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2018年7月 1日 (日)

和田宿(中山道)

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国道142号線が同152号線と分岐した先、青原交差点で右折すると旧中山道に入ります。

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旧街道らしく、道端のそこかしこに馬頭観音や道祖神が並べられていました。

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下和田地区の若宮八幡宮

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その境内に、和田城主・大井信定のお墓があります。
天文22年(1553)、大井信定は矢ヶ崎で武田晴信(信玄)と戦って討死し、その首級がこの地に埋葬されたと云います。
元禄6年(1693)、和田の信定寺第六世来安察伝和尚によって墓碑が建立されました。
隣りの羽田家とは、大井氏の重臣だった羽田氏を指すものと思われます。

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若宮八幡宮の少し先、芹沢一里塚跡の碑と中山道。

さ、それでは和田宿へ向かいます。

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和田宿本陣に到着。

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和田宿の地図

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まずは本陣から見学します。
和田宿本陣は文久元年(1861)3月10日、宿場を襲った大火によって焼失しています。
しかし、同年11月には皇女和宮の降嫁が決まっていたことから、幕府からの拝借金を以て急ぎ再建されました。

上の写真は中山道側から撮影しているのですが、御入門が中山道に面しておらず、玄関との位置関係にも違和感を覚えました。
けど、それにはちゃんと理由があったのです。

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本陣内で展示されていた図面。写真上方向に中山道が通っています。
実は現在残る建物は図面のピンクで囲まれた、主に長井家の住居として使われていた主屋部分のみで、で囲まれた、和宮や大名の宿泊に充てられた座敷棟は現存していません
維新後に本陣としての役目を終え、拝借金返済のために売却されて、丸子町の龍願寺に移築されたとのことでした。この時、御入門も同様に丸子町の向陽院に移築されています。
その後、座敷棟の跡地に道路ができ、御入門は中山道と垂直に交わるその新しい道路に面して復元されたため、現在のような少々不自然な配置になったのだそうです。

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写真手前を横に走っているのが中山道で、正面方向奥へ伸びている道路の辺りが座敷棟の跡地です。
江戸へ向かう和宮が泊った場所も、御入門が建っていた位置も、この道路付近のいずれかということになります。

主屋にも式台の玄関が存在しているのは、大名の宿泊がバッティングしてしまった場合に、一方(格の低い方)を主屋側に通すためなのだとか。

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玄関から真っ直ぐ奥へと続く(写真手前から)三之間、二之間、一之間などは、そのための空間です。

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主屋の中でも、そうした大名らを通す格式の高い部屋には、白壁や・・・

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黒壁が用いられていますが、

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完全なプライベート空間である居住スペースはこの通り、土壁のままになっていました。

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裏二階へと上がる箱階段

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裏二階
別の階段で表二階(駕籠などが展示されていました)へも上がることができます。

本陣主屋は昭和59年まで、村役場や農協の事務所などとして利用されてきました。

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和田宿の町並み
右に大黒屋、左奥にかわちや。
いずれも当時の旅籠で、本陣で共通券(300円也)を購入すると見学できます。

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まずは、かわちや(歴史の道資料館)から。
かわちやも文久元年の大火で焼失し、和宮降嫁に備えて急ぎ再建されています。

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板の間から土間
引き戸ではなく、珍しく木製の門扉が取り付けられています。

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和宮に随行してくる公家ら、身分の高い人を泊めることも想定して再建されたため、一旅籠ながら式台の玄関や・・・

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上段の間をも有します。
ガイドさんのお話では、岩倉具視もかわちやに泊まる予定だったものの、あまりの大行列で和田宿だけでは収容できず、岩倉は当宿をスルーして下諏訪まで赴いたのだとか。
なお、式台の玄関が利用されたのは和宮降嫁の行列を迎えた時だけで、それ以外の時は先ほどの木製の門扉を利用していたそうです。

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旅人を泊めていた二階。
窓側の天井が一段低くなっているのが、お分かりいただけるかと思います。
窓は中山道に面しており、当然のことながら参勤交代の行列などが通るので、窓から街道に向かって弓を弾けないようにしてあるのだそうです。

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・・・鉄砲を使われたら意味がないような気もするけど(笑)

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別の階段で、宿主の家族や使用人らが生活する二階へ。
本陣でいうところの裏二階に相当するのかな?

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その裏二階から中山道を見る。

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続いて大黒屋へ。
こちらは無人でしたが、電気が点いて鍵も掛かっていなかったので、チケットもあることだし勝手に入らせていただきました(笑)

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大黒屋では女郎さんを置いていたようで、二階部分は彼女らが逃げ出せないよう、夜は階段を外して閉じ込め部屋になっていたのだそうです。

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こちらは信定寺
武田晴信との合戦で討死した大井信定の菩提を弔うため、天文22年に創建されました。
そういえば、かわちやに「信玄袋」と呼ばれる旅行用の手提げ袋が展示されていました。侵攻~支配を受けたこともあり、何かと武田家と縁の深い土地柄なのですね。
幕末期、当寺14世の活紋禅師は隠居後に上田へ移り、佐久間象山から師と仰がれています。

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信定寺の裏山が大井氏の和田城跡で、いい空堀が残ってるとのことでしたが・・・
雨降る中、途中まではトライしましたが、中腹辺りでルートを見失い、安全を考慮して撤退しました。
いずれまた和田宿を訪れる機会があれば、下調べをした上でリベンジしたいと思います。

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ところで、和田宿にも「いしあい」さんがいらした(今も?)ようです。
割と珍しいお名前だと思うのですが、長久保宿の石合家と関係があるのでしょうか・・・?

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和田宿の先へと続く中山道。

本来であればこの後も中山道を辿りつつ、唐沢の一里塚とか、水戸天狗党の墓とか、観て回りたいポイントがあったのですが、和田に入った頃から降り出した雨がいよいよ本降りとなり、あえなく断念。。。
諏訪まで一気に走り抜け、そのまま中央道で帰路につきました。

今回は車での行動だったので見落としも多く、改めて街道旅は歩くに限ると思いました。
いずれ再チャレンジしたいと思います。

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