顏振峠と渋沢平九郎最期の地
先日、深谷市の渋沢栄一記念館で開催されている「渋沢平九郎展」に足を運び、生家なども見学させていただいた(→参考記事)ので、今回は平九郎が最期を迎えた地を訪れてみました。
慶応4年(1868)5月23日、飯能での新政府軍との戦い(飯能戦争)に敗れて戦場を脱した渋沢平九郎は、現在の飯能市と越生町との境に位置する顏振峠まで逃れてきました。
細くて心許ない林道を愛車で慎重に登り、どうにか辿り着いた顏振峠。
顏振峠の案内板
標高500mからの眺望
顏振峠で営業している平九郎茶屋。
なんとか顏振峠まで辿り着いた平九郎は、峠の茶屋で一服した後、更に北東方向へ峠を下っていきます。
この時、茶屋の女主人に「新政府軍の残党狩りがあるから、刀を持っていては素性がバレて危険だ」と言われたからとも、茶屋で求めた草鞋の代金として渡したとも云われていますが、平九郎は太刀を茶屋に置いていったようです。
平九郎茶屋の店内には、平九郎の肖像写真も飾られていました。
確証はありませんが、どうやら平九郎茶屋のご先祖が、この時の茶屋の女主人にあたるみたいです。
峠を下り、黒山村の辺りまで達したところで新政府軍の斥候部隊に見咎められ、小刀で応戦して一度はそれを振り払ったようですが、銃撃によって負傷し、最後は自刃して果てたと伝えられています。
黒山の渋沢平九郎自決之地碑
碑の脇には、平九郎がその上に座って自害したと伝わる自刃岩も。享年僅かに22。
自刃岩の奥に生えているぐみの木は・・・
その実が平九郎の血の色を宿すとされ、平九郎ぐみと呼ばれています。
私が訪れた7月上旬は既に時期が過ぎていたのか、実の殆どは朽ち、僅かに2~3粒を残すのみとなっていました。
今年(平成30年)は気候の関係で、桜や紫陽花などの花々も開花時期が早まっていたようなので、或いは平九郎ぐみも例外ではなかったのかもしれませんね。
自決之地碑の正面には、山へ向かって細い道が伸びていました。
或いは平九郎も、この道を伝って峠から下って来たのでしょうか・・・峠から黒山を経由した遥か先には、彼の故郷である下手計村(深谷市)があります。
胴は黒山の村人らによって同村の全洞院に葬られ、首は越生今市村の高札場に晒されましたが、高札場近くの法恩寺の僧侶らによって密かに埋葬されたと云われています。
黒山村の全洞院
平九郎の胴が埋葬されたと云うお墓。
全洞院の墓地最上段にありました。
全洞院住職は平九郎の位牌に;
大動即了居士 俗名知らず、江戸のお方にて候、黒山村にて討死
とのみ記したのだそうです。
平九郎のお墓からの眺め。
全洞院には後年、義兄であり義父でもある渋沢栄一も、平九郎を偲んで訪れていました。
今市村の高札場跡
平九郎の首は、この付近に晒されたと云われています。
写真左手には立派な蔵造の建物が残っていました。
あちらは岡野家住宅の店蔵で大正4年(1915)の竣工。写真には写っていませんが更に左手にもう一棟、二階建ての土蔵があり、そちらは江戸後期~明治前期にかけての創建なのだそうです。
明治2年の今市村地図
高札場の並びに「法恩寺」の文字も見えます。
こちらがその法恩寺。
天平10年(738)、行基による開創と伝わります。
源頼朝の命で建久元年(1190)に堂塔伽藍が建立され、天正19年(1591)には徳川家康から寺領20石の朱印を与えられたりと、結構な歴史を有しているようです。
法恩寺絵図
明治20~30年代頃の姿を描いたもののようです。
「扇町屋警察署越生分署」の前の通りを、図面の右へ進むと高札場になります。
正徳4年(1714)に再建された山門。
鐘楼
こちらも正徳4年の再建。
渋沢平九郎埋首之碑
実際に首が葬られた場所は判明していませんが、供養のために後年、法恩寺境内に建碑されました。
今回、渋沢平九郎が最期を迎えた越生町の関連地をめぐって感じたのは、土地の人々が大切に供養し、その歴史を後世の我々にきちんと伝えようとしていることでした。
この地で亡くなったとはいえ、平九郎は出身者でもないいわば“余所者”。一般的には然程メジャーな人物でもなく、それを考えると少々意外でもあり、少しは浮かばれるのかなと嬉しくもありました。
ところで越生町は、かの太田道灌にも縁深い地。
道灌に関する史跡も数多く残されていますが、これらはいずれまた、機会を改めてじっくりとめぐりたいと思います。
慶応4年(1868)5月23日、飯能での新政府軍との戦い(飯能戦争)に敗れて戦場を脱した渋沢平九郎は、現在の飯能市と越生町との境に位置する顏振峠まで逃れてきました。
細くて心許ない林道を愛車で慎重に登り、どうにか辿り着いた顏振峠。
顏振峠の案内板
標高500mからの眺望
顏振峠で営業している平九郎茶屋。
なんとか顏振峠まで辿り着いた平九郎は、峠の茶屋で一服した後、更に北東方向へ峠を下っていきます。
この時、茶屋の女主人に「新政府軍の残党狩りがあるから、刀を持っていては素性がバレて危険だ」と言われたからとも、茶屋で求めた草鞋の代金として渡したとも云われていますが、平九郎は太刀を茶屋に置いていったようです。
平九郎茶屋の店内には、平九郎の肖像写真も飾られていました。
確証はありませんが、どうやら平九郎茶屋のご先祖が、この時の茶屋の女主人にあたるみたいです。
峠を下り、黒山村の辺りまで達したところで新政府軍の斥候部隊に見咎められ、小刀で応戦して一度はそれを振り払ったようですが、銃撃によって負傷し、最後は自刃して果てたと伝えられています。
黒山の渋沢平九郎自決之地碑
碑の脇には、平九郎がその上に座って自害したと伝わる自刃岩も。享年僅かに22。
自刃岩の奥に生えているぐみの木は・・・
その実が平九郎の血の色を宿すとされ、平九郎ぐみと呼ばれています。
私が訪れた7月上旬は既に時期が過ぎていたのか、実の殆どは朽ち、僅かに2~3粒を残すのみとなっていました。
今年(平成30年)は気候の関係で、桜や紫陽花などの花々も開花時期が早まっていたようなので、或いは平九郎ぐみも例外ではなかったのかもしれませんね。
自決之地碑の正面には、山へ向かって細い道が伸びていました。
或いは平九郎も、この道を伝って峠から下って来たのでしょうか・・・峠から黒山を経由した遥か先には、彼の故郷である下手計村(深谷市)があります。
胴は黒山の村人らによって同村の全洞院に葬られ、首は越生今市村の高札場に晒されましたが、高札場近くの法恩寺の僧侶らによって密かに埋葬されたと云われています。
黒山村の全洞院
平九郎の胴が埋葬されたと云うお墓。
全洞院の墓地最上段にありました。
全洞院住職は平九郎の位牌に;
大動即了居士 俗名知らず、江戸のお方にて候、黒山村にて討死
とのみ記したのだそうです。
平九郎のお墓からの眺め。
全洞院には後年、義兄であり義父でもある渋沢栄一も、平九郎を偲んで訪れていました。
今市村の高札場跡
平九郎の首は、この付近に晒されたと云われています。
写真左手には立派な蔵造の建物が残っていました。
あちらは岡野家住宅の店蔵で大正4年(1915)の竣工。写真には写っていませんが更に左手にもう一棟、二階建ての土蔵があり、そちらは江戸後期~明治前期にかけての創建なのだそうです。
明治2年の今市村地図
高札場の並びに「法恩寺」の文字も見えます。
こちらがその法恩寺。
天平10年(738)、行基による開創と伝わります。
源頼朝の命で建久元年(1190)に堂塔伽藍が建立され、天正19年(1591)には徳川家康から寺領20石の朱印を与えられたりと、結構な歴史を有しているようです。
法恩寺絵図
明治20~30年代頃の姿を描いたもののようです。
「扇町屋警察署越生分署」の前の通りを、図面の右へ進むと高札場になります。
正徳4年(1714)に再建された山門。
鐘楼
こちらも正徳4年の再建。
渋沢平九郎埋首之碑
実際に首が葬られた場所は判明していませんが、供養のために後年、法恩寺境内に建碑されました。
今回、渋沢平九郎が最期を迎えた越生町の関連地をめぐって感じたのは、土地の人々が大切に供養し、その歴史を後世の我々にきちんと伝えようとしていることでした。
この地で亡くなったとはいえ、平九郎は出身者でもないいわば“余所者”。一般的には然程メジャーな人物でもなく、それを考えると少々意外でもあり、少しは浮かばれるのかなと嬉しくもありました。
ところで越生町は、かの太田道灌にも縁深い地。
道灌に関する史跡も数多く残されていますが、これらはいずれまた、機会を改めてじっくりとめぐりたいと思います。
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