苦林野合戦と鎌倉街道
今回は埼玉県毛呂山町へドライブ。
まずは、毛呂山町歴史民俗資料館で下調べ&資料調達から。
毛呂山町に残る鎌倉街道の旧道を歩いてみたくて訪れたのですが、資料館で苦林野合戦のことを知って興味を惹かれたので、まずはそちらの関連地をめぐってみることにします。
資料館を出てすぐ、県道39号沿いで見かけた稲荷台の馬頭観音。
苦林古墳(大類一号古墳)
苦林野一帯には古墳が数多く点在し、中でもこちらの苦林古墳と呼ばれる前方後円墳は高さ2.4m×最長部は23mあり、苦林野合戦の折には芳賀高貞が物見に使ったとの伝承も残っているそうです。
(太平記「小塚の上に打ち上りて・・・」)
前方部には昭和8年に建立された苦林野合戦の記念碑が建ち、
後円部には文化10年(1813)に、苦林野合戦戦死者への供養塔として建立された千手観音菩薩像が建ちます。
裏には苦林野合戦を記録した記述も見られました。
相刕鎌倉将軍左馬頭基
氏下毛宇都宮芳賀伊賀
守高貞貞治四年六月十
七日兩将戰斯地矣
ちなみにこの供養塔、「新編武蔵国風土記稿」の挿絵にも描かれています。
苦林野合戦
観応の擾乱で直義方だったために失脚し、信濃に逃れていた上杉憲顕を密かに越後守護職に再任し、更には関東管領に据えようとする鎌倉公方・足利基氏と、その阻止を目論む宇都宮氏綱(上野・越後守護職)の重臣で越後守護代の芳賀氏との間で、貞治2年(1363 ※供養塔では貞治4年)6月に勃発した戦い。
宇都宮氏や芳賀氏は観応の擾乱に於いて尊氏方について功があったため、前者は上野・越後守護職、後者は越後守護代に任じられて、関東で大きな勢力を誇っていました。
鎌倉の基氏の元へ上る憲顕を上野で迎え討とうと、800騎ほどの軍勢で出陣した芳賀高貞・髙家に対し、基氏は3000余騎の軍勢を率いて芳賀氏討伐に向かい、両軍は苦林野で激突しました。
戦いは基氏の勝利に終わり、これによって芳賀氏の主家・宇都宮氏は上野と越後の守護職を解かれ、その勢力を大きく削がれました。
以後、関東管領職も上杉氏が世襲していくことになります。
苦林古墳から古戦場方向を眺める・・・古戦場は雑木林の更に向こう側になりますが。
視線の先にもう一基、前方後円墳が見えます。
その古墳(大類二号古墳)
規模はさほどでもありませんが、形状はかなり明瞭でした。
十社神社
苦林古墳から見えていた雑木林の中に静かに佇みます。
苦林野合戦で、基氏を守って戦死した金井新左衛門の外9名を祀ったのが始まりとされています。
当初は祀られた10人にちなんで「十首明神」と呼ばれていましたが、のちに現在の社号に改められました。
ちなみに、付近には大薬寺という寺があります。
鎌倉幕府の五代執権・北条時頼が旅の僧に扮して廻国していた際、当地で腹痛を起こし、当時まだ小さな草庵だった大薬寺で休んで薬師如来に祈ったところ、たちまち腹の痛みが治まった。喜んだ時頼は大薬寺に多くの寄進をし、これが元で大薬寺には多くの参拝者が訪れるようになって栄えた、との伝承があるそうです。
しかしその後、苦林野合戦の戦火によって伽藍を焼失し、一旦は再興されたものの、明治になって再び火災に遭い、今では本尊の薬師如来像を祀るお堂が残るのみとなっています。
追分のような分岐点に出ました。
右手に庚申塔や馬頭観音が見えています。
その神明台の庚申塔、馬頭観音。
この背後の一帯が、苦林野合戦の古戦場になるようです。
大類グラウンド脇から南へ伸びる鎌倉街道。
ようやく今回の本来の目的、鎌倉街道歩きがスタートです。
この日は気温38~39℃の酷暑。
強い日差しも照り付け、既に私の体力はレッドゾーンに突入していました。。。
鎌倉街道とは幕府が置かれた鎌倉と、関東諸国や信濃・越後・陸奥方面などを結ぶために設置された幹線道路で、毛呂山町を南北に貫くこちらの古道は、鎌倉から武蔵・上野を抜けて信濃へと至る鎌倉街道上道(かみつみち)の一部と考えられています。
県道39号線に分断される鎌倉街道。
県道を超えた先も、更に南へと続きます。
苦林野合戦の折には3000余騎を率いた基氏も、鎌倉からこの道を伝って進軍(北上)してきたものと思います。
こういう雑木林に入ると多少は涼しくなっていいのだけれども、ちょっとでも立ち止まると蚊の襲来を受けて、おちおち休むこともままなりません・・・。
鎌倉街道の掘割遺構。
舗装路は右へ逸れていますが、本来の鎌倉街道は写真正面方向へ真っ直ぐ伸びていました。
発掘調査では側溝も出土しているそうですが・・・時期が時期だけに、案の定のド藪でした(;^_^A
地元からもそう遠くはないですし、藪も枯れる時期に改めて来てみたいと思います。
※雑木林の中でも一部、道の両サイドが盛り上がって掘割になっていた痕跡は認められました。
■2020年12月20日追記
2020年12月20日、毛呂へ再訪しました。
藪も刈られ、しっかりと掘割遺構を確認することができて満足です。
※付近の鎌倉街道沿いの雑木林がかなり伐採され、太陽光発電のパネルが設置されていたのが気にかかりました。
今後も更に、伐採が進められてしまうのでしょうか・・・?
※付近の鎌倉街道沿いの雑木林がかなり伐採され、太陽光発電のパネルが設置されていたのが気にかかりました。
今後も更に、伐採が進められてしまうのでしょうか・・・?
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