篠島の歴史探訪
ほぼ毎年の恒例となりつつある夏の岐阜旅。今回のメインは、2日目に訪れる郡上八幡の徹夜おどり。
2泊3日の日程で岐阜駅前に宿を押さえ、初日は名古屋駅前で旅の仲間と合流しましたが、この日の行程は同行者に完全お任せなミステリーツアーとなりました。
行先を全く告げられることなく、車のシートに身を委ねること2時間弱。
辿り着いた先は知多半島の最南端、師崎港。そこから高速船に乗って10分ほどで・・・
とある離島に上陸!
初日のミステリーツアー、その目的地は知多・渥美両半島先端部の中間に浮かぶ篠島でした。
上陸した港の前に建つ島の駅でレンタサイクルを利用し、自転車で篠島の歴史を観てまわります。
・・・が、上陸した時刻がちょうどお昼時でしたので、まずは腹ごしらえ(笑)
しらす丼に豪華なお刺身の盛り合わせ♪マゴチの尾頭付きなんて、初めて食べたな。
さて、海の幸を堪能したところで、いよいよ歴史探検をスタートします。
まずは島のほぼ中央に位置する帝井
延元3年(1338)、後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の後村上天皇)は奥州東征に向かう途中、暴風雨に遭って篠島に漂着し、しばらく島に滞在されました。
帝井の名は親王の滞在中、その飲料水として供されたことに由来しているそうです(一説には、親王自らの指示で掘ったとも)。
井戸の岩畳は、かつての遺構をそのままに留めているのだとか。今も満々と水を湛え、金魚が気持ち良さそうに泳いでいました。
猛暑に加えて篠島は坂が多く、細い路地が複雑に入り組んだ場所も多かったので、自転車での移動には結構難儀しました。
旅情をそそられる風情ある路地も、自転車での通行には注意を要します。
滝のような大汗を流しながら登った高台からの眺め・・・。
この頃、名古屋などではスコールのような大雨になっていたそうですが、然程離れてもいない篠島はご覧のような快晴。青空に映えて海も綺麗でした。
島の南方、篠島小中学校の敷地裏へまわり、樹木が生い茂る山道を5分ほども進むと・・・
美しい海岸に抜けました。
篠島や周辺の島々には、名古屋城の石垣に用いられた石材の石切り場があったようで、篠島でも至る箇所でその痕跡が確認されているそうです。
この海岸もその一つ。写真奥に、石を切り出すためにつけられた矢穴がびっしりと残る岩場も見えています。
清正の枕石
名古屋城築城はいわゆる「天下普請」。全国の大名が駆り出されましたが、加藤清正も石の切り出しのために来島していたようです。
こちらはその折、彼が運び残したものと伝わる巨石。
枕石の上でポーズをとってみた(・ω・)
え?・・・名古屋城にある清正の銅像の、あのポーズ(※後方から)ですよ。
この岩も運び残しでしょうね。
大人の拳がスッポリと入るくらい、大きな矢穴でした。
石垣とは関係ありませんが、面白いものを見つけました。
長い年月を経て硬い岩を砂の堆積による砂岩が覆い、それが風化や波によって柔らかい部分だけが削られた痕でしょうね。
篠島の石切り場。
こんな離島の片隅で名古屋城築城という、400年以上も前の著名な歴史の“裏側”を直に感じることができ、感動的ですらありました。
再び島の中央部に戻って、八王子社(男宮)に、、、
神明神社(女宮)
八王子社は700年以上、神明神社に至っては1200年以上もの長い歴史を誇ります。
毎年正月三日に、八王子社の神が神明神社の元へお渡りになるそうで、島民はそのお渡りを待って三日になってから、神明神社へ初詣に出かけるのが古来からの島の習わしなのだとか。
お渡りになった神は、翌四日には再び八王子社へお帰りになるのだそうです。
篠島は元々は伊勢国に属し(現在は愛知県)、伊勢神宮との結びつきも強かったようです。
神明神社は20年に一度、伊勢神宮の遷宮の折に下賜される内宮の東宝殿、或いは西宝殿の古材を用いて遷宮が行われてきました。
東宝殿や西宝殿は内宮の御垣内に囲まれ、御正宮の後方に位置しているので、伊勢神宮にある間は直接拝観することは叶いませんので、20年を経て篠島で初めて一般の人々にもお披露目される、ということにもなります。
そして、神明神社の古材は八王子社の社として移され、八王子社の古材は更に島内に点在する小さな社に用いられていきます。
こうして、20年毎という伊勢神宮の遷宮に合わせたサイクルで循環し、伊勢神宮から下賜された古材はその後、島内で更に60年も用いられていくことになるのです。
島の東端部、松寿寺。
寺の裏山が、義良親王も滞在した篠島城跡になります。
寺から頂上までは、ほんの5分ほどで到達します。
先ほどの「城山」の碑の背後には切岸と、腰曲輪のような小さな平坦地もありました。
篠島城主郭部
親王がここに滞在されたのは、どれほどの期間だったのでしょうか。
下山後、港へ向かうために城山を迂回していると、その麓に何やら説明書きが設置されていたので立ち止まってみました。
皇子が膝
義良親王の滞在中、島の漁師たちは入出船の度にこの場所で跪き、頭上の篠島城を行在所としていた親王を拝していたのだと云います。
島の駅SHINOJIMA前にも、名古屋城の石垣用に切り出された岩が展示されていました。
さて、暑さですっかりバテバテとなりましたが、なんとか乗り切って篠島探訪は無事に終了~師崎へ戻ります。
師崎に戻って羽豆神社へ。
羽豆神社の建つ知多半島最南端に位置する羽豆岬一帯の森林は、ウバメガシなどを主とした暖地性常緑樹林で、「羽豆の社叢」として国の天然記念物にも指定されています。
羽豆神社の高台にはかつて、羽豆崎城が築かれていました。
羽豆神社
やはり1200年以上もの歴史があり、西暦1300年代に羽豆崎城を築いた熱田大宮司摂津守親昌(千秋氏)の猶子・昌能によって再興されています。
江戸期には、尾張徳川家歴代の参詣も受けているようです。
神社境内に安置されていた矢穴石。
加藤清正が航海の安全を祈り、篠島で切り出した石を奉納したものと伝わります。
羽豆神社の祭神である建稲種命は、妻の玉姫と師崎に住んでいました。
やがて夫が日本武尊に従って水軍を率いて出征すると、玉姫はこの浦で夫の帰りをずっと待っていたと伝えられています。
その玉姫を祀る祠が、羽豆神社の麓にあるというので行ってみると・・・
台風の影響でしょうか、見るも無残な姿に変わり果てていました・・・。
旅の初日のミステリーツアー。
自分ではなかなか思いつかない行程で、こういう機会でもなければ訪れることもなかったのかなぁ~と思うと、やはり仲間に感謝ですね。
この後は岐阜まで移動し、恒例のギフナイト☆でおいしいお酒(とニンニク!?)を堪能しながら、翌日に備えました。
2泊3日の日程で岐阜駅前に宿を押さえ、初日は名古屋駅前で旅の仲間と合流しましたが、この日の行程は同行者に完全お任せなミステリーツアーとなりました。
行先を全く告げられることなく、車のシートに身を委ねること2時間弱。
辿り着いた先は知多半島の最南端、師崎港。そこから高速船に乗って10分ほどで・・・
とある離島に上陸!
初日のミステリーツアー、その目的地は知多・渥美両半島先端部の中間に浮かぶ篠島でした。
上陸した港の前に建つ島の駅でレンタサイクルを利用し、自転車で篠島の歴史を観てまわります。
・・・が、上陸した時刻がちょうどお昼時でしたので、まずは腹ごしらえ(笑)
しらす丼に豪華なお刺身の盛り合わせ♪マゴチの尾頭付きなんて、初めて食べたな。
さて、海の幸を堪能したところで、いよいよ歴史探検をスタートします。
まずは島のほぼ中央に位置する帝井
延元3年(1338)、後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の後村上天皇)は奥州東征に向かう途中、暴風雨に遭って篠島に漂着し、しばらく島に滞在されました。
帝井の名は親王の滞在中、その飲料水として供されたことに由来しているそうです(一説には、親王自らの指示で掘ったとも)。
井戸の岩畳は、かつての遺構をそのままに留めているのだとか。今も満々と水を湛え、金魚が気持ち良さそうに泳いでいました。
猛暑に加えて篠島は坂が多く、細い路地が複雑に入り組んだ場所も多かったので、自転車での移動には結構難儀しました。
旅情をそそられる風情ある路地も、自転車での通行には注意を要します。
滝のような大汗を流しながら登った高台からの眺め・・・。
この頃、名古屋などではスコールのような大雨になっていたそうですが、然程離れてもいない篠島はご覧のような快晴。青空に映えて海も綺麗でした。
島の南方、篠島小中学校の敷地裏へまわり、樹木が生い茂る山道を5分ほども進むと・・・
美しい海岸に抜けました。
篠島や周辺の島々には、名古屋城の石垣に用いられた石材の石切り場があったようで、篠島でも至る箇所でその痕跡が確認されているそうです。
この海岸もその一つ。写真奥に、石を切り出すためにつけられた矢穴がびっしりと残る岩場も見えています。
清正の枕石
名古屋城築城はいわゆる「天下普請」。全国の大名が駆り出されましたが、加藤清正も石の切り出しのために来島していたようです。
こちらはその折、彼が運び残したものと伝わる巨石。
枕石の上でポーズをとってみた(・ω・)
え?・・・名古屋城にある清正の銅像の、あのポーズ(※後方から)ですよ。
この岩も運び残しでしょうね。
大人の拳がスッポリと入るくらい、大きな矢穴でした。
石垣とは関係ありませんが、面白いものを見つけました。
長い年月を経て硬い岩を砂の堆積による砂岩が覆い、それが風化や波によって柔らかい部分だけが削られた痕でしょうね。
篠島の石切り場。
こんな離島の片隅で名古屋城築城という、400年以上も前の著名な歴史の“裏側”を直に感じることができ、感動的ですらありました。
再び島の中央部に戻って、八王子社(男宮)に、、、
神明神社(女宮)
八王子社は700年以上、神明神社に至っては1200年以上もの長い歴史を誇ります。
毎年正月三日に、八王子社の神が神明神社の元へお渡りになるそうで、島民はそのお渡りを待って三日になってから、神明神社へ初詣に出かけるのが古来からの島の習わしなのだとか。
お渡りになった神は、翌四日には再び八王子社へお帰りになるのだそうです。
篠島は元々は伊勢国に属し(現在は愛知県)、伊勢神宮との結びつきも強かったようです。
神明神社は20年に一度、伊勢神宮の遷宮の折に下賜される内宮の東宝殿、或いは西宝殿の古材を用いて遷宮が行われてきました。
東宝殿や西宝殿は内宮の御垣内に囲まれ、御正宮の後方に位置しているので、伊勢神宮にある間は直接拝観することは叶いませんので、20年を経て篠島で初めて一般の人々にもお披露目される、ということにもなります。
そして、神明神社の古材は八王子社の社として移され、八王子社の古材は更に島内に点在する小さな社に用いられていきます。
こうして、20年毎という伊勢神宮の遷宮に合わせたサイクルで循環し、伊勢神宮から下賜された古材はその後、島内で更に60年も用いられていくことになるのです。
島の東端部、松寿寺。
寺の裏山が、義良親王も滞在した篠島城跡になります。
寺から頂上までは、ほんの5分ほどで到達します。
先ほどの「城山」の碑の背後には切岸と、腰曲輪のような小さな平坦地もありました。
篠島城主郭部
親王がここに滞在されたのは、どれほどの期間だったのでしょうか。
下山後、港へ向かうために城山を迂回していると、その麓に何やら説明書きが設置されていたので立ち止まってみました。
皇子が膝
義良親王の滞在中、島の漁師たちは入出船の度にこの場所で跪き、頭上の篠島城を行在所としていた親王を拝していたのだと云います。
島の駅SHINOJIMA前にも、名古屋城の石垣用に切り出された岩が展示されていました。
さて、暑さですっかりバテバテとなりましたが、なんとか乗り切って篠島探訪は無事に終了~師崎へ戻ります。
師崎に戻って羽豆神社へ。
羽豆神社の建つ知多半島最南端に位置する羽豆岬一帯の森林は、ウバメガシなどを主とした暖地性常緑樹林で、「羽豆の社叢」として国の天然記念物にも指定されています。
羽豆神社の高台にはかつて、羽豆崎城が築かれていました。
羽豆神社
やはり1200年以上もの歴史があり、西暦1300年代に羽豆崎城を築いた熱田大宮司摂津守親昌(千秋氏)の猶子・昌能によって再興されています。
江戸期には、尾張徳川家歴代の参詣も受けているようです。
神社境内に安置されていた矢穴石。
加藤清正が航海の安全を祈り、篠島で切り出した石を奉納したものと伝わります。
羽豆神社の祭神である建稲種命は、妻の玉姫と師崎に住んでいました。
やがて夫が日本武尊に従って水軍を率いて出征すると、玉姫はこの浦で夫の帰りをずっと待っていたと伝えられています。
その玉姫を祀る祠が、羽豆神社の麓にあるというので行ってみると・・・
台風の影響でしょうか、見るも無残な姿に変わり果てていました・・・。
旅の初日のミステリーツアー。
自分ではなかなか思いつかない行程で、こういう機会でもなければ訪れることもなかったのかなぁ~と思うと、やはり仲間に感謝ですね。
この後は岐阜まで移動し、恒例のギフナイト☆でおいしいお酒(とニンニク!?)を堪能しながら、翌日に備えました。
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