芦田宿・笠取峠松並木・長久保宿(中山道)
前日は小諸からスタートして海野宿~上田と、結果的に北国街道に沿ってドライブしてきましたが、2日目は立科町の芦田宿から中山道を、諏訪方面へ向かって進んでいきます。
中山道、芦田宿。
仙石権兵衛秀久の命で慶長2年(1597)に成立しました。
芦田宿では明治以降、中山道の道筋が多少改変されているようで、車道から逸れた、現在は畑となっている場所に江戸時代の道の痕跡が一部残されていました。
石打場公園
この辺りが芦田村の境界にあたるようです。
芦田宿を抜けると、中山道は笠取峠に差し掛かっていきます。
写真中央奥、交錯する2本の国道の間を縫うようにして進みます。
先ほどの交差点から2~30mほども進むと、中山道は車道から逸れ、街道沿いに笠取峠の松並木が現れます。
笠取峠松並木
江戸時代初期、幕府は諸街道の整備を進め、慶長7年(1602)頃からは一里塚の設置や並木の植樹を奨励しています。
芦田宿と長久保宿の間にある笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、峠道約1.6㎞に渡って植樹したものです。
大正13年(1924)の調査時には229本が確認されていますが、平成の初期段階で110本、平成30年の現在では約70本を残すのみとなっています。
中山道で唯一現存する江戸時代の松並木・・・何とか永く保っていってもらいたいものです。
松並木をしばらく登っていくと、中山道が国道142号線に分断される箇所に出ます。
その国道との交錯点に、小諸領境界石標が建っていました。
前日に訪れた小諸城の本丸跡に笠取峠の石標が移設されていましたので、こちらは復元されたものになりますでしょうか。
国道を越えても、松並木はまだ続いていました。
この先、中山道が再び国道にぶつかるところで、松並木も途切れているようです。
この後は少し車で移動します。
笠取峠松並木から車で5分ほども走ると、芦田宿に続く中山道の宿場町、長久保宿に到着します。
長久保宿と中山道の景観
左手前に長久保宿歴史資料館が写っていますが、実は明治初期にほぼ同じアングルで撮られた写真が残っています。
こちらがその1枚。
左隅で2人の男性が立っている辺りが、現在は歴史資料館になっている場所らしいです。
まずは長久保宿歴史資料館の見学から。
資料館の建物は明治初期、一福処濱屋という旅籠として建てられたものの、維新後に街道の交通量が減少したことから開業には至らなかったそうです。
長久保宿本陣、石合家。
石合家4代目当主の元には、真田信繁の娘(一般に「すえ」と伝わる)も嫁いでいます。
「真田丸」でも、恒松祐里さん演じる「すえ」が、加藤諒さん演じる「石合十蔵」に嫁いでいましたね。
寛延2年(1749)の絵図面と現状の間取りが同じことから17世紀後半の建築と推定され、中山道に現存する本陣遺構としては最古のものとされています。
こちらは竹内家住宅(釜鳴屋)
享保16年(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がないことから、それ以前に建てられたものとして、長野県内最古の町屋建築とされています。
脇本陣跡
丸木屋の内部もちょっとだけ見学。
元は旅籠で、慶応3年(1867)に築かれました。
続いて、長久保宿から少し離れて西蓮寺へ。
こちらに石合家へ嫁いだ真田信繁息女のお墓があるというので、お参りさせていただくことにしました。
墓地の片隅で静かに眠る、真田信繁息女墓。
父の死後も、彼女が平穏な日々を送れたことを願います。
この後は中山道を更に京方へ進み、和田宿へ向かいます。
中山道、芦田宿。
仙石権兵衛秀久の命で慶長2年(1597)に成立しました。
芦田宿では明治以降、中山道の道筋が多少改変されているようで、車道から逸れた、現在は畑となっている場所に江戸時代の道の痕跡が一部残されていました。
石打場公園
この辺りが芦田村の境界にあたるようです。
芦田宿を抜けると、中山道は笠取峠に差し掛かっていきます。
写真中央奥、交錯する2本の国道の間を縫うようにして進みます。
先ほどの交差点から2~30mほども進むと、中山道は車道から逸れ、街道沿いに笠取峠の松並木が現れます。
笠取峠松並木
江戸時代初期、幕府は諸街道の整備を進め、慶長7年(1602)頃からは一里塚の設置や並木の植樹を奨励しています。
芦田宿と長久保宿の間にある笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、峠道約1.6㎞に渡って植樹したものです。
大正13年(1924)の調査時には229本が確認されていますが、平成の初期段階で110本、平成30年の現在では約70本を残すのみとなっています。
中山道で唯一現存する江戸時代の松並木・・・何とか永く保っていってもらいたいものです。
松並木をしばらく登っていくと、中山道が国道142号線に分断される箇所に出ます。
その国道との交錯点に、小諸領境界石標が建っていました。
前日に訪れた小諸城の本丸跡に笠取峠の石標が移設されていましたので、こちらは復元されたものになりますでしょうか。
国道を越えても、松並木はまだ続いていました。
この先、中山道が再び国道にぶつかるところで、松並木も途切れているようです。
この後は少し車で移動します。
笠取峠松並木から車で5分ほども走ると、芦田宿に続く中山道の宿場町、長久保宿に到着します。
長久保宿と中山道の景観
左手前に長久保宿歴史資料館が写っていますが、実は明治初期にほぼ同じアングルで撮られた写真が残っています。
こちらがその1枚。
左隅で2人の男性が立っている辺りが、現在は歴史資料館になっている場所らしいです。
まずは長久保宿歴史資料館の見学から。
資料館の建物は明治初期、一福処濱屋という旅籠として建てられたものの、維新後に街道の交通量が減少したことから開業には至らなかったそうです。
長久保宿本陣、石合家。
石合家4代目当主の元には、真田信繁の娘(一般に「すえ」と伝わる)も嫁いでいます。
「真田丸」でも、恒松祐里さん演じる「すえ」が、加藤諒さん演じる「石合十蔵」に嫁いでいましたね。
寛延2年(1749)の絵図面と現状の間取りが同じことから17世紀後半の建築と推定され、中山道に現存する本陣遺構としては最古のものとされています。
こちらは竹内家住宅(釜鳴屋)
享保16年(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がないことから、それ以前に建てられたものとして、長野県内最古の町屋建築とされています。
脇本陣跡
丸木屋の内部もちょっとだけ見学。
元は旅籠で、慶応3年(1867)に築かれました。
続いて、長久保宿から少し離れて西蓮寺へ。
こちらに石合家へ嫁いだ真田信繁息女のお墓があるというので、お参りさせていただくことにしました。
墓地の片隅で静かに眠る、真田信繁息女墓。
父の死後も、彼女が平穏な日々を送れたことを願います。
この後は中山道を更に京方へ進み、和田宿へ向かいます。
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