下妻陣屋、下館城
慶応4年(1868)4月、国府台にて結成された旧幕府脱走陸軍(総督:大鳥圭介)。
秋月登之助・土方歳三率いる前軍(以下「前軍」で表記統一)は4月12日に国府台を出発し、小金原(千葉県松戸市)・布施(同柏市)・水海道(茨城県常総市)を経て、16日に宗道村(茨城県下妻市)まで達します。
十六日、走土(宗道)村ニ宿陣。夜半、隊ヲ整エ、東照宮ノ白旗ヲ瓢シ、我藩ハ鎮守ノ白旗ヲ瓢シテ下妻陣屋〈井上辰若丸、一万石ナリ〉ニ達シ、我立見氏、会ノ米沢氏陣内ニ進ミ、重臣ニ面シ説諭シ、彼情実ヲ聞、強ル能スシテ退ク。土方氏又行テ説ク。暫シテ重臣タル者、候ノ自筆ヲ携、我陣ニ降ル。
(戊辰戦争見聞略記)
時ニ軍監井上清之進、峯松之介、倉田巴(立見鑑三郎)、我輩四人、於之東照神君ノ白旗ヲ翻シ、勢揃ヲシ、常州下妻井上辰若丸、使節ヲ以テ封書ヲ送リ、直ニ辰若丸殿当陣門ニ来リ同志ス。依之秋月某、精兵四百人余ヲ以テ下妻陣屋ヲ巡リ、土方公ハ弐百五十有余人ヲ引テ、同ク下館城ニ向フ。
(島田魁日記)
宗道村に到着した前軍は、そこからすぐ北に位置する下妻藩の陣屋へと向かい、「東照大権現」と大書された幟旗を翻して陣屋を包囲して圧力をかけ、城内に使者を派遣して談判に及びます。
旗幟を迫られた下妻藩には、伝習隊をはじめとする旧幕府の精鋭を揃える前軍に武力で抗する術もなく、一部の藩士を従軍させることでなんとか話をつけ、難を逃れました。
中世には多賀谷氏の居城であったことから、多賀谷城跡公園として整備された下妻城本丸跡。
多賀谷氏遺跡碑
思わせぶり?に丸みを帯びた公園の区画や・・・
周辺との段差、
公園の先でぐっと下がった地形(西側)が、ここにかつては城が存在したことを連想させるものの、これといった遺構は認められませんでした。
※江戸時代に藩庁が置かれた下妻陣屋の跡地は、この多賀谷城跡公園の西方、現在は下妻第一高等学校の敷地となっている辺りだったことを後日知りました。訂正してお詫びいたします。
秋月登之助・土方歳三率いる前軍(以下「前軍」で表記統一)は4月12日に国府台を出発し、小金原(千葉県松戸市)・布施(同柏市)・水海道(茨城県常総市)を経て、16日に宗道村(茨城県下妻市)まで達します。
十六日、走土(宗道)村ニ宿陣。夜半、隊ヲ整エ、東照宮ノ白旗ヲ瓢シ、我藩ハ鎮守ノ白旗ヲ瓢シテ下妻陣屋〈井上辰若丸、一万石ナリ〉ニ達シ、我立見氏、会ノ米沢氏陣内ニ進ミ、重臣ニ面シ説諭シ、彼情実ヲ聞、強ル能スシテ退ク。土方氏又行テ説ク。暫シテ重臣タル者、候ノ自筆ヲ携、我陣ニ降ル。
(戊辰戦争見聞略記)
時ニ軍監井上清之進、峯松之介、倉田巴(立見鑑三郎)、我輩四人、於之東照神君ノ白旗ヲ翻シ、勢揃ヲシ、常州下妻井上辰若丸、使節ヲ以テ封書ヲ送リ、直ニ辰若丸殿当陣門ニ来リ同志ス。依之秋月某、精兵四百人余ヲ以テ下妻陣屋ヲ巡リ、土方公ハ弐百五十有余人ヲ引テ、同ク下館城ニ向フ。
(島田魁日記)
宗道村に到着した前軍は、そこからすぐ北に位置する下妻藩の陣屋へと向かい、「東照大権現」と大書された幟旗を翻して陣屋を包囲して圧力をかけ、城内に使者を派遣して談判に及びます。
旗幟を迫られた下妻藩には、伝習隊をはじめとする旧幕府の精鋭を揃える前軍に武力で抗する術もなく、一部の藩士を従軍させることでなんとか話をつけ、難を逃れました。
中世には多賀谷氏の居城であったことから、多賀谷城跡公園として整備された下妻城本丸跡。
多賀谷氏遺跡碑
思わせぶり?に丸みを帯びた公園の区画や・・・
周辺との段差、
公園の先でぐっと下がった地形(西側)が、ここにかつては城が存在したことを連想させるものの、これといった遺構は認められませんでした。
※江戸時代に藩庁が置かれた下妻陣屋の跡地は、この多賀谷城跡公園の西方、現在は下妻第一高等学校の敷地となっている辺りだったことを後日知りました。訂正してお詫びいたします。
(2019年6月 訂正)
という訳で、下妻に再訪いたしました。
写真は下妻第一高等学校の北東隅に隣接する城山稲荷神社に残る、下妻陣屋のものと伝わる土塁。
想像していたより高さもあり、結構立派なものでした。
僅かながらも残された遺構を確認できて良かった。
話を戻します。
先に引用した各史料の記述が一致せず、実際に陣屋へ乗り込んで談判に及んだ面子が誰だったのか確証がなく、「戊辰戦争見聞略記」では土方歳三も乗り込んでいったようにも読めます。
しかし、「立川主税戦争日記」4月17日の条には「(下館藩降伏後)ソレヨリ土方兵隊、秋月隊長合兵ス。」と記されていることから、「島田魁日記」にある通り宗道村で兵を分け、下妻陣屋の包囲は秋月登之助が指揮を執り、土方は250人を率いて先に下館へ向かったのではないかと考えられています。
下妻から15~6㎞ほど北上した場所に位置する下館城本丸跡(城山八幡神社)
下館城は文明10年(1478)、水谷勝氏による築城と伝えられています。
江戸時代以降は度々城主が変わったものの、享保17年(1732)に石川氏が2万石で入封してからは、その居城として明治の世を迎えました。
城山八幡神社は清和源氏の流れを汲み、石清水八幡宮を尊崇していた石川氏が勧請し、武運長久と領民の安泰を願って建立されました。
鳥居には;
奉 慶應二年丙寅秋八月望日
とあります。土方らの前軍が迫って来た時、この鳥居は既に存在していたことになるのですね。
なお、本殿は市の文化財に指定されています。
下館城の図
本丸には確かに、「八幡」の文字が見て取れます。
東を五行川、西は「沼」に挟まれた、南北に延びる舌状台地の上に築かれていたようです。
下館城址碑
先の図で、本丸南側の堀が描かれていた位置に該当しそうな道。
五行川へ向かって急坂が下っています。
下館城の東を流れる五行川。
五行川畔から見上げる本丸跡。
藪の上が城山八幡神社になります。
反対に西側の地形。やはり急激に落ちています。
この先には「沼」が広がっていたのでしょう。
城山八幡神社から、道路を挟んで反対側にある西城(出丸)跡。
江戸期には局出丸とも呼ばれ、城に勤める女性たちの殿舎が置かれていたとも云われています。
四囲を空堀に囲まれていましたが、昭和に入ってからの下館上水道事業により、遺構は消滅してしまいました。
天明十七日、十二字比、復進ミテ下館城〈石川若狭守、三万石ヲ領ス〉ヲ襲フ。速ニ兵ヲ散シテ城ヲ囲ム。彼大ニ驚キ城中ヨリ巳ニ発砲セントス。土方氏、両三人ヲ率ヒ、城中ニ進ミ、重臣ニ面シテ談論ス。是亦忽降ル。故ニ兵粮方ヲ命シ、是ニ陣宿ス。
(戊辰戦争見聞略記)※石川氏下館藩は2万石
内藤隼人(土方)、松井九郎ノ両人ハ一小隊護衛ニテ城中ヘ参向、重役ニ面会シテ談判ニ及ブ。諸隊ハ両士ノ報告ニ依テ戦争ニ相成ル可シト、何レモ奨励シテ相待チケリ。然ル処午前十時頃、重役二人、内藤、松井ト連立門外迄出、諸隊長ヘ懇篤ニ礼有リ、城内ヘ案内ス。其上曾テ違心無キ意ヲ述テ、其証トシテ兵ヲ指出ス。
(戊辰ノ変夢之桟奥羽日記)
下妻藩を下した翌17日、前軍はこの下館城を囲み、土方歳三自らも城内へ乗り込んで談判に及びました。
(但し、島田魁や中島登は城内へ向かった人員として、下妻でも談判に向かった井上・倉田(立見)・島田らの名前を挙げており、更に島田魁の日記によれば、土方は大手通りの本営で待機していたようにも読み取れます)
「奥羽日記」には兵ヲ指出スとありますが、下館藩は軍資金と兵粮を提供することで免じられたようです。
下妻・下館両藩をひとまず下した前軍はこの後、蓼沼(栃木県上三川町)へ進み、時局はいよいよ宇都宮城の攻防戦 へと移っていくことになります。
ところで、城山八幡神社のすぐ北には、水谷氏の菩提寺である定林寺があります。
下館城を築城した水谷氏初代・勝氏が文明13年(1481)に開山しました。銅鐘は永禄10年(1567)の水谷勝俊による寄進で、県指定文化財にもなっています。
水谷氏歴代墓所
なお、結城四天王としても名を馳せた六代・正村(政村/蟠龍斎)の墓所は、栃木県真岡市の芳全寺にあるようです。
という訳で、下妻に再訪いたしました。
写真は下妻第一高等学校の北東隅に隣接する城山稲荷神社に残る、下妻陣屋のものと伝わる土塁。
想像していたより高さもあり、結構立派なものでした。
僅かながらも残された遺構を確認できて良かった。
話を戻します。
先に引用した各史料の記述が一致せず、実際に陣屋へ乗り込んで談判に及んだ面子が誰だったのか確証がなく、「戊辰戦争見聞略記」では土方歳三も乗り込んでいったようにも読めます。
しかし、「立川主税戦争日記」4月17日の条には「(下館藩降伏後)ソレヨリ土方兵隊、秋月隊長合兵ス。」と記されていることから、「島田魁日記」にある通り宗道村で兵を分け、下妻陣屋の包囲は秋月登之助が指揮を執り、土方は250人を率いて先に下館へ向かったのではないかと考えられています。
下妻から15~6㎞ほど北上した場所に位置する下館城本丸跡(城山八幡神社)
下館城は文明10年(1478)、水谷勝氏による築城と伝えられています。
江戸時代以降は度々城主が変わったものの、享保17年(1732)に石川氏が2万石で入封してからは、その居城として明治の世を迎えました。
城山八幡神社は清和源氏の流れを汲み、石清水八幡宮を尊崇していた石川氏が勧請し、武運長久と領民の安泰を願って建立されました。
鳥居には;
奉 慶應二年丙寅秋八月望日
とあります。土方らの前軍が迫って来た時、この鳥居は既に存在していたことになるのですね。
なお、本殿は市の文化財に指定されています。
下館城の図
本丸には確かに、「八幡」の文字が見て取れます。
東を五行川、西は「沼」に挟まれた、南北に延びる舌状台地の上に築かれていたようです。
下館城址碑
先の図で、本丸南側の堀が描かれていた位置に該当しそうな道。
五行川へ向かって急坂が下っています。
下館城の東を流れる五行川。
五行川畔から見上げる本丸跡。
藪の上が城山八幡神社になります。
反対に西側の地形。やはり急激に落ちています。
この先には「沼」が広がっていたのでしょう。
城山八幡神社から、道路を挟んで反対側にある西城(出丸)跡。
江戸期には局出丸とも呼ばれ、城に勤める女性たちの殿舎が置かれていたとも云われています。
四囲を空堀に囲まれていましたが、昭和に入ってからの下館上水道事業により、遺構は消滅してしまいました。
天明十七日、十二字比、復進ミテ下館城〈石川若狭守、三万石ヲ領ス〉ヲ襲フ。速ニ兵ヲ散シテ城ヲ囲ム。彼大ニ驚キ城中ヨリ巳ニ発砲セントス。土方氏、両三人ヲ率ヒ、城中ニ進ミ、重臣ニ面シテ談論ス。是亦忽降ル。故ニ兵粮方ヲ命シ、是ニ陣宿ス。
(戊辰戦争見聞略記)※石川氏下館藩は2万石
内藤隼人(土方)、松井九郎ノ両人ハ一小隊護衛ニテ城中ヘ参向、重役ニ面会シテ談判ニ及ブ。諸隊ハ両士ノ報告ニ依テ戦争ニ相成ル可シト、何レモ奨励シテ相待チケリ。然ル処午前十時頃、重役二人、内藤、松井ト連立門外迄出、諸隊長ヘ懇篤ニ礼有リ、城内ヘ案内ス。其上曾テ違心無キ意ヲ述テ、其証トシテ兵ヲ指出ス。
(戊辰ノ変夢之桟奥羽日記)
下妻藩を下した翌17日、前軍はこの下館城を囲み、土方歳三自らも城内へ乗り込んで談判に及びました。
(但し、島田魁や中島登は城内へ向かった人員として、下妻でも談判に向かった井上・倉田(立見)・島田らの名前を挙げており、更に島田魁の日記によれば、土方は大手通りの本営で待機していたようにも読み取れます)
「奥羽日記」には兵ヲ指出スとありますが、下館藩は軍資金と兵粮を提供することで免じられたようです。
下妻・下館両藩をひとまず下した前軍はこの後、蓼沼(栃木県上三川町)へ進み、時局はいよいよ宇都宮城の攻防戦 へと移っていくことになります。
ところで、城山八幡神社のすぐ北には、水谷氏の菩提寺である定林寺があります。
下館城を築城した水谷氏初代・勝氏が文明13年(1481)に開山しました。銅鐘は永禄10年(1567)の水谷勝俊による寄進で、県指定文化財にもなっています。
水谷氏歴代墓所
なお、結城四天王としても名を馳せた六代・正村(政村/蟠龍斎)の墓所は、栃木県真岡市の芳全寺にあるようです。