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2018年8月

2018年8月29日 (水)

東山温泉 (天寧寺の湯)

8月26~27日は会津、東山温泉へのドライブ旅。
8世紀頃、行基によって開湯されたとも伝えられる東山温泉。周辺一帯が天寧寺の寺領だったことから、江戸時代の頃までは「天寧寺の湯」と呼ばれていました。

慶応4年(1868)4月の宇都宮での戦闘で足を負傷し、会津城下七日町の清水屋に滞在していた土方歳三も、東山温泉に通って怪我の療養に努めていたと云われています。
そんな東山温泉に一度は泊ってみたいとの思いを此度、ようやく実現させてきました。

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道中、白河小峯城にも立ち寄って・・・

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集古苑で開催されている特別企画展「戊辰戦争と白河」を見学したりしつつ・・・
白河口の戦いについては、コチラの記事を参照ください。

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午後3時過ぎには早々に東山温泉の宿、庄助の宿 瀧の湯に到着。

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チェックイン前にロビーで、抹茶と水羊羹のおもてなし。
右端の杯は何に使うのかと言うと・・・

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お酒が大好きだったと云う庄助さんにちなみ、なんとウェルカム利き酒のサービスまでありました。

会津の民謡「会津磐梯山」にも登場し;

朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした

と謡われる小原庄助
その出自や人となりには諸説あり、謎の多い人物とされています。
宿名に冠した「庄助の宿」は、そんな小原庄助が瀧の湯を訪れていたとの言い伝えに由来しているそうです。

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館内の売店で「庄助の酒」も販売されていますが、朝酒が好きだったという庄助にちなみ、朝だけ格安なお値段で購入できるサービスまでやっていました。
無論、私もお酒だけは翌朝になってから購入しました(笑)

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リーズナブルな宿泊プランの割には、お部屋も案外いい感じ。

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宿のすぐ脇に伏見ヶ滝
瀧の湯の大浴場や露天風呂は、この伏見ヶ滝のロケーションを売りの一つにしています。

心配していた雨もなんとか持ち堪えてくれたので、少し温泉街の散策に出かけました。

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「きつね湯」と称し、元は会津藩の保養所だった向瀧
土方が実際に利用していた湯が東山温泉のいずれだったのかは判っておらず、主な候補として三湯挙げられています。この向瀧がその一つ。
歴史を感じさせる建物に趣もあり、なんとも素敵な佇まいでした。

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こちらも候補の一つ、東山温泉最古の源泉とも云われる「猿の湯」を有する不動滝(新滝別館)の岩風呂(跡)。
「土方歳三 戦傷湯治の岩風呂」との案内板も掲げられていました。
※ちなみに本館の新滝は、元は会津藩主の別荘があった場所とされています。

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「猿の湯」の岩風呂は、あの土方歳三の絵の足元付近にあります。

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明治19年まで、東山温泉に至る本道(つまりは温泉街の入口)だった残念坂
湯浴みを楽しんで家路につく客が、後ろ髪を引かれる思いで「もう帰らないといけないのか、残念・・・」と呟いたとか呟かないとか。。。

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残念坂から続くみかえり坂
この先は会津の城下町へと続いていました。

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みかえり坂の沿道に建つ、羽黒山湯上神社の大きな鳥居。
もしかすると土方も、天寧寺で近藤勇のお墓に参った後、この鳥居の前を通ってみかえり坂をゆるゆると下り・・・

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あの角で右へ折れて・・・

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残念坂を下って東山温泉に通っていたのかもしれませんね。

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たまたま見かけた射的屋。
とってもノスタルジックな昭和の香りが漂っていました。
もし幕末の頃にも営業していたら、土方も「おのれ、薩長の奴らめ!」なんて言いながら、ムキになって遊んでいたのかも・・・なんて考えてみたり(笑)

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東山温泉には多くの文人墨客も訪れています。
竹久夢二もその一人。彼がよく逗留していた新滝の前には歌碑も建てられていました。

さて、ここらで散策を終え、宿に戻って夕食前にひとっ風呂浴びることにします。

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大浴場前に展示されていた小原庄助愛用の石風呂

ところで先程、土方歳三療養の湯には候補が三つあるということを書きましたが、その最後の一つこそ、私が今回お世話になった瀧の湯です。
瀧の湯にはその昔、会津藩の共同湯がありました。
(向瀧の「保養所」に瀧の湯の「共同湯」・・・違いがイマイチよく分かりませんが、前者は上級藩士用、後者はそれ以外の一般藩士にも開放されていたもの、と解したらよろしいのでしょうかね)

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そんな訳で大浴場には「瀧の湯こそ土方歳三療養の湯と考えられる」との見解が綴られた案内書きもありました…(^_^;)
※根拠の一つとして「土方が滞在していた清水屋や、お参りしていたであろう近藤勇のお墓がある天寧寺から一番近く、足を怪我していた土方が一番近い湯につかりに来ていたと考えるのは自然なこと」といった趣旨のことが書かれていましたが、確かに直線距離としては市中から一番近い場所に位置しているものの、先ほど見てきたみかえり坂~残念坂のルートが東山温泉への本道とすると、経路的には必ずしも一番近いとは言えないような気もします・・・他にもルートがあったのであれば別ですが。
(それ以前に、そもそもが小さな温泉街なので、遠い近いと言ったところでたいした差でもありません)

結局のところ、確かな史料で確認できない以上、確定することも難しいでしょう。
しかしそれでも、その可能性のある湯に150年の時を経て実際に浸かることができる喜びは、ファンにとってはやはり格別なものがあります。

実際に体感した瀧の湯は、透明でサラッとしたお湯。
水温は、ぬる湯にのんびりとつかりたい派には少々高めですが、とても気持ちのいい時間を過ごせました。
※温泉には全く見識がないので、この程度の感想でご容赦ください(笑)

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夕食の献立
くどいようですが、料金の割にはしっかりと食べさせてくれました。

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夜、ロビーではプロジェクションマッピングの上映も。
川を挟んだ対岸に設置された能舞台に投影されています。

こうして東山温泉の夜は、ゆったりした心地の中で更けてゆくのでした。。。

翌朝は4:30の利用開始時間と同時に大浴場へ。
昨晩とは男女入れ替えとなっており、先客僅か1名の広々とした中、また新たな気分で温泉を楽しめました。

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更には、通常は予約制の貸し切りとなっている露天風呂のうち、川っぺりの岩風呂「幻の湯」が朝は男湯として開放されていましたので、そちらも楽しませていただきました。
目の前には昨晩、プロジェクションマッピングを投影していた能舞台も。

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岩風呂のすぐ横を流れる川。
東山温泉で湯治していた土方歳三は、風呂場から川に飛び込んだというエピソードを残しています・・・本当であれば、足を怪我しているのに何してんだか ┐(´-`)┌ といったところですが(笑)
しかしなんだかとっても、その時の光景をイメージしやすいロケーションだなぁ~とは感じました。

この後、会津若松市は大雨となりましたので、もう少し入浴時間が遅くなっていたら川の増水で「幻の湯」には入れなかったかもしれません・・・まさに、早起きは三文の徳!?

さて、朝食バイキングを済ませ、部屋でチェックアウトの準備をしていると、先述の通り空からは滝のような大雨が。。。
本来であれば天寧寺にも寄って、久しぶりに近藤勇のお墓にお参りして行きたかったところですが、本堂から山道をそこそこ登るので、大雨ではアウト。

あまりの本降りに自宅への直帰も考えましたが、いざチェックアウトを済ませて表へ出てみると少し弱まっていましたので、まずは飯盛山へ向かってみることにしました。

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自刃した白虎隊士中二番隊十九士の墓所や、ただ一人蘇生して生き残った飯沼貞吉(貞雄)のお墓にもお参りして、自刃の地へ。
鶴ヶ城の天守が遠く雨に煙っていました。

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縁あって会津には何度も来ているのですが、飯盛山参拝は実に30年ぶりとなりました。

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ご存じ、さざえ堂。

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戸ノ口堰洞穴

白虎隊伝承史学館にも立ち寄り、山川大蔵が斎藤一に贈った書(初公開)も拝観してきました。
つとむてふ君がその名にそむかずばたかくいさほのたださだめやは
※つとむ(勉)=斎藤一の子息

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続いて鶴ヶ城へ。
天守から望む小田山、そして先ほどまで滞在していた東山温泉方面。
天守登閣も30年ぶりとなりました。

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帰路は会津西街道(下野街道)のルートを辿りつつ、今市(日光市)辺りまでは下道を走りたかったのですが、天守から確認した南方の山々に厚い雨雲がかかっていましたので、それも諦めて磐越道→東北道のルートを採りました。

会津にはまた近いうちに足を運びますので、今回諦めた行程はその時にでもトライしてみます。
今回はとにかく、東山温泉を満喫できたので良しとしたいと思います。

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2018年8月23日 (木)

市村鉄之助の墓参

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旅のラストは大垣へ移動し、全昌寺へ。

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市村辰之助・鉄之助兄弟の眠るお墓にお参りさせていただきました。

市村鉄之助
慶応3年(1867)に兄・辰之助と共に14歳で新選組に入隊し、土方歳三付の小姓となります。
翌年の鳥羽伏見や甲州勝沼での敗走後、辰之助は新選組を脱走しますが鉄之助は残り、土方に従って箱館まで旧幕府軍の戦いの中に身を置きました。
土方をして「頗る勝気、性亦怜悧」と評されています。
明治2年(1869)5月、土方の命を受けた鉄之助は箱館を脱し、決死の思いで日野宿の佐藤彦五郎宅へ土方の肖像写真をはじめとする遺品を届けました。
2年ほど佐藤家の世話になった後に大垣へ帰郷、明治6年(1873)に病死したとも、同10年の西南戦争に参戦して戦死したとも伝えられています。

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(参考)日野宿本陣(旧佐藤邸)、鉄之助が2年間住んでいた一間。

一般に鉄之助の戒名は、養浩院廓然良機居士と伝えられていますが、墓石に該当するものが見当たりませんでした。
・・・隣光院寂然良久居士が近いかな?

なお、有隣院一官宗徳居士が兄・辰之助のものです。

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全昌寺には大垣藩の重臣、小原鉄心のお墓もあります。

鉄心は慶応4年1月、新政府で参与に任じられています。
しかし大垣藩は、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍に属しており、鉄心の養子・兵部も出陣していました。これを受けて鉄心は大垣へ急行し、藩主戸田氏共を説得して藩論を新政府恭順にまとめ上げることに成功しました。
これ以降大垣藩は、新政府軍の一翼を担って戊辰戦争を戦っていきます。

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全昌寺のすぐ裏手、奥の細道むすびの地記念館に移築されている小原鉄心の別荘、無可有荘 大醒榭(※「木」へんに「射」)

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ついでにもう少し散策を続けます。
天保11年(1840)に建てられた住吉燈台船町港跡

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そして大垣城・・・実に14年ぶりの再訪です。
しかも前回は豪雨の中で、結局天守まで近づけなかったのでした。

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関ヶ原合戦直前、石田三成ら西軍の本営が置かれた大垣城から、東軍の赤坂岡山(勝山/写真右方向)、そして南宮山越しに関ヶ原方面を見渡す。

今回の2泊3日、天候にも恵まれたお陰でとにかく暑かった・・・。
3日間で体内の水分が全て入れ替わったのではないかと思えるくらい、よく汗をかきました。
それでも多くの場所を訪れ、たくさんの学びを得られたのは偏に仲間のお陰。感謝に堪えません。

さて・・・次の遠征は果たしてどこになるやら。
その時期は・・・案外近いかも?

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2018年8月22日 (水)

揖斐 旗本岡田家、横倉喜三次ゆかりの地

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揖斐陣屋跡の碑
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の後、揖斐は西尾光教の領地となります。
光教は山上の旧揖斐城の麓に新たな城を築き、揖斐藩3万石の拠点としますが、1623年に2代嘉教が亡くなると揖斐藩は無嗣断絶となり、揖斐は天領となりました。
寛永8年(1631)、美濃郡代を務める旗本岡田氏が代官として着任し、揖斐城を改修して陣屋としました。

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三輪神社
中嶋流砲術の額が奉納されているのですが、そこには岡田家の武術指南役を務めた横倉喜三次も一番に名を連ねています。
岡田家は慶応4年(1868)、戊辰戦争に於いて新政府に恭順して東山道軍に兵を派遣しますが、喜三次はその岡田隊の副隊長として従軍しています。その過程で下諏訪では、太刀取りの手元が狂って苦しむ赤報隊の相楽総三を介錯し、板橋では新選組近藤勇の太刀取りをも務めました。

ダメ元で拝観をお願いしてみようと思っていましたが、この日は何故か社務所も不在で叶いませんでした。

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三輪神社横に建つ三霊神社
岡田家の初代善同、2代善政、8代善明の3人を祀ります。

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三輪神社拝殿

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三輪神社の向かい、横倉喜三次が開いた道場忠信館跡。

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三輪神社の隣り、松林寺
長禄2年(1458)の創建と伝わります。
慶長年間には揖斐藩主西尾家の菩提寺として再興され、岡田家2代善政も自らの菩提寺としています。
横倉喜三次もこの寺で、近藤勇らの供養をしていたとか。

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先の小倉山城の記事でも書きましたが、善政は無嗣断絶となった上有知藩の後処理にあたった際、小倉山城にあった金森長近の名が入った梵鐘を松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄

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松林寺には岡田家歴代の供養塔(写真)や、その横には9代善功(雪台/松林寺住職も務める)の墓碑もあり、

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更には、初代揖斐藩主・西尾光教夫妻らの墓所もありました。
西尾光教は本能寺の変の当日、天正10年6月2日付で明智光秀から、
「父子悪逆天下の妨げ討ち果たし候」
という書状を送られています。

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松林寺の近くには「弁慶の腕だめし石」なるものがあり、大きな手形もついていましたが、これは9代善功が松江藩主・松平不昧の養子を経て岡田家に養子入りしていることから、松江藩のお抱え力士であった雷電為右衛門の手形ではないか、とも云われているそうです。

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ひょんなことから立ち寄った長源寺。

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長源寺の本堂には、古く朽ち果てた駕籠が吊るされていました。

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大興寺

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大興寺境内

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大興寺にて、横倉喜三次の墓所にもお参りさせていただきました。

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大興寺には本郷城の項でご紹介した土岐頼忠の兄で、同じく美濃守護頼康の弟、土岐頼雄のお墓もありました。
頼雄は揖斐頼雄とも称しています。

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2018年8月21日 (火)

道三塚や稲葉一鉄ゆかりの地など

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旅の3日目、最終日は道三塚からスタートです。

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弘治2年(1556)の長良川の戦いで息子の義龍に敗れ、あえなく戦死を遂げた斎藤道三
彼の遺骸は崇福寺の南西、長良川の河畔に埋葬されましたが、度重なる洪水で塚は幾度となく流されてしまいました。

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現在のもの(崇福寺の北西)は天保8年(1837)、斎藤家の菩提寺・常在寺住職の手によって建碑され、供養されてきたものです。

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続いて本巣郡北方町の北方城跡へ。
西美濃三人衆の一人、安藤(安東/伊賀氏)守就の居城として知られます。
守就は土岐・斎藤・織田と仕えますが、天正8年(1580)、織田信長から追放処分を受けて北方城も召し上げられました。
しかし、その信長が本能寺の変(天正10年)で斃れると旧領奪還を目論んで挙兵し北方城に拠りますが、最後は斉藤氏に攻められて討死しました。
北方城跡の近くには、守就戦死の地もあります。

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碑の建つ一角は、本丸のごく一部と考えられています。
周囲には堀の痕跡と思われる用水路なども残っているようですが、今回は先を急ぐのでこの辺で。

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揖斐郡池田町本郷の本郷城跡

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築城時期や築城者はハッキリしていませんが、後に美濃国守護となる土岐頼忠や、その子の頼益が在城していた時期もあるようです。

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それ以降は国枝氏の居城となりますが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで岐阜城主・織田秀信に従って西軍に属したため、城は東軍によって焼き払われて廃城となりました。

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今でも主郭北西隅の土塁と櫓台が僅かに残ります。

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櫓台に残る石垣の隅石。

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なお、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄(良通)もこの本郷城で生を受けています。

本当はこの後、揖斐川町の旗本岡田氏や横倉喜三次関連の史跡をめぐったのですが、記事の構成上、そのレポは次に回して先へ進めます。

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揖斐郡揖斐川町清水の清水城跡
稲葉一鉄が天正年間に築城したと伝わります。

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一鉄の菩提寺、月桂院

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月桂院本堂では、稲葉一鉄の御位牌や肖像画、書状類などを拝観させていただきました。
※その中に、飯沼勘平に宛てた織田信長のものらしき感状や書状もありました。
感状は元亀二年付。飯沼勘平は「信長公記」にも度々その名が登場します(1600年の米野・岐阜城外での戦いで討死した飯沼父子は、その子と孫)が、信長の花押や署名の筆跡など、少々腑に落ちない点もあるので詳細は省きます。

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稲葉一鉄の陣鐘
清水城内で陣鐘として用いられていた梵鐘。領民が揖斐川から拾い上げ、一鉄に献上したものと伝わります。
元応二年(1320)の銘があり、岐阜県下では2番目に古い梵鐘になるそうです。

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稲葉神社

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稲葉一鉄の墓所
右に貞通(一鉄嫡子)室、一鉄室、貞通後室(織田信長妹、或いは姉とも)のお墓も並んでいました。

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2018年8月20日 (月)

郡上八幡の徹夜おどり(郡上おどり)

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郡上八幡に到着後、まずはお城を散策。

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ご存知、魚の形をした城下町。

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日本三大盆踊りの一つにも数えられる郡上おどりは、7月中旬~9月上旬まで続きますが、中でもクライマックスの徹夜おどりは、我々が訪れた8月13日から16日までの4日間のみ開催されます。

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徹夜おどりの開幕は午後8時。
それまでの間は、会場となる城下町を散策したり・・・

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予め予約しておいていただいたお店で、美味しい夕食に舌鼓を打ちながら過ごしました。

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郡上おどりは下駄で踊るのが一般的なのだとか。
同行者たちもお店で買い揃えていました。

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郡上八幡に魅了された「ちびまる子ちゃん」の作者、さくらももこが生み出したイメージキャラクター「GJ8マン」(笑)

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おや?ご本人(違)まで登場~♪

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そうこうしているうちに、いよいよ徹夜おどりが始まります!

・・・ところがね、日も暮れて気温も然程高くはなかったのに、群がる群衆の熱気にすっかりやられた私は一人汗が止まらず、おどりが開始される頃には既に体力の限界。
頭痛もひどくなり、このままでは迷惑をかけるとおどりに参加することなく、人だかりから離れて涼むことにしました・・・。

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それでも折角連れてきて貰ったので、おどりの様子をちょっとだけご紹介。

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開始直後までしか会場にいなかったので正確なところはわかりませんが、おどり手は一直線の通りを囲むようにして並び、細長い輪を回るようにして進みながら踊っていました。
写真はその折り返し地点。

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一人喧騒から離れて眺めた、夜の郡上八幡城。
こんな体たらくなのでろくな記事にもなりませんが、同行者たちはとっても満喫していたようなので、興味ある方は是非来年以降、参加してみてください。

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2018年8月19日 (日)

弥勒寺官衙遺跡群、小倉山城、他

夏の岐阜旅2日目(といっても初日は岐阜旅ではなかったけどw)
この日は徹夜おどり参加のため、最終的には郡上八幡へ向かいますが、それまでの時間は関市や美濃市の史跡をめぐりました。
まずはじめは・・・

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関市池尻の弥勒寺官衙遺跡群へ。
奥に見えるのは現在の弥勒寺です。

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ここは、「古事記」や「日本書紀」にその名が見える古代豪族ムゲツ氏(牟義都/牟下津)の本拠地。
壬申の乱(672)で大海人皇子の勝利に功績のあったムゲツ氏は、長良川河畔のこの地に氏寺となる弥勒寺を建立し、武儀郡を治める役所(官衙)を整備しました。
その栄華は平安時代の中頃(10世紀前半)まで続いたと云います。

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手前に正倉院跡、奥に郡庁跡。

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こちらは弥勒寺跡。
中門を通って東に塔、西に金堂、正面奥に講堂が配されていました。

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塔跡

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講堂跡

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講堂跡の背後にも、何かしらの造成の跡が窺えました。

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その講堂背後の山へ少し入った場所に、円空のお墓があります。
江戸時代前期に数多の仏像を生み出し、仏師としても各地にその作品を残す活躍をした円空は元禄2年(1689)、この地に弥勒寺を再興しています。

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円空が再興した現在の弥勒寺。
数多くの円空仏を有していましたが、残念ながら大正期の火災でその殆どを焼失しました。

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本堂では現代(平成)に、「円空彫り」と呼ばれる技法・様式で彫られた仏像が数多く展示されていました。

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円空入定塚
弥勒寺を再興した円空は元禄8年(1695)、自らの死期を悟ると「この藤の花が咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」と言い残して入定したと伝えられています。
藤の季節にはさぞ、綺麗な花を咲かせるのでしょうね。

この後は美濃市へ移動して・・・

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小倉山城跡へ。

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関ヶ原合戦(慶長5年/1600)の後、上有知(こうずち/美濃市)を加増された金森長近は、本拠の飛騨高山を養子の可重に譲り、上有知にそれまで存在した鉈尾山城を廃して尾崎丸山に自らの隠居城として新たな城を築き、城山の名も「小倉山」に改めました。
これは風流を愛でた長近が、京嵯峨野の名勝・小倉山にちなんだものとも云われています。

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山頂の展望台

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眼下に長良川を収める、展望台からの眺め。

小倉山城はその後、可重から長近の実子・長光に上有知2万石が分知されて上有知藩が立藩されますが、長光が実子ないままに亡くなったために改易され、廃城の運命を辿りました。

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鐘櫓跡
小倉山城には城下へ刻を知らせる梵鐘が置かれていましたが、後に上有知藩改易の処理にあたった美濃郡代・岡田将監善政が、揖斐郡(揖斐川町)の松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄


鐘には長近の名も刻まれていました。
この翌日には揖斐にも足を運び、松林寺を訪れてみました。

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続いて城下の、うだつの上がる町並みを散策します。

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とても風情があっていいのですが、とにかく暑かった・・・。

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お昼を食べられる店を探して歩き回りましたが、どこも満席で諦めました。

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同じく城山の麓に位置する清泰寺
上有知に入って小倉山城を築いた金森長近は、鉈尾山城主・佐藤氏の菩提寺であった以安寺を改め、清泰寺を創建しました。

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長近を祀る寺内社、金森大権現。

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清泰寺本堂

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向かって右から左へ鉈尾山城主・佐藤清信、同秀方、小倉山城主・金森長光の墓所。

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長光の死後、上有知は天領となり、西尾氏が代官として入ります。
その西尾氏4代(正房・正重・正永・正利)の墓所。

この後は道の駅で昼食休憩を挟み、郡上八幡へ向かいました。

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2018年8月18日 (土)

篠島の歴史探訪

ほぼ毎年の恒例となりつつある夏の岐阜旅。今回のメインは、2日目に訪れる郡上八幡の徹夜おどり。
2泊3日の日程で岐阜駅前に宿を押さえ、初日は名古屋駅前で旅の仲間と合流しましたが、この日の行程は同行者に完全お任せなミステリーツアーとなりました。

行先を全く告げられることなく、車のシートに身を委ねること2時間弱。
辿り着いた先は知多半島の最南端、師崎港。そこから高速船に乗って10分ほどで・・・

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とある離島に上陸!

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初日のミステリーツアー、その目的地は知多・渥美両半島先端部の中間に浮かぶ篠島でした。
上陸した港の前に建つ島の駅でレンタサイクルを利用し、自転車で篠島の歴史を観てまわります。

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・・・が、上陸した時刻がちょうどお昼時でしたので、まずは腹ごしらえ(笑)
しらす丼に豪華なお刺身の盛り合わせ♪マゴチの尾頭付きなんて、初めて食べたな。

さて、海の幸を堪能したところで、いよいよ歴史探検をスタートします。

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まずは島のほぼ中央に位置する帝井
延元3年(1338)、後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の後村上天皇)は奥州東征に向かう途中、暴風雨に遭って篠島に漂着し、しばらく島に滞在されました。
帝井の名は親王の滞在中、その飲料水として供されたことに由来しているそうです(一説には、親王自らの指示で掘ったとも)。
井戸の岩畳は、かつての遺構をそのままに留めているのだとか。今も満々と水を湛え、金魚が気持ち良さそうに泳いでいました。

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猛暑に加えて篠島は坂が多く、細い路地が複雑に入り組んだ場所も多かったので、自転車での移動には結構難儀しました。

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旅情をそそられる風情ある路地も、自転車での通行には注意を要します。

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滝のような大汗を流しながら登った高台からの眺め・・・。
この頃、名古屋などではスコールのような大雨になっていたそうですが、然程離れてもいない篠島はご覧のような快晴。青空に映えて海も綺麗でした。

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島の南方、篠島小中学校の敷地裏へまわり、樹木が生い茂る山道を5分ほども進むと・・・

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美しい海岸に抜けました。

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篠島や周辺の島々には、名古屋城の石垣に用いられた石材の石切り場があったようで、篠島でも至る箇所でその痕跡が確認されているそうです。
この海岸もその一つ。写真奥に、石を切り出すためにつけられた矢穴がびっしりと残る岩場も見えています。

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清正の枕石
名古屋城築城はいわゆる「天下普請」。全国の大名が駆り出されましたが、加藤清正も石の切り出しのために来島していたようです。
こちらはその折、彼が運び残したものと伝わる巨石。

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枕石の上でポーズをとってみた(・ω・)
え?・・・名古屋城にある清正の銅像の、あのポーズ(※後方から)ですよ。

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この岩も運び残しでしょうね。
大人の拳がスッポリと入るくらい、大きな矢穴でした。

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石垣とは関係ありませんが、面白いものを見つけました。
長い年月を経て硬い岩を砂の堆積による砂岩が覆い、それが風化や波によって柔らかい部分だけが削られた痕でしょうね。

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篠島の石切り場。
こんな離島の片隅で名古屋城築城という、400年以上も前の著名な歴史の“裏側”を直に感じることができ、感動的ですらありました。

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再び島の中央部に戻って、八王子社(男宮)に、、、

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神明神社(女宮)

八王子社は700年以上、神明神社に至っては1200年以上もの長い歴史を誇ります。
毎年正月三日に、八王子社の神が神明神社の元へお渡りになるそうで、島民はそのお渡りを待って三日になってから、神明神社へ初詣に出かけるのが古来からの島の習わしなのだとか。
お渡りになった神は、翌四日には再び八王子社へお帰りになるのだそうです。

篠島は元々は伊勢国に属し(現在は愛知県)、伊勢神宮との結びつきも強かったようです。
神明神社は20年に一度、伊勢神宮の遷宮の折に下賜される内宮の東宝殿、或いは西宝殿の古材を用いて遷宮が行われてきました。
東宝殿や西宝殿は内宮の御垣内に囲まれ、御正宮の後方に位置しているので、伊勢神宮にある間は直接拝観することは叶いませんので、20年を経て篠島で初めて一般の人々にもお披露目される、ということにもなります。
そして、神明神社の古材は八王子社の社として移され、八王子社の古材は更に島内に点在する小さな社に用いられていきます。
こうして、20年毎という伊勢神宮の遷宮に合わせたサイクルで循環し、伊勢神宮から下賜された古材はその後、島内で更に60年も用いられていくことになるのです。

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島の東端部、松寿寺。
寺の裏山が、義良親王も滞在した篠島城跡になります。

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寺から頂上までは、ほんの5分ほどで到達します。

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先ほどの「城山」の碑の背後には切岸と、腰曲輪のような小さな平坦地もありました。

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篠島城主郭部
親王がここに滞在されたのは、どれほどの期間だったのでしょうか。

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下山後、港へ向かうために城山を迂回していると、その麓に何やら説明書きが設置されていたので立ち止まってみました。

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皇子が膝
義良親王の滞在中、島の漁師たちは入出船の度にこの場所で跪き、頭上の篠島城を行在所としていた親王を拝していたのだと云います。

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島の駅SHINOJIMA前にも、名古屋城の石垣用に切り出された岩が展示されていました。

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さて、暑さですっかりバテバテとなりましたが、なんとか乗り切って篠島探訪は無事に終了~師崎へ戻ります。

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師崎に戻って羽豆神社へ。

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羽豆神社の建つ知多半島最南端に位置する羽豆岬一帯の森林は、ウバメガシなどを主とした暖地性常緑樹林で、「羽豆の社叢」として国の天然記念物にも指定されています。

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羽豆神社の高台にはかつて、羽豆崎城が築かれていました。

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羽豆神社
やはり1200年以上もの歴史があり、西暦1300年代に羽豆崎城を築いた熱田大宮司摂津守親昌(千秋氏)の猶子・昌能によって再興されています。
江戸期には、尾張徳川家歴代の参詣も受けているようです。

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神社境内に安置されていた矢穴石。
加藤清正が航海の安全を祈り、篠島で切り出した石を奉納したものと伝わります。

羽豆神社の祭神である建稲種命は、妻の玉姫と師崎に住んでいました。
やがて夫が日本武尊に従って水軍を率いて出征すると、玉姫はこの浦で夫の帰りをずっと待っていたと伝えられています。
その玉姫を祀る祠が、羽豆神社の麓にあるというので行ってみると・・・

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台風の影響でしょうか、見るも無残な姿に変わり果てていました・・・。

旅の初日のミステリーツアー。
自分ではなかなか思いつかない行程で、こういう機会でもなければ訪れることもなかったのかなぁ~と思うと、やはり仲間に感謝ですね。

この後は岐阜まで移動し、恒例のギフナイト☆でおいしいお酒(とニンニク!?)を堪能しながら、翌日に備えました。

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2018年8月 6日 (月)

苦林野合戦と鎌倉街道

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今回は埼玉県毛呂山町へドライブ。
まずは、毛呂山町歴史民俗資料館で下調べ&資料調達から。

毛呂山町に残る鎌倉街道の旧道を歩いてみたくて訪れたのですが、資料館で苦林野合戦のことを知って興味を惹かれたので、まずはそちらの関連地をめぐってみることにします。

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資料館を出てすぐ、県道39号沿いで見かけた稲荷台の馬頭観音。

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苦林古墳(大類一号古墳)
苦林野一帯には古墳が数多く点在し、中でもこちらの苦林古墳と呼ばれる前方後円墳は高さ2.4m×最長部は23mあり、苦林野合戦の折には芳賀高貞が物見に使ったとの伝承も残っているそうです。
(太平記「小塚の上に打ち上りて・・・」)

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前方部には昭和8年に建立された苦林野合戦の記念碑が建ち、

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後円部には文化10年(1813)に、苦林野合戦戦死者への供養塔として建立された千手観音菩薩像が建ちます。

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裏には苦林野合戦を記録した記述も見られました。

相刕鎌倉将軍左馬頭基
氏下毛宇都宮芳賀伊賀
守高貞貞治四年六月十
七日兩将戰斯地矣


ちなみにこの供養塔、「新編武蔵国風土記稿」の挿絵にも描かれています。

苦林野合戦
観応の擾乱で直義方だったために失脚し、信濃に逃れていた上杉憲顕を密かに越後守護職に再任し、更には関東管領に据えようとする鎌倉公方・足利基氏と、その阻止を目論む宇都宮氏綱(上野・越後守護職)の重臣で越後守護代の芳賀氏との間で、貞治2年(1363 ※供養塔では貞治4年)6月に勃発した戦い。
宇都宮氏や芳賀氏は観応の擾乱に於いて尊氏方について功があったため、前者は上野・越後守護職、後者は越後守護代に任じられて、関東で大きな勢力を誇っていました。

鎌倉の基氏の元へ上る憲顕を上野で迎え討とうと、800騎ほどの軍勢で出陣した芳賀高貞・髙家に対し、基氏は3000余騎の軍勢を率いて芳賀氏討伐に向かい、両軍は苦林野で激突しました。
戦いは基氏の勝利に終わり、これによって芳賀氏の主家・宇都宮氏は上野と越後の守護職を解かれ、その勢力を大きく削がれました。
以後、関東管領職も上杉氏が世襲していくことになります。

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苦林古墳から古戦場方向を眺める・・・古戦場は雑木林の更に向こう側になりますが。
視線の先にもう一基、前方後円墳が見えます。

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その古墳(大類二号古墳)
規模はさほどでもありませんが、形状はかなり明瞭でした。

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十社神社
苦林古墳から見えていた雑木林の中に静かに佇みます。
苦林野合戦で、基氏を守って戦死した金井新左衛門の外9名を祀ったのが始まりとされています。
当初は祀られた10人にちなんで「十首明神」と呼ばれていましたが、のちに現在の社号に改められました。

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ちなみに、付近には大薬寺という寺があります。
鎌倉幕府の五代執権・北条時頼が旅の僧に扮して廻国していた際、当地で腹痛を起こし、当時まだ小さな草庵だった大薬寺で休んで薬師如来に祈ったところ、たちまち腹の痛みが治まった。喜んだ時頼は大薬寺に多くの寄進をし、これが元で大薬寺には多くの参拝者が訪れるようになって栄えた、との伝承があるそうです。
しかしその後、苦林野合戦の戦火によって伽藍を焼失し、一旦は再興されたものの、明治になって再び火災に遭い、今では本尊の薬師如来像を祀るお堂が残るのみとなっています。

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追分のような分岐点に出ました。
右手に庚申塔や馬頭観音が見えています。

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その神明台の庚申塔、馬頭観音。
この背後の一帯が、苦林野合戦の古戦場になるようです。

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大類グラウンド脇から南へ伸びる鎌倉街道
ようやく今回の本来の目的、鎌倉街道歩きがスタートです。

この日は気温38~39℃の酷暑。
強い日差しも照り付け、既に私の体力はレッドゾーンに突入していました。。。

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鎌倉街道とは幕府が置かれた鎌倉と、関東諸国や信濃・越後・陸奥方面などを結ぶために設置された幹線道路で、毛呂山町を南北に貫くこちらの古道は、鎌倉から武蔵・上野を抜けて信濃へと至る鎌倉街道上道(かみつみち)の一部と考えられています。

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県道39号線に分断される鎌倉街道。

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県道を超えた先も、更に南へと続きます。
苦林野合戦の折には3000余騎を率いた基氏も、鎌倉からこの道を伝って進軍(北上)してきたものと思います。

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こういう雑木林に入ると多少は涼しくなっていいのだけれども、ちょっとでも立ち止まると蚊の襲来を受けて、おちおち休むこともままなりません・・・。

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鎌倉街道の掘割遺構
舗装路は右へ逸れていますが、本来の鎌倉街道は写真正面方向へ真っ直ぐ伸びていました。

発掘調査では側溝も出土しているそうですが・・・時期が時期だけに、案の定のド藪でした(;^_^A
地元からもそう遠くはないですし、藪も枯れる時期に改めて来てみたいと思います。

※雑木林の中でも一部、道の両サイドが盛り上がって掘割になっていた痕跡は認められました。

■2020年12月20日追記
20201220a
2020年12月20日、毛呂へ再訪しました。
藪も刈られ、しっかりと掘割遺構を確認することができて満足です。

※付近の鎌倉街道沿いの雑木林がかなり伐採され、太陽光発電のパネルが設置されていたのが気にかかりました。
今後も更に、伐採が進められてしまうのでしょうか・・・?

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