道三塚や稲葉一鉄ゆかりの地など
旅の3日目、最終日は道三塚からスタートです。
弘治2年(1556)の長良川の戦いで息子の義龍に敗れ、あえなく戦死を遂げた斎藤道三。
彼の遺骸は崇福寺の南西、長良川の河畔に埋葬されましたが、度重なる洪水で塚は幾度となく流されてしまいました。
現在のもの(崇福寺の北西)は天保8年(1837)、斎藤家の菩提寺・常在寺住職の手によって建碑され、供養されてきたものです。
続いて本巣郡北方町の北方城跡へ。
西美濃三人衆の一人、安藤(安東/伊賀氏)守就の居城として知られます。
守就は土岐・斎藤・織田と仕えますが、天正8年(1580)、織田信長から追放処分を受けて北方城も召し上げられました。
しかし、その信長が本能寺の変(天正10年)で斃れると旧領奪還を目論んで挙兵し北方城に拠りますが、最後は斉藤氏に攻められて討死しました。
北方城跡の近くには、守就戦死の地もあります。
碑の建つ一角は、本丸のごく一部と考えられています。
周囲には堀の痕跡と思われる用水路なども残っているようですが、今回は先を急ぐのでこの辺で。
揖斐郡池田町本郷の本郷城跡。
築城時期や築城者はハッキリしていませんが、後に美濃国守護となる土岐頼忠や、その子の頼益が在城していた時期もあるようです。
それ以降は国枝氏の居城となりますが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで岐阜城主・織田秀信に従って西軍に属したため、城は東軍によって焼き払われて廃城となりました。
今でも主郭北西隅の土塁と櫓台が僅かに残ります。
櫓台に残る石垣の隅石。
なお、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄(良通)もこの本郷城で生を受けています。
本当はこの後、揖斐川町の旗本岡田氏や横倉喜三次関連の史跡をめぐったのですが、記事の構成上、そのレポは次に回して先へ進めます。
揖斐郡揖斐川町清水の清水城跡。
稲葉一鉄が天正年間に築城したと伝わります。
一鉄の菩提寺、月桂院。
月桂院本堂では、稲葉一鉄の御位牌や肖像画、書状類などを拝観させていただきました。
※その中に、飯沼勘平に宛てた織田信長のものらしき感状や書状もありました。
感状は元亀二年付。飯沼勘平は「信長公記」にも度々その名が登場します(1600年の米野・岐阜城外での戦いで討死した飯沼父子は、その子と孫)が、信長の花押や署名の筆跡など、少々腑に落ちない点もあるので詳細は省きます。
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