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2018年6月11日 (月)

渋沢平九郎の故郷を訪ねて

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埼玉県深谷市の渋沢栄一記念館。

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twitterからの情報で現在、幕末のイケメン!渋沢平九郎展が開催(~H30.7.29)されていることを知り、足を運んでみました。

渋沢平九郎は尾高勝五郎保孝の子として生を受けました。渋沢栄一とは従弟であり、且つ栄一が平九郎の姉と結婚しますので義兄弟という間柄になります。
栄一が徳川昭武(慶喜弟)に随行してパリ万博へ向かうことになったのを機に栄一の見立て(仮)養子となり、渋沢平九郎と名乗りました。
慶応4年(1868)に戊辰戦争が勃発すると、天野八郎らとの対立から彰義隊を脱した親類の渋沢喜作(成一郎)や、兄・尾高惇忠らと共に振武軍を結成して飯能で新政府軍と戦います(飯能戦争)が敗れ、同年5月23日、逃れる途中に顔振峠黒山の山中で敵兵に捕捉されたために自害して果てます。享年僅かに22歳でした。

展示の方はほんの一コーナーといった程度の、意外なほどに小規模なものでしたが;

・「藍香選 渋沢平九郎昌忠傳」
→渋沢平九郎の人となりを伝える。

・「昌忠致身受慶録」(慶応3年)
→平九郎が渋沢井栄一の見立て養子となった際の祝いの記録。

・「東遊録」(慶応3年)
→江戸での暮らしを伝える平九郎の日記。

・平九郎書状(2通ほど)

などが展示されていました。

折角なので、近隣の関連地もめぐります。

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渋沢栄一の生誕地に建つ、中の家(なかんち)。

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明治44年に建てられた副屋。

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庭には若き日の栄一

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主屋と土蔵

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主屋は明治28年の上棟。渋沢家の住宅として利用されてきました。

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主屋裏に建つ渋沢平九郎追悼碑

楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
昌忠


平九郎が幕府軍に参加する前日、仮住まいの障子に書いたと云う言葉が彫られています。
渋沢栄一が建立(篆額も)し、谷中の渋沢家墓地にありましたが、墓地の整理縮小に伴って市に寄贈され、中の家に移設されました。

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続いて、渋沢平九郎の生家でもある尾高惇忠生家へ。
尾高惇忠は先にも触れましたが、平九郎の長兄です。渋沢栄一は惇忠の従弟であり、且つ妹婿にあたります。

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尾高家は栄一の中の家から東へ1㎞強ほどの距離で、若き日の栄一は日々ここへ通い、惇忠の教えを受けていたと云います。
やがて尊王攘夷思想に傾倒していった二人が、やはり親類の渋沢喜作(成一郎)らと共に、高崎城乗っ取り計画の謀議(文久3年/1863)を図ったのも、この尾高家の二階であったと云われています。
写真奥の床の間の裏手に階段があるそうですが、現在はまだ整備修復が進んでおらず非公開です。

惇忠は後に富岡製糸場の初代場長(娘が工女1号)や、第一国立銀行盛岡支店・仙台支店の支配人などを歴任していますが、こちらの尾高惇忠生家は富岡製糸場が世界遺産に登録されたのを機に、関連施設として公開されるようになりました。

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尾高家は、染め物の染料となる藍玉の製造・販売でも生計を立てていたそうです。
この藍玉一つで、当時の価値で10万円ほどもしたのだとか。

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主屋の屋根。上段部分は創建当時のままなのだそうです。

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煉瓦倉庫

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倉庫に使われている煉瓦には、日本煉瓦製造株式会社(明治21年、渋沢栄一らによって設立)の上敷免工場(現深谷市上敷免)製であることを示す「上敷免」の刻印が打たれています。
(東京駅にも、日本煉瓦製造製の煉瓦が使用されていたようです)

「渋沢平九郎を取り上げた展示なんて珍しいから、ちょっと覗きに行ってみよう」という軽い気持ちで訪れた深谷市。思わぬ収穫がたくさんの、いいドライブになりました。
ラストは道の駅に立ち寄り、先日テレビで紹介されて気になっていた深谷もやしと、定番の深谷ねぎを仕入れてから帰宅しました。

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