東山温泉 (天寧寺の湯)
8月26~27日は会津、東山温泉へのドライブ旅。
8世紀頃、行基によって開湯されたとも伝えられる東山温泉。周辺一帯が天寧寺の寺領だったことから、江戸時代の頃までは「天寧寺の湯」と呼ばれていました。
慶応4年(1868)4月の宇都宮での戦闘で足を負傷し、会津城下七日町の清水屋に滞在していた土方歳三も、東山温泉に通って怪我の療養に努めていたと云われています。
そんな東山温泉に一度は泊ってみたいとの思いを此度、ようやく実現させてきました。
道中、白河小峯城にも立ち寄って・・・
集古苑で開催されている特別企画展「戊辰戦争と白河」を見学したりしつつ・・・
※白河口の戦いについては、コチラの記事を参照ください。
午後3時過ぎには早々に東山温泉の宿、庄助の宿 瀧の湯に到着。
チェックイン前にロビーで、抹茶と水羊羹のおもてなし。
右端の杯は何に使うのかと言うと・・・
お酒が大好きだったと云う庄助さんにちなみ、なんとウェルカム利き酒のサービスまでありました。
会津の民謡「会津磐梯山」にも登場し;
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした
と謡われる小原庄助。
その出自や人となりには諸説あり、謎の多い人物とされています。
宿名に冠した「庄助の宿」は、そんな小原庄助が瀧の湯を訪れていたとの言い伝えに由来しているそうです。
館内の売店で「庄助の酒」も販売されていますが、朝酒が好きだったという庄助にちなみ、朝だけ格安なお値段で購入できるサービスまでやっていました。
無論、私もお酒だけは翌朝になってから購入しました(笑)
リーズナブルな宿泊プランの割には、お部屋も案外いい感じ。
宿のすぐ脇に伏見ヶ滝。
瀧の湯の大浴場や露天風呂は、この伏見ヶ滝のロケーションを売りの一つにしています。
心配していた雨もなんとか持ち堪えてくれたので、少し温泉街の散策に出かけました。
「きつね湯」と称し、元は会津藩の保養所だった向瀧。
土方が実際に利用していた湯が東山温泉のいずれだったのかは判っておらず、主な候補として三湯挙げられています。この向瀧がその一つ。
歴史を感じさせる建物に趣もあり、なんとも素敵な佇まいでした。
こちらも候補の一つ、東山温泉最古の源泉とも云われる「猿の湯」を有する不動滝(新滝別館)の岩風呂(跡)。
「土方歳三 戦傷湯治の岩風呂」との案内板も掲げられていました。
※ちなみに本館の新滝は、元は会津藩主の別荘があった場所とされています。
「猿の湯」の岩風呂は、あの土方歳三の絵の足元付近にあります。
明治19年まで、東山温泉に至る本道(つまりは温泉街の入口)だった残念坂。
湯浴みを楽しんで家路につく客が、後ろ髪を引かれる思いで「もう帰らないといけないのか、残念・・・」と呟いたとか呟かないとか。。。
残念坂から続くみかえり坂
この先は会津の城下町へと続いていました。
みかえり坂の沿道に建つ、羽黒山湯上神社の大きな鳥居。
もしかすると土方も、天寧寺で近藤勇のお墓に参った後、この鳥居の前を通ってみかえり坂をゆるゆると下り・・・
あの角で右へ折れて・・・
残念坂を下って東山温泉に通っていたのかもしれませんね。
たまたま見かけた射的屋。
とってもノスタルジックな昭和の香りが漂っていました。
もし幕末の頃にも営業していたら、土方も「おのれ、薩長の奴らめ!」なんて言いながら、ムキになって遊んでいたのかも・・・なんて考えてみたり(笑)
東山温泉には多くの文人墨客も訪れています。
竹久夢二もその一人。彼がよく逗留していた新滝の前には歌碑も建てられていました。
さて、ここらで散策を終え、宿に戻って夕食前にひとっ風呂浴びることにします。
大浴場前に展示されていた小原庄助愛用の石風呂。
ところで先程、土方歳三療養の湯には候補が三つあるということを書きましたが、その最後の一つこそ、私が今回お世話になった瀧の湯です。
瀧の湯にはその昔、会津藩の共同湯がありました。
(向瀧の「保養所」に瀧の湯の「共同湯」・・・違いがイマイチよく分かりませんが、前者は上級藩士用、後者はそれ以外の一般藩士にも開放されていたもの、と解したらよろしいのでしょうかね)
そんな訳で大浴場には「瀧の湯こそ土方歳三療養の湯と考えられる」との見解が綴られた案内書きもありました…(^_^;)
※根拠の一つとして「土方が滞在していた清水屋や、お参りしていたであろう近藤勇のお墓がある天寧寺から一番近く、足を怪我していた土方が一番近い湯につかりに来ていたと考えるのは自然なこと」といった趣旨のことが書かれていましたが、確かに直線距離としては市中から一番近い場所に位置しているものの、先ほど見てきたみかえり坂~残念坂のルートが東山温泉への本道とすると、経路的には必ずしも一番近いとは言えないような気もします・・・他にもルートがあったのであれば別ですが。
(それ以前に、そもそもが小さな温泉街なので、遠い近いと言ったところでたいした差でもありません)
結局のところ、確かな史料で確認できない以上、確定することも難しいでしょう。
しかしそれでも、その可能性のある湯に150年の時を経て実際に浸かることができる喜びは、ファンにとってはやはり格別なものがあります。
実際に体感した瀧の湯は、透明でサラッとしたお湯。
水温は、ぬる湯にのんびりとつかりたい派には少々高めですが、とても気持ちのいい時間を過ごせました。
※温泉には全く見識がないので、この程度の感想でご容赦ください(笑)
夕食の献立
くどいようですが、料金の割にはしっかりと食べさせてくれました。
夜、ロビーではプロジェクションマッピングの上映も。
川を挟んだ対岸に設置された能舞台に投影されています。
こうして東山温泉の夜は、ゆったりした心地の中で更けてゆくのでした。。。
翌朝は4:30の利用開始時間と同時に大浴場へ。
昨晩とは男女入れ替えとなっており、先客僅か1名の広々とした中、また新たな気分で温泉を楽しめました。
更には、通常は予約制の貸し切りとなっている露天風呂のうち、川っぺりの岩風呂「幻の湯」が朝は男湯として開放されていましたので、そちらも楽しませていただきました。
目の前には昨晩、プロジェクションマッピングを投影していた能舞台も。
岩風呂のすぐ横を流れる川。
東山温泉で湯治していた土方歳三は、風呂場から川に飛び込んだというエピソードを残しています・・・本当であれば、足を怪我しているのに何してんだか ┐(´-`)┌ といったところですが(笑)
しかしなんだかとっても、その時の光景をイメージしやすいロケーションだなぁ~とは感じました。
この後、会津若松市は大雨となりましたので、もう少し入浴時間が遅くなっていたら川の増水で「幻の湯」には入れなかったかもしれません・・・まさに、早起きは三文の徳!?
さて、朝食バイキングを済ませ、部屋でチェックアウトの準備をしていると、先述の通り空からは滝のような大雨が。。。
本来であれば天寧寺にも寄って、久しぶりに近藤勇のお墓にお参りして行きたかったところですが、本堂から山道をそこそこ登るので、大雨ではアウト。
あまりの本降りに自宅への直帰も考えましたが、いざチェックアウトを済ませて表へ出てみると少し弱まっていましたので、まずは飯盛山へ向かってみることにしました。
8世紀頃、行基によって開湯されたとも伝えられる東山温泉。周辺一帯が天寧寺の寺領だったことから、江戸時代の頃までは「天寧寺の湯」と呼ばれていました。
慶応4年(1868)4月の宇都宮での戦闘で足を負傷し、会津城下七日町の清水屋に滞在していた土方歳三も、東山温泉に通って怪我の療養に努めていたと云われています。
そんな東山温泉に一度は泊ってみたいとの思いを此度、ようやく実現させてきました。
道中、白河小峯城にも立ち寄って・・・
集古苑で開催されている特別企画展「戊辰戦争と白河」を見学したりしつつ・・・
※白河口の戦いについては、コチラの記事を参照ください。
午後3時過ぎには早々に東山温泉の宿、庄助の宿 瀧の湯に到着。
チェックイン前にロビーで、抹茶と水羊羹のおもてなし。
右端の杯は何に使うのかと言うと・・・
お酒が大好きだったと云う庄助さんにちなみ、なんとウェルカム利き酒のサービスまでありました。
会津の民謡「会津磐梯山」にも登場し;
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした
と謡われる小原庄助。
その出自や人となりには諸説あり、謎の多い人物とされています。
宿名に冠した「庄助の宿」は、そんな小原庄助が瀧の湯を訪れていたとの言い伝えに由来しているそうです。
館内の売店で「庄助の酒」も販売されていますが、朝酒が好きだったという庄助にちなみ、朝だけ格安なお値段で購入できるサービスまでやっていました。
無論、私もお酒だけは翌朝になってから購入しました(笑)
リーズナブルな宿泊プランの割には、お部屋も案外いい感じ。
宿のすぐ脇に伏見ヶ滝。
瀧の湯の大浴場や露天風呂は、この伏見ヶ滝のロケーションを売りの一つにしています。
心配していた雨もなんとか持ち堪えてくれたので、少し温泉街の散策に出かけました。
「きつね湯」と称し、元は会津藩の保養所だった向瀧。
土方が実際に利用していた湯が東山温泉のいずれだったのかは判っておらず、主な候補として三湯挙げられています。この向瀧がその一つ。
歴史を感じさせる建物に趣もあり、なんとも素敵な佇まいでした。
こちらも候補の一つ、東山温泉最古の源泉とも云われる「猿の湯」を有する不動滝(新滝別館)の岩風呂(跡)。
「土方歳三 戦傷湯治の岩風呂」との案内板も掲げられていました。
※ちなみに本館の新滝は、元は会津藩主の別荘があった場所とされています。
「猿の湯」の岩風呂は、あの土方歳三の絵の足元付近にあります。
明治19年まで、東山温泉に至る本道(つまりは温泉街の入口)だった残念坂。
湯浴みを楽しんで家路につく客が、後ろ髪を引かれる思いで「もう帰らないといけないのか、残念・・・」と呟いたとか呟かないとか。。。
残念坂から続くみかえり坂
この先は会津の城下町へと続いていました。
みかえり坂の沿道に建つ、羽黒山湯上神社の大きな鳥居。
もしかすると土方も、天寧寺で近藤勇のお墓に参った後、この鳥居の前を通ってみかえり坂をゆるゆると下り・・・
あの角で右へ折れて・・・
残念坂を下って東山温泉に通っていたのかもしれませんね。
たまたま見かけた射的屋。
とってもノスタルジックな昭和の香りが漂っていました。
もし幕末の頃にも営業していたら、土方も「おのれ、薩長の奴らめ!」なんて言いながら、ムキになって遊んでいたのかも・・・なんて考えてみたり(笑)
東山温泉には多くの文人墨客も訪れています。
竹久夢二もその一人。彼がよく逗留していた新滝の前には歌碑も建てられていました。
さて、ここらで散策を終え、宿に戻って夕食前にひとっ風呂浴びることにします。
大浴場前に展示されていた小原庄助愛用の石風呂。
ところで先程、土方歳三療養の湯には候補が三つあるということを書きましたが、その最後の一つこそ、私が今回お世話になった瀧の湯です。
瀧の湯にはその昔、会津藩の共同湯がありました。
(向瀧の「保養所」に瀧の湯の「共同湯」・・・違いがイマイチよく分かりませんが、前者は上級藩士用、後者はそれ以外の一般藩士にも開放されていたもの、と解したらよろしいのでしょうかね)
そんな訳で大浴場には「瀧の湯こそ土方歳三療養の湯と考えられる」との見解が綴られた案内書きもありました…(^_^;)
※根拠の一つとして「土方が滞在していた清水屋や、お参りしていたであろう近藤勇のお墓がある天寧寺から一番近く、足を怪我していた土方が一番近い湯につかりに来ていたと考えるのは自然なこと」といった趣旨のことが書かれていましたが、確かに直線距離としては市中から一番近い場所に位置しているものの、先ほど見てきたみかえり坂~残念坂のルートが東山温泉への本道とすると、経路的には必ずしも一番近いとは言えないような気もします・・・他にもルートがあったのであれば別ですが。
(それ以前に、そもそもが小さな温泉街なので、遠い近いと言ったところでたいした差でもありません)
結局のところ、確かな史料で確認できない以上、確定することも難しいでしょう。
しかしそれでも、その可能性のある湯に150年の時を経て実際に浸かることができる喜びは、ファンにとってはやはり格別なものがあります。
実際に体感した瀧の湯は、透明でサラッとしたお湯。
水温は、ぬる湯にのんびりとつかりたい派には少々高めですが、とても気持ちのいい時間を過ごせました。
※温泉には全く見識がないので、この程度の感想でご容赦ください(笑)
夕食の献立
くどいようですが、料金の割にはしっかりと食べさせてくれました。
夜、ロビーではプロジェクションマッピングの上映も。
川を挟んだ対岸に設置された能舞台に投影されています。
こうして東山温泉の夜は、ゆったりした心地の中で更けてゆくのでした。。。
翌朝は4:30の利用開始時間と同時に大浴場へ。
昨晩とは男女入れ替えとなっており、先客僅か1名の広々とした中、また新たな気分で温泉を楽しめました。
更には、通常は予約制の貸し切りとなっている露天風呂のうち、川っぺりの岩風呂「幻の湯」が朝は男湯として開放されていましたので、そちらも楽しませていただきました。
目の前には昨晩、プロジェクションマッピングを投影していた能舞台も。
岩風呂のすぐ横を流れる川。
東山温泉で湯治していた土方歳三は、風呂場から川に飛び込んだというエピソードを残しています・・・本当であれば、足を怪我しているのに何してんだか ┐(´-`)┌ といったところですが(笑)
しかしなんだかとっても、その時の光景をイメージしやすいロケーションだなぁ~とは感じました。
この後、会津若松市は大雨となりましたので、もう少し入浴時間が遅くなっていたら川の増水で「幻の湯」には入れなかったかもしれません・・・まさに、早起きは三文の徳!?
さて、朝食バイキングを済ませ、部屋でチェックアウトの準備をしていると、先述の通り空からは滝のような大雨が。。。
本来であれば天寧寺にも寄って、久しぶりに近藤勇のお墓にお参りして行きたかったところですが、本堂から山道をそこそこ登るので、大雨ではアウト。
あまりの本降りに自宅への直帰も考えましたが、いざチェックアウトを済ませて表へ出てみると少し弱まっていましたので、まずは飯盛山へ向かってみることにしました。
自刃した白虎隊士中二番隊十九士の墓所や、ただ一人蘇生して生き残った飯沼貞吉(貞雄)のお墓にもお参りして、自刃の地へ。
鶴ヶ城の天守が遠く雨に煙っていました。
縁あって会津には何度も来ているのですが、飯盛山参拝は実に30年ぶりとなりました。
ご存じ、さざえ堂。
戸ノ口堰洞穴
白虎隊伝承史学館にも立ち寄り、山川大蔵が斎藤一に贈った書(初公開)も拝観してきました。
つとむてふ君がその名にそむかずばたかくいさほのたださだめやは
※つとむ(勉)=斎藤一の子息
続いて鶴ヶ城へ。
天守から望む小田山、そして先ほどまで滞在していた東山温泉方面。
天守登閣も30年ぶりとなりました。
帰路は会津西街道(下野街道)のルートを辿りつつ、今市(日光市)辺りまでは下道を走りたかったのですが、天守から確認した南方の山々に厚い雨雲がかかっていましたので、それも諦めて磐越道→東北道のルートを採りました。
会津にはまた近いうちに足を運びますので、今回諦めた行程はその時にでもトライしてみます。
今回はとにかく、東山温泉を満喫できたので良しとしたいと思います。
鶴ヶ城の天守が遠く雨に煙っていました。
縁あって会津には何度も来ているのですが、飯盛山参拝は実に30年ぶりとなりました。
ご存じ、さざえ堂。
戸ノ口堰洞穴
白虎隊伝承史学館にも立ち寄り、山川大蔵が斎藤一に贈った書(初公開)も拝観してきました。
つとむてふ君がその名にそむかずばたかくいさほのたださだめやは
※つとむ(勉)=斎藤一の子息
続いて鶴ヶ城へ。
天守から望む小田山、そして先ほどまで滞在していた東山温泉方面。
天守登閣も30年ぶりとなりました。
帰路は会津西街道(下野街道)のルートを辿りつつ、今市(日光市)辺りまでは下道を走りたかったのですが、天守から確認した南方の山々に厚い雨雲がかかっていましたので、それも諦めて磐越道→東北道のルートを採りました。
会津にはまた近いうちに足を運びますので、今回諦めた行程はその時にでもトライしてみます。
今回はとにかく、東山温泉を満喫できたので良しとしたいと思います。
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