市村鉄之助の墓参
旅のラストは大垣へ移動し、全昌寺へ。
市村辰之助・鉄之助兄弟の眠るお墓にお参りさせていただきました。
市村鉄之助
慶応3年(1867)に兄・辰之助と共に14歳で新選組に入隊し、土方歳三付の小姓となります。
翌年の鳥羽伏見や甲州勝沼での敗走後、辰之助は新選組を脱走しますが鉄之助は残り、土方に従って箱館まで旧幕府軍の戦いの中に身を置きました。
土方をして「頗る勝気、性亦怜悧」と評されています。
明治2年(1869)5月、土方の命を受けた鉄之助は箱館を脱し、決死の思いで日野宿の佐藤彦五郎宅へ土方の肖像写真をはじめとする遺品を届けました。
2年ほど佐藤家の世話になった後に大垣へ帰郷、明治6年(1873)に病死したとも、同10年の西南戦争に参戦して戦死したとも伝えられています。
(参考)日野宿本陣(旧佐藤邸)、鉄之助が2年間住んでいた一間。
一般に鉄之助の戒名は、養浩院廓然良機居士と伝えられていますが、墓石に該当するものが見当たりませんでした。
・・・隣光院寂然良久居士が近いかな?
なお、有隣院一官宗徳居士が兄・辰之助のものです。
全昌寺には大垣藩の重臣、小原鉄心のお墓もあります。
鉄心は慶応4年1月、新政府で参与に任じられています。
しかし大垣藩は、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍に属しており、鉄心の養子・兵部も出陣していました。これを受けて鉄心は大垣へ急行し、藩主戸田氏共を説得して藩論を新政府恭順にまとめ上げることに成功しました。
これ以降大垣藩は、新政府軍の一翼を担って戊辰戦争を戦っていきます。
全昌寺のすぐ裏手、奥の細道むすびの地記念館に移築されている小原鉄心の別荘、無可有荘 大醒榭(※「木」へんに「射」)
ついでにもう少し散策を続けます。
天保11年(1840)に建てられた住吉燈台と船町港跡。
そして大垣城・・・実に14年ぶりの再訪です。
しかも前回は豪雨の中で、結局天守まで近づけなかったのでした。
関ヶ原合戦直前、石田三成ら西軍の本営が置かれた大垣城から、東軍の赤坂岡山(勝山/写真右方向)、そして南宮山越しに関ヶ原方面を見渡す。
今回の2泊3日、天候にも恵まれたお陰でとにかく暑かった・・・。
3日間で体内の水分が全て入れ替わったのではないかと思えるくらい、よく汗をかきました。
それでも多くの場所を訪れ、たくさんの学びを得られたのは偏に仲間のお陰。感謝に堪えません。
さて・・・次の遠征は果たしてどこになるやら。
その時期は・・・案外近いかも?
(参考)日野宿本陣(旧佐藤邸)、鉄之助が2年間住んでいた一間。
一般に鉄之助の戒名は、養浩院廓然良機居士と伝えられていますが、墓石に該当するものが見当たりませんでした。
・・・隣光院寂然良久居士が近いかな?
なお、有隣院一官宗徳居士が兄・辰之助のものです。
全昌寺には大垣藩の重臣、小原鉄心のお墓もあります。
鉄心は慶応4年1月、新政府で参与に任じられています。
しかし大垣藩は、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍に属しており、鉄心の養子・兵部も出陣していました。これを受けて鉄心は大垣へ急行し、藩主戸田氏共を説得して藩論を新政府恭順にまとめ上げることに成功しました。
これ以降大垣藩は、新政府軍の一翼を担って戊辰戦争を戦っていきます。
全昌寺のすぐ裏手、奥の細道むすびの地記念館に移築されている小原鉄心の別荘、無可有荘 大醒榭(※「木」へんに「射」)
ついでにもう少し散策を続けます。
天保11年(1840)に建てられた住吉燈台と船町港跡。
そして大垣城・・・実に14年ぶりの再訪です。
しかも前回は豪雨の中で、結局天守まで近づけなかったのでした。
関ヶ原合戦直前、石田三成ら西軍の本営が置かれた大垣城から、東軍の赤坂岡山(勝山/写真右方向)、そして南宮山越しに関ヶ原方面を見渡す。
今回の2泊3日、天候にも恵まれたお陰でとにかく暑かった・・・。
3日間で体内の水分が全て入れ替わったのではないかと思えるくらい、よく汗をかきました。
それでも多くの場所を訪れ、たくさんの学びを得られたのは偏に仲間のお陰。感謝に堪えません。
さて・・・次の遠征は果たしてどこになるやら。
その時期は・・・案外近いかも?
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