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2018年8月22日 (水)

揖斐 旗本岡田家、横倉喜三次ゆかりの地

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揖斐陣屋跡の碑
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の後、揖斐は西尾光教の領地となります。
光教は山上の旧揖斐城の麓に新たな城を築き、揖斐藩3万石の拠点としますが、1623年に2代嘉教が亡くなると揖斐藩は無嗣断絶となり、揖斐は天領となりました。
寛永8年(1631)、美濃郡代を務める旗本岡田氏が代官として着任し、揖斐城を改修して陣屋としました。

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三輪神社
中嶋流砲術の額が奉納されているのですが、そこには岡田家の武術指南役を務めた横倉喜三次も一番に名を連ねています。
岡田家は慶応4年(1868)、戊辰戦争に於いて新政府に恭順して東山道軍に兵を派遣しますが、喜三次はその岡田隊の副隊長として従軍しています。その過程で下諏訪では、太刀取りの手元が狂って苦しむ赤報隊の相楽総三を介錯し、板橋では新選組近藤勇の太刀取りをも務めました。

ダメ元で拝観をお願いしてみようと思っていましたが、この日は何故か社務所も不在で叶いませんでした。

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三輪神社横に建つ三霊神社
岡田家の初代善同、2代善政、8代善明の3人を祀ります。

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三輪神社拝殿

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三輪神社の向かい、横倉喜三次が開いた道場忠信館跡。

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三輪神社の隣り、松林寺
長禄2年(1458)の創建と伝わります。
慶長年間には揖斐藩主西尾家の菩提寺として再興され、岡田家2代善政も自らの菩提寺としています。
横倉喜三次もこの寺で、近藤勇らの供養をしていたとか。

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先の小倉山城の記事でも書きましたが、善政は無嗣断絶となった上有知藩の後処理にあたった際、小倉山城にあった金森長近の名が入った梵鐘を松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄

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松林寺には岡田家歴代の供養塔(写真)や、その横には9代善功(雪台/松林寺住職も務める)の墓碑もあり、

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更には、初代揖斐藩主・西尾光教夫妻らの墓所もありました。
西尾光教は本能寺の変の当日、天正10年6月2日付で明智光秀から、
「父子悪逆天下の妨げ討ち果たし候」
という書状を送られています。

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松林寺の近くには「弁慶の腕だめし石」なるものがあり、大きな手形もついていましたが、これは9代善功が松江藩主・松平不昧の養子を経て岡田家に養子入りしていることから、松江藩のお抱え力士であった雷電為右衛門の手形ではないか、とも云われているそうです。

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ひょんなことから立ち寄った長源寺。

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長源寺の本堂には、古く朽ち果てた駕籠が吊るされていました。

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大興寺

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大興寺境内

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大興寺にて、横倉喜三次の墓所にもお参りさせていただきました。

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大興寺には本郷城の項でご紹介した土岐頼忠の兄で、同じく美濃守護頼康の弟、土岐頼雄のお墓もありました。
頼雄は揖斐頼雄とも称しています。

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コメント

はじめまして、三輪神社の神職の宗宮と申します。
ご来社いただいた時に不在で申し分けありませんでした。次回ご来社いただく事があれば、是非横蔵氏の絵馬をご覧下さい。
また何かありましたら、ご連絡下さい。

投稿: 宗宮和史 | 2020年7月10日 (金) 17時47分

はじめまして、三輪神社の神職の宗宮と申します。
ご来社いただいた時に不在で申し分けありませんでした。次回ご来社いただく事があれば、是非横蔵氏の絵馬をご覧下さい。
また何かありましたら、ご連絡下さい。

投稿: 宗宮和史 | 2020年7月10日 (金) 17時47分

宗宮様
コメントをお寄せいただき、誠にありがとうございます。
そうおっしゃっていただけると、大変嬉しく思います。コロナが収束して、また自由に旅をできるようになりましたら、是非またお邪魔して絵馬を拝観させていただきたく存じます。

投稿: しみず@管理人 | 2020年7月11日 (土) 08時06分

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