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2018年7月

2018年7月16日 (月)

下妻陣屋、下館城

慶応4年(1868)4月、国府台にて結成された旧幕府脱走陸軍(総督:大鳥圭介)。
秋月登之助・土方歳三率いる前軍(以下「前軍」で表記統一)は4月12日に国府台を出発し、小金原(千葉県松戸市)・布施(同柏市)・水海道(茨城県常総市)を経て、16日に宗道村(茨城県下妻市)まで達します。

十六日、走土(宗道)村ニ宿陣。夜半、隊ヲ整エ、東照宮ノ白旗ヲ瓢シ、我藩ハ鎮守ノ白旗ヲ瓢シテ下妻陣屋〈井上辰若丸、一万石ナリ〉ニ達シ、我立見氏、会ノ米沢氏陣内ニ進ミ、重臣ニ面シ説諭シ、彼情実ヲ聞、強ル能スシテ退ク。土方氏又行テ説ク。暫シテ重臣タル者、候ノ自筆ヲ携、我陣ニ降ル。
(戊辰戦争見聞略記)

時ニ軍監井上清之進、峯松之介、倉田巴(立見鑑三郎)、我輩四人、於之東照神君ノ白旗ヲ翻シ、勢揃ヲシ、常州下妻井上辰若丸、使節ヲ以テ封書ヲ送リ、直ニ辰若丸殿当陣門ニ来リ同志ス。依之秋月某、精兵四百人余ヲ以テ下妻陣屋ヲ巡リ、土方公ハ弐百五十有余人ヲ引テ、同ク下館城ニ向フ
(島田魁日記)

宗道村に到着した前軍は、そこからすぐ北に位置する下妻藩の陣屋へと向かい、「東照大権現」と大書された幟旗を翻して陣屋を包囲して圧力をかけ、城内に使者を派遣して談判に及びます。
旗幟を迫られた下妻藩には、伝習隊をはじめとする旧幕府の精鋭を揃える前軍に武力で抗する術もなく、一部の藩士を従軍させることでなんとか話をつけ、難を逃れました。

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中世には多賀谷氏の居城であったことから、多賀谷城跡公園として整備された下妻城本丸跡。

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多賀谷氏遺跡碑

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思わせぶり?に丸みを帯びた公園の区画や・・・

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周辺との段差、

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公園の先でぐっと下がった地形(西側)が、ここにかつては城が存在したことを連想させるものの、これといった遺構は認められませんでした。

※江戸時代に藩庁が置かれた下妻陣屋の跡地は、この多賀谷城跡公園の西方、現在は下妻第一高等学校の敷地となっている辺りだったことを後日知りました。訂正してお詫びいたします。
(2019年6月 訂正)

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という訳で、下妻に再訪いたしました。
写真は下妻第一高等学校の北東隅に隣接する城山稲荷神社に残る、下妻陣屋のものと伝わる土塁。

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想像していたより高さもあり、結構立派なものでした。

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僅かながらも残された遺構を確認できて良かった。

話を戻します。
先に引用した各史料の記述が一致せず、実際に陣屋へ乗り込んで談判に及んだ面子が誰だったのか確証がなく、「戊辰戦争見聞略記」では土方歳三も乗り込んでいったようにも読めます。
しかし、「立川主税戦争日記」4月17日の条には「(下館藩降伏後)ソレヨリ土方兵隊、秋月隊長合兵ス。」と記されていることから、「島田魁日記」にある通り宗道村で兵を分け、下妻陣屋の包囲は秋月登之助が指揮を執り、土方は250人を率いて先に下館へ向かったのではないかと考えられています。

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下妻から15~6㎞ほど北上した場所に位置する下館城本丸跡(城山八幡神社)
下館城は文明10年(1478)、水谷勝氏による築城と伝えられています。
江戸時代以降は度々城主が変わったものの、享保17年(1732)に石川氏が2万石で入封してからは、その居城として明治の世を迎えました。

城山八幡神社は清和源氏の流れを汲み、石清水八幡宮を尊崇していた石川氏が勧請し、武運長久と領民の安泰を願って建立されました。
鳥居には;
奉 慶應二年丙寅秋八月望日
とあります。土方らの前軍が迫って来た時、この鳥居は既に存在していたことになるのですね。
なお、本殿は市の文化財に指定されています。

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下館城の図
本丸には確かに、「八幡」の文字が見て取れます。
東を五行川、西は「沼」に挟まれた、南北に延びる舌状台地の上に築かれていたようです。

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下館城址

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先の図で、本丸南側の堀が描かれていた位置に該当しそうな道。
五行川へ向かって急坂が下っています。

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下館城の東を流れる五行川。

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五行川畔から見上げる本丸跡。
藪の上が城山八幡神社になります。

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反対に西側の地形。やはり急激に落ちています。
この先には「沼」が広がっていたのでしょう。

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城山八幡神社から、道路を挟んで反対側にある西城(出丸)跡。
江戸期には局出丸とも呼ばれ、城に勤める女性たちの殿舎が置かれていたとも云われています。
四囲を空堀に囲まれていましたが、昭和に入ってからの下館上水道事業により、遺構は消滅してしまいました。

天明十七日、十二字比、復進ミテ下館城〈石川若狭守、三万石ヲ領ス〉ヲ襲フ。速ニ兵ヲ散シテ城ヲ囲ム。彼大ニ驚キ城中ヨリ巳ニ発砲セントス。土方氏、両三人ヲ率ヒ、城中ニ進ミ、重臣ニ面シテ談論ス。是亦忽降ル。故ニ兵粮方ヲ命シ、是ニ陣宿ス。
(戊辰戦争見聞略記)※石川氏下館藩は2万石

内藤隼人(土方)、松井九郎ノ両人ハ一小隊護衛ニテ城中ヘ参向、重役ニ面会シテ談判ニ及ブ。諸隊ハ両士ノ報告ニ依テ戦争ニ相成ル可シト、何レモ奨励シテ相待チケリ。然ル処午前十時頃、重役二人、内藤、松井ト連立門外迄出、諸隊長ヘ懇篤ニ礼有リ、城内ヘ案内ス。其上曾テ違心無キ意ヲ述テ、其証トシテ兵ヲ指出ス。
(戊辰ノ変夢之桟奥羽日記)

下妻藩を下した翌17日、前軍はこの下館城を囲み、土方歳三自らも城内へ乗り込んで談判に及びました
(但し、島田魁や中島登は城内へ向かった人員として、下妻でも談判に向かった井上・倉田(立見)・島田らの名前を挙げており、更に島田魁の日記によれば、土方は大手通りの本営で待機していたようにも読み取れます)

「奥羽日記」には兵ヲ指出スとありますが、下館藩は軍資金と兵粮を提供することで免じられたようです。

下妻・下館両藩をひとまず下した前軍はこの後、蓼沼(栃木県上三川町)へ進み、時局はいよいよ宇都宮城の攻防戦 へと移っていくことになります。


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ところで、城山八幡神社のすぐ北には、水谷氏の菩提寺である定林寺があります。
下館城を築城した水谷氏初代・勝氏が文明13年(1481)に開山しました。銅鐘は永禄10年(1567)の水谷勝俊による寄進で、県指定文化財にもなっています。

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水谷氏歴代墓所
なお、結城四天王としても名を馳せた六代・正村(政村/蟠龍斎)の墓所は、栃木県真岡市の芳全寺にあるようです。

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2018年7月 8日 (日)

顏振峠と渋沢平九郎最期の地

先日、深谷市の渋沢栄一記念館で開催されている「渋沢平九郎展」に足を運び、生家なども見学させていただいた(→参考記事)ので、今回は平九郎が最期を迎えた地を訪れてみました。

慶応4年(1868)5月23日、飯能での新政府軍との戦い(飯能戦争)に敗れて戦場を脱した渋沢平九郎は、現在の飯能市と越生町との境に位置する顏振峠まで逃れてきました。

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細くて心許ない林道を愛車で慎重に登り、どうにか辿り着いた顏振峠

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顏振峠の案内板

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標高500mからの眺望

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顏振峠で営業している平九郎茶屋

なんとか顏振峠まで辿り着いた平九郎は、峠の茶屋で一服した後、更に北東方向へ峠を下っていきます。
この時、茶屋の女主人に「新政府軍の残党狩りがあるから、刀を持っていては素性がバレて危険だ」と言われたからとも、茶屋で求めた草鞋の代金として渡したとも云われていますが、平九郎は太刀を茶屋に置いていったようです。

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平九郎茶屋の店内には、平九郎の肖像写真も飾られていました。
確証はありませんが、どうやら平九郎茶屋のご先祖が、この時の茶屋の女主人にあたるみたいです。

峠を下り、黒山村の辺りまで達したところで新政府軍の斥候部隊に見咎められ、小刀で応戦して一度はそれを振り払ったようですが、銃撃によって負傷し、最後は自刃して果てたと伝えられています。

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黒山の渋沢平九郎自決之地碑

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碑の脇には、平九郎がその上に座って自害したと伝わる自刃岩も。享年僅かに22。
自刃岩の奥に生えているぐみの木は・・・

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その実が平九郎の血の色を宿すとされ、平九郎ぐみと呼ばれています。
私が訪れた7月上旬は既に時期が過ぎていたのか、実の殆どは朽ち、僅かに2~3粒を残すのみとなっていました。
今年(平成30年)は気候の関係で、桜や紫陽花などの花々も開花時期が早まっていたようなので、或いは平九郎ぐみも例外ではなかったのかもしれませんね。

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自決之地碑の正面には、山へ向かって細い道が伸びていました。
或いは平九郎も、この道を伝って峠から下って来たのでしょうか・・・峠から黒山を経由した遥か先には、彼の故郷である下手計村(深谷市)があります。

胴は黒山の村人らによって同村の全洞院に葬られ、首は越生今市村の高札場に晒されましたが、高札場近くの法恩寺の僧侶らによって密かに埋葬されたと云われています。

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黒山村の全洞院

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平九郎の胴が埋葬されたと云うお墓。
全洞院の墓地最上段にありました。

全洞院住職は平九郎の位牌に;
大動即了居士 俗名知らず、江戸のお方にて候、黒山村にて討死
とのみ記したのだそうです。

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平九郎のお墓からの眺め。

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全洞院には後年、義兄であり義父でもある渋沢栄一も、平九郎を偲んで訪れていました。

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今市村の高札場跡
平九郎の首は、この付近に晒されたと云われています。

写真左手には立派な蔵造の建物が残っていました。
あちらは岡野家住宅の店蔵で大正4年(1915)の竣工。写真には写っていませんが更に左手にもう一棟、二階建ての土蔵があり、そちらは江戸後期~明治前期にかけての創建なのだそうです。

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明治2年の今市村地図
高札場の並びに「法恩寺」の文字も見えます。

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こちらがその法恩寺。
天平10年(738)、行基による開創と伝わります。
源頼朝の命で建久元年(1190)に堂塔伽藍が建立され、天正19年(1591)には徳川家康から寺領20石の朱印を与えられたりと、結構な歴史を有しているようです。

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法恩寺絵図
明治20~30年代頃の姿を描いたもののようです。
「扇町屋警察署越生分署」の前の通りを、図面の右へ進むと高札場になります。

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正徳4年(1714)に再建された山門。

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鐘楼
こちらも正徳4年の再建。

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渋沢平九郎埋首之碑
実際に首が葬られた場所は判明していませんが、供養のために後年、法恩寺境内に建碑されました。

今回、渋沢平九郎が最期を迎えた越生町の関連地をめぐって感じたのは、土地の人々が大切に供養し、その歴史を後世の我々にきちんと伝えようとしていることでした。
この地で亡くなったとはいえ、平九郎は出身者でもないいわば“余所者”。一般的には然程メジャーな人物でもなく、それを考えると少々意外でもあり、少しは浮かばれるのかなと嬉しくもありました。

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ところで越生町は、かの太田道灌にも縁深い地。
道灌に関する史跡も数多く残されていますが、これらはいずれまた、機会を改めてじっくりとめぐりたいと思います。

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2018年7月 1日 (日)

和田宿(中山道)

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国道142号線が同152号線と分岐した先、青原交差点で右折すると旧中山道に入ります。

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旧街道らしく、道端のそこかしこに馬頭観音や道祖神が並べられていました。

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下和田地区の若宮八幡宮

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その境内に、和田城主・大井信定のお墓があります。
天文22年(1553)、大井信定は矢ヶ崎で武田晴信(信玄)と戦って討死し、その首級がこの地に埋葬されたと云います。
元禄6年(1693)、和田の信定寺第六世来安察伝和尚によって墓碑が建立されました。
隣りの羽田家とは、大井氏の重臣だった羽田氏を指すものと思われます。

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若宮八幡宮の少し先、芹沢一里塚跡の碑と中山道。

さ、それでは和田宿へ向かいます。

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和田宿本陣に到着。

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和田宿の地図

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まずは本陣から見学します。
和田宿本陣は文久元年(1861)3月10日、宿場を襲った大火によって焼失しています。
しかし、同年11月には皇女和宮の降嫁が決まっていたことから、幕府からの拝借金を以て急ぎ再建されました。

上の写真は中山道側から撮影しているのですが、御入門が中山道に面しておらず、玄関との位置関係にも違和感を覚えました。
けど、それにはちゃんと理由があったのです。

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本陣内で展示されていた図面。写真上方向に中山道が通っています。
実は現在残る建物は図面のピンクで囲まれた、主に長井家の住居として使われていた主屋部分のみで、で囲まれた、和宮や大名の宿泊に充てられた座敷棟は現存していません
維新後に本陣としての役目を終え、拝借金返済のために売却されて、丸子町の龍願寺に移築されたとのことでした。この時、御入門も同様に丸子町の向陽院に移築されています。
その後、座敷棟の跡地に道路ができ、御入門は中山道と垂直に交わるその新しい道路に面して復元されたため、現在のような少々不自然な配置になったのだそうです。

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写真手前を横に走っているのが中山道で、正面方向奥へ伸びている道路の辺りが座敷棟の跡地です。
江戸へ向かう和宮が泊った場所も、御入門が建っていた位置も、この道路付近のいずれかということになります。

主屋にも式台の玄関が存在しているのは、大名の宿泊がバッティングしてしまった場合に、一方(格の低い方)を主屋側に通すためなのだとか。

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玄関から真っ直ぐ奥へと続く(写真手前から)三之間、二之間、一之間などは、そのための空間です。

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主屋の中でも、そうした大名らを通す格式の高い部屋には、白壁や・・・

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黒壁が用いられていますが、

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完全なプライベート空間である居住スペースはこの通り、土壁のままになっていました。

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裏二階へと上がる箱階段

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裏二階
別の階段で表二階(駕籠などが展示されていました)へも上がることができます。

本陣主屋は昭和59年まで、村役場や農協の事務所などとして利用されてきました。

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和田宿の町並み
右に大黒屋、左奥にかわちや。
いずれも当時の旅籠で、本陣で共通券(300円也)を購入すると見学できます。

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まずは、かわちや(歴史の道資料館)から。
かわちやも文久元年の大火で焼失し、和宮降嫁に備えて急ぎ再建されています。

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板の間から土間
引き戸ではなく、珍しく木製の門扉が取り付けられています。

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和宮に随行してくる公家ら、身分の高い人を泊めることも想定して再建されたため、一旅籠ながら式台の玄関や・・・

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上段の間をも有します。
ガイドさんのお話では、岩倉具視もかわちやに泊まる予定だったものの、あまりの大行列で和田宿だけでは収容できず、岩倉は当宿をスルーして下諏訪まで赴いたのだとか。
なお、式台の玄関が利用されたのは和宮降嫁の行列を迎えた時だけで、それ以外の時は先ほどの木製の門扉を利用していたそうです。

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旅人を泊めていた二階。
窓側の天井が一段低くなっているのが、お分かりいただけるかと思います。
窓は中山道に面しており、当然のことながら参勤交代の行列などが通るので、窓から街道に向かって弓を弾けないようにしてあるのだそうです。

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・・・鉄砲を使われたら意味がないような気もするけど(笑)

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別の階段で、宿主の家族や使用人らが生活する二階へ。
本陣でいうところの裏二階に相当するのかな?

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その裏二階から中山道を見る。

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続いて大黒屋へ。
こちらは無人でしたが、電気が点いて鍵も掛かっていなかったので、チケットもあることだし勝手に入らせていただきました(笑)

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大黒屋では女郎さんを置いていたようで、二階部分は彼女らが逃げ出せないよう、夜は階段を外して閉じ込め部屋になっていたのだそうです。

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こちらは信定寺
武田晴信との合戦で討死した大井信定の菩提を弔うため、天文22年に創建されました。
そういえば、かわちやに「信玄袋」と呼ばれる旅行用の手提げ袋が展示されていました。侵攻~支配を受けたこともあり、何かと武田家と縁の深い土地柄なのですね。
幕末期、当寺14世の活紋禅師は隠居後に上田へ移り、佐久間象山から師と仰がれています。

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信定寺の裏山が大井氏の和田城跡で、いい空堀が残ってるとのことでしたが・・・
雨降る中、途中まではトライしましたが、中腹辺りでルートを見失い、安全を考慮して撤退しました。
いずれまた和田宿を訪れる機会があれば、下調べをした上でリベンジしたいと思います。

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ところで、和田宿にも「いしあい」さんがいらした(今も?)ようです。
割と珍しいお名前だと思うのですが、長久保宿の石合家と関係があるのでしょうか・・・?

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和田宿の先へと続く中山道。

本来であればこの後も中山道を辿りつつ、唐沢の一里塚とか、水戸天狗党の墓とか、観て回りたいポイントがあったのですが、和田に入った頃から降り出した雨がいよいよ本降りとなり、あえなく断念。。。
諏訪まで一気に走り抜け、そのまま中央道で帰路につきました。

今回は車での行動だったので見落としも多く、改めて街道旅は歩くに限ると思いました。
いずれ再チャレンジしたいと思います。

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