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2018年8月19日 (日)

弥勒寺官衙遺跡群、小倉山城、他

夏の岐阜旅2日目(といっても初日は岐阜旅ではなかったけどw)
この日は徹夜おどり参加のため、最終的には郡上八幡へ向かいますが、それまでの時間は関市や美濃市の史跡をめぐりました。
まずはじめは・・・

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関市池尻の弥勒寺官衙遺跡群へ。
奥に見えるのは現在の弥勒寺です。

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ここは、「古事記」や「日本書紀」にその名が見える古代豪族ムゲツ氏(牟義都/牟下津)の本拠地。
壬申の乱(672)で大海人皇子の勝利に功績のあったムゲツ氏は、長良川河畔のこの地に氏寺となる弥勒寺を建立し、武儀郡を治める役所(官衙)を整備しました。
その栄華は平安時代の中頃(10世紀前半)まで続いたと云います。

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手前に正倉院跡、奥に郡庁跡。

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こちらは弥勒寺跡。
中門を通って東に塔、西に金堂、正面奥に講堂が配されていました。

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塔跡

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講堂跡

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講堂跡の背後にも、何かしらの造成の跡が窺えました。

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その講堂背後の山へ少し入った場所に、円空のお墓があります。
江戸時代前期に数多の仏像を生み出し、仏師としても各地にその作品を残す活躍をした円空は元禄2年(1689)、この地に弥勒寺を再興しています。

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円空が再興した現在の弥勒寺。
数多くの円空仏を有していましたが、残念ながら大正期の火災でその殆どを焼失しました。

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本堂では現代(平成)に、「円空彫り」と呼ばれる技法・様式で彫られた仏像が数多く展示されていました。

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円空入定塚
弥勒寺を再興した円空は元禄8年(1695)、自らの死期を悟ると「この藤の花が咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」と言い残して入定したと伝えられています。
藤の季節にはさぞ、綺麗な花を咲かせるのでしょうね。

この後は美濃市へ移動して・・・

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小倉山城跡へ。

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関ヶ原合戦(慶長5年/1600)の後、上有知(こうずち/美濃市)を加増された金森長近は、本拠の飛騨高山を養子の可重に譲り、上有知にそれまで存在した鉈尾山城を廃して尾崎丸山に自らの隠居城として新たな城を築き、城山の名も「小倉山」に改めました。
これは風流を愛でた長近が、京嵯峨野の名勝・小倉山にちなんだものとも云われています。

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山頂の展望台

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眼下に長良川を収める、展望台からの眺め。

小倉山城はその後、可重から長近の実子・長光に上有知2万石が分知されて上有知藩が立藩されますが、長光が実子ないままに亡くなったために改易され、廃城の運命を辿りました。

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鐘櫓跡
小倉山城には城下へ刻を知らせる梵鐘が置かれていましたが、後に上有知藩改易の処理にあたった美濃郡代・岡田将監善政が、揖斐郡(揖斐川町)の松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄


鐘には長近の名も刻まれていました。
この翌日には揖斐にも足を運び、松林寺を訪れてみました。

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続いて城下の、うだつの上がる町並みを散策します。

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とても風情があっていいのですが、とにかく暑かった・・・。

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お昼を食べられる店を探して歩き回りましたが、どこも満席で諦めました。

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同じく城山の麓に位置する清泰寺
上有知に入って小倉山城を築いた金森長近は、鉈尾山城主・佐藤氏の菩提寺であった以安寺を改め、清泰寺を創建しました。

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長近を祀る寺内社、金森大権現。

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清泰寺本堂

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向かって右から左へ鉈尾山城主・佐藤清信、同秀方、小倉山城主・金森長光の墓所。

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長光の死後、上有知は天領となり、西尾氏が代官として入ります。
その西尾氏4代(正房・正重・正永・正利)の墓所。

この後は道の駅で昼食休憩を挟み、郡上八幡へ向かいました。

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