で散策を楽しめました。

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海野宿本陣

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こんな案内を目にしたら・・・行かない訳にはいかないでしょう(笑)

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海野氏の菩提寺、興善寺

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永正3年(1506)の開創で、開基は海野幸明と伝えられています。
天文10年(1541)、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)との戦いで海野幸義が戦死し、海野氏は滅亡しました。

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境内に眠る海野幸明の墓所。

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海野宿まで戻り、北国街道の往来を眺めながら美味しいお蕎麦をいただきました。

この後は、宿を押さえている上田市へ向かいます。

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上田城下の芳泉寺
元和8年(1622)、真田家が松代へ移封された後に小諸から上田に入った仙石忠政は、真田昌幸が当地に置いていた常福寺を下之条へと移転させ、自らの菩提寺であった宝仙寺を小諸から移しました。
延宝2年(1674)、忠政の子・政俊の死後、寺名を芳泉寺と改めています。

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真田信之正室・小松姫の墓所。
小松姫は元和6年(1620)、埼玉の鴻巣で没し、勝願寺で密葬されました。
芳泉寺の墓所は、信之が小松姫の一周忌に建立したものです。

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小松姫の墓所の隣には、仙石家の霊廟も。
手前は仙石政俊の霊廟で、左奥には藩祖・秀久(政俊祖父)らの霊廟もあります。

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仙石権兵衛秀久のお墓。
奇しくも5月には、秀久・小松姫両名の墓参に鴻巣の勝願寺を訪れたばかりでした。
何の因果か共に鴻巣で生涯を終え、親族によって上田でも供養され、、、歴史の偶然に不思議な力を感じた瞬間でした。

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ホテルにチェックイン後は、上田駅前へ。
上田には何度か訪れていますが、駅前は初めてなので、こちらの銅像にも初めてお目に掛かりました。

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ふらっと入ったお店で一献。
久しぶりに美味しい馬肉もいただけて満足・・・早めに切り上げて、翌日に備えました。

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2018年6月28日 (木)

小諸城と城下の町並み

今回は久しぶりの一人旅。
ドライブを楽しみたくて、愛車と共に信州へ出かけてきました。

休暇を取得し、平日の8:30頃にゆったりと出発。
圏央道→関越→上信越と高速道路を乗り継ぎ、まず最初に向かった先は・・・

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小諸城(懐古園)です。

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城跡北側にある駐車場に車を停めると、目の前に大きな空堀のような谷底が口を開けていました。
北谷と呼ばれる、おそらくは自然の地形ですが、これを空堀に見立てて縄張りされた様子が見て取れます。

三の門前の料金所から懐古園に入場し、曲輪が連なる西へ向かって進んでいきます。

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二の丸

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二の丸からの、北の丸・南の丸越しに本丸方向。
写真では分かりづらいかもしれませんが、本丸方向へ進むにつれ、地形が緩やかに下っています
本丸周辺の先端部分が最も低地となることから、小諸城は「穴城」とも呼ばれているそうです。

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南の丸の石垣にあった「鶯石」
城主が通行したり、何か祝い事があるとウグイスの声で鳴いたのだとか・・・。

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南の丸から木谷
こちらの谷も、なかなかの要害ぶりです。

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主郭手前の堀切に架かる黒門橋

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黒門橋上から見る堀切

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黒門橋を渡った先が黒門跡。

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黒門跡の先にそびえる本丸の石垣。

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本丸跡(懐古神社)

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懐古神社鳥居の脇には、「小諸領境界石標」が移設されていました。
文化3年(1806)のもので、西は軽井沢の追分の原、東は立科町の笠取峠にそれぞれ設置されていました。

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山本勘助愛用の鏡石・・・ホントに?(;^_^A
ちなみに勘助は、現在に遺構が残る小諸城のベースとなる縄張りを担当したとも伝えられています。

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天守台

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天守台石垣
天守自体は、寛永6年(1629)の落雷により焼失しています。

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西谷

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北谷
あちらの橋へ下りてみると・・・

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主郭部下の北谷は、岩盤質の絶壁がほぼ垂直に切り立っていました。
これは到底、攻め登ることはできそうにありません・・・。

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水の手展望台からの眺め。

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武器庫

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城内で唯一の井戸となる荒神井戸

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再び三の門まで戻ってきました。
次は大手門へ向かいます。

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三の門前にある徳川秀忠の「憩石」
慶長5年(1600)の第二次上田合戦で、徳川軍は小諸城を本陣としていますが、その在陣中、秀忠が腰を掛けていた石との伝承に由来しています。

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三の門から線路を越えた先にある大手門。
小諸駅一帯が、三の丸の跡地に該当するようです。

こちらの大手門は慶長17年(1612)、初代小諸藩主・仙石権兵衛秀久により創建されました。
明治以降は小諸義塾の仮教室や料亭として利用されてきましたが、平成20年になって往時の姿に復元されています。

引き続き、城下町を散策します。

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移築復元された小諸宿本陣の主屋。
明治11年(1878)に佐久市の桃源院に移築され、桃源院の本堂や庫裡として利用されてきましたが、平成7年に小諸市へ寄贈され、本陣跡地にも近い「せせらぎの丘」に復元されました。

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北国街道沿いに建つ、旧小諸宿本陣・問屋場(国重要文化財)
小諸宿は北国街道の宿場町の一つで、参勤交代や善光寺詣などの需要もあって栄えました。
先ほどの主屋も、本来はこちらに建っていたことになります。

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本陣跡から北国街道を少し東へ進んだ先、脇本陣跡。
一見したところ廃屋のようにも見えますが、なかなか風情のある建物です。

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本町交差点まで来たところで一旦北国街道を離れ、権兵衛坂へ。
同交差点から北北東へ伸びる、細い下り坂の路地です。
「権兵衛坂」の名は、小諸城主となった仙石権兵衛秀久が、健速神社参拝の折に通行していたことに由来するそうです。(諸説あり)

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権兵衛坂を下った先の常盤橋
何となく古そうな橋だなぁ~と思って調べてみると、昭和3年の竣工だそうです。

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仙石秀久も参拝した・・・健速神社
但し、当地に遷座されたのは延宝3年(1675)とのことなので、秀久が参拝していた時は別の場所にあったことになります。
御神木のケヤキは推定樹齢4~500年、毎年7月に行われる例祭、「祇園祭」が有名です。

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北国街道に戻りました。

小諸散策はこのあたりで切り上げ、(ほぼ)北国街道伝いに少し移動します。

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2018年6月14日 (木)

「戊辰戦争 菊と葵の500日」展

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国立公文書館で開催されている企画展、戊辰戦争 菊と葵の500日(~H30.6.30)に足を運んできました。

戊辰所用錦旗及軍旗真図
函館五稜郭開拓使ヨリ請取方伺

鳥羽・伏見戦で負傷した山口次郎(斎藤一)が、江戸で松本良順の治療を受けたことを示す;
新撰組手負之者山口次郎医学所江罷越候儀ニ付申上候書付
といった展示品をはじめとして;

Ⅰ 開戦 鳥羽・伏見の戦い
Ⅱ 江戸・関東への転戦
Ⅲ 東北・北越戦線へ
Ⅳ 終幕 五稜郭の戦い

という構成で、各戦線にまつわる史料(どちらかというと新政府軍サイドのものが多め)が時系列に沿って展示されていました。

各史料の詳細は省きますが、その中に桑名藩士・中村武雄の記した戊辰桑名戦記というものがあり、旧幕府脱走陸軍が市川国府台に集結したくだりを開いて展示してあったので、思わずケースに被りつきで読み込んでしまいました。
大鳥圭介ハ陸軍ノ事ニ達シ著名ナル人故之ヲ以テ惣督トシ土方歳三ハ従来新撰組ノ副長ニテ機智勇略兼子(ネ)備リタル故参謀ト定メ・・・

その他では土佐藩士・細川広世の記した跨関日記の中で、近藤勇(大久保剛)を「日野の産」と誤って認識しているところが・・・個人的にはツボ(笑)

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2018年6月11日 (月)

渋沢平九郎の故郷を訪ねて

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埼玉県深谷市の渋沢栄一記念館。

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twitterからの情報で現在、幕末のイケメン!渋沢平九郎展が開催(~H30.7.29)されていることを知り、足を運んでみました。

渋沢平九郎は尾高勝五郎保孝の子として生を受けました。渋沢栄一とは従弟であり、且つ栄一が平九郎の姉と結婚しますので義兄弟という間柄になります。
栄一が徳川昭武(慶喜弟)に随行してパリ万博へ向かうことになったのを機に栄一の見立て(仮)養子となり、渋沢平九郎と名乗りました。
慶応4年(1868)に戊辰戦争が勃発すると、天野八郎らとの対立から彰義隊を脱した親類の渋沢喜作(成一郎)や、兄・尾高惇忠らと共に振武軍を結成して飯能で新政府軍と戦います(飯能戦争)が敗れ、同年5月23日、逃れる途中に顔振峠黒山の山中で敵兵に捕捉されたために自害して果てます。享年僅かに22歳でした。

展示の方はほんの一コーナーといった程度の、意外なほどに小規模なものでしたが;

・「藍香選 渋沢平九郎昌忠傳」
→渋沢平九郎の人となりを伝える。

・「昌忠致身受慶録」(慶応3年)
→平九郎が渋沢栄一の見立て養子となった際の祝いの記録。

・「東遊録」(慶応3年)
→江戸での暮らしを伝える平九郎の日記。

・平九郎書状(2通ほど)

などが展示されていました。

折角なので、近隣の関連地もめぐります。

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渋沢栄一の生誕地に建つ、中の家(なかんち)。

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明治44年に建てられた副屋。

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庭には若き日の栄一

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主屋と土蔵

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主屋は明治28年の上棟。渋沢家の住宅として利用されてきました。

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主屋裏に建つ渋沢平九郎追悼碑

楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
昌忠


平九郎が幕府軍に参加する前日、仮住まいの障子に書いたと云う言葉が彫られています。
渋沢栄一が建立(篆額も)し、谷中の渋沢家墓地にありましたが、墓地の整理縮小に伴って市に寄贈され、中の家に移設されました。

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続いて、渋沢平九郎の生家でもある尾高惇忠生家へ。
尾高惇忠は先にも触れましたが、平九郎の長兄です。渋沢栄一は惇忠の従弟であり、且つ妹婿にあたります。

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尾高家は栄一の中の家から東へ1㎞強ほどの距離で、若き日の栄一は日々ここへ通い、惇忠の教えを受けていたと云います。
やがて尊王攘夷思想に傾倒していった二人が、やはり親類の渋沢喜作(成一郎)らと共に、高崎城乗っ取り計画の謀議(文久3年/1863)を図ったのも、この尾高家の二階であったと云われています。
写真奥の床の間の裏手に階段があるそうですが、現在はまだ整備修復が進んでおらず非公開です。

惇忠は後に富岡製糸場の初代場長(娘が工女1号)や、第一国立銀行盛岡支店・仙台支店の支配人などを歴任していますが、こちらの尾高惇忠生家は富岡製糸場が世界遺産に登録されたのを機に、関連施設として公開されるようになりました。

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尾高家は、染め物の染料となる藍玉の製造・販売でも生計を立てていたそうです。
この藍玉一つで、当時の価値で10万円ほどもしたのだとか。

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主屋の屋根。上段部分は創建当時のままなのだそうです。

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煉瓦倉庫

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倉庫に使われている煉瓦には、日本煉瓦製造株式会社(明治21年、渋沢栄一らによって設立)の上敷免工場(現深谷市上敷免)製であることを示す「上敷免」の刻印が打たれています。
(東京駅にも、日本煉瓦製造製の煉瓦が使用されていたようです)

「渋沢平九郎を取り上げた展示なんて珍しいから、ちょっと覗きに行ってみよう」という軽い気持ちで訪れた深谷市。思わぬ収穫がたくさんの、いいドライブになりました。
ラストは道の駅に立ち寄り、先日テレビで紹介されて気になっていた深谷もやしと、定番の深谷ねぎを仕入れてから帰宅しました。

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2018年6月10日 (日)

騎西城

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今回の日帰りドライブはまず、埼玉県加須市の騎西城跡へ向かいました。

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騎西城復元図
築城時期や築城者は不明ですが、永禄6年(1563)には武州松山城の救援に間に合わず、方向転換?した上杉輝虎(謙信)に攻められて落城しています。
遺構はほぼ何も残っていないようですが、この復元図を元に主だったポイントを歩いてみることにします。
※冒頭写真のような天守風の建物もありますが、この復元図で見る限り、その立地は当時の堀の中にあたるようですね…(;^_^A

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生涯学習センターの片隅に建つ天神曲輪跡の標柱。
標柱の位置が曲輪の端にあたるようなので、写真で標柱の左側(天守風建物のある方)は当時、堀だったことになります。

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天神曲輪の土塁跡
唯一と言ってもいい、騎西城の遺構なのですが・・・

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昭和40年頃に撮られた写真を見る限り、その後の整備段階で多少盛り直されていそうですね。

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復元図aの堀があったと思われるポイント。

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同じくbの堀跡と推定したポイント。
考え過ぎかもしれませんが、堀跡の高低差(窪み)をそのまま、水田に利用したようにも見えてきます。

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大手門跡
復元図によると、畑の部分が堀跡ということになります。

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生涯学習センターまで戻って、二の丸跡。
二の丸跡は、生涯学習センターの敷地や宅地でほぼ埋め尽くされているようです。

折角なので、本丸跡の方にも向かってみます。

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復元図c地点から、本丸跡方向を見た様子。
写真手前の地表面が低く、家屋が建ち、車などが置かれている場所は一段高くなっていましたが・・・なんとも言えません。
その気になったら、なんでも城の痕跡に思えてきちゃう・・・(笑)

さて、暑さも厳しい(まだ6月も前半だというのに、この日の気温は車の温度計で35度を指していました)ので騎西城跡めぐりはこの辺りで切り上げ、次は深谷市へ向かいます。

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