大善寺の御開帳、栖雲寺、etc...
山梨旅の2日目はまず、勝沼の大善寺へ。

大善寺では平成30年10月1~14日までの間、秘仏薬師三尊の5年に1度の御開帳を迎えていました。
その最終日に、駆け込むようにして参拝させていただきます。

勝沼といえば、やはり葡萄ですよね~♪
参拝時間は午前9時からのはずでしたが、その5分前に到着した我々でさえ、既に第3駐車場へまわされるという盛況ぶりでした。

こちらが今回、御開帳で拝観させていただいた薬師三尊。
御本尊の葡萄を手にした薬師如来(ぶどう薬師)を中心に、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩。
開かれた扉の目の前まで近づくことができ、至近距離でお詣りさせていただけました。
薬師三尊以外にも;
・十二神将立像
・150年ぶりの公開となる紙本着色不動明王画像
・土浦土屋氏(片手千人切の惣藏の子孫)奉納 文殊菩薩立像
・秋田佐竹氏奉納 毘沙門天立像
・永禄12年の武田信玄による小田原攻めの布陣を描いた図屏風
などの他、なんと天正10年4月に発給された、
・織田信長の禁制(立て札)
までもがケースに入れるでもなく、裸の状態で陳列されていました。さすがに劣化が激しく、墨書された文字は殆ど判読不能でしたが・・・。
武田氏が滅亡し、新たな支配者となった織田氏の禁制を取り付けるため、大慌てで奔走する当時の住職らの姿を思わず想像してしまいました。
同様に秀吉の禁制木札もありましたが、発給年月を失念しました。おそらく、天正18年の小田原征伐時のものではなかったかと・・・。
最後に理慶尼のお墓にもお詣りして、大善寺をあとにしました。
大善寺参拝の後は田野の景徳院や、土屋惣藏片手千人切の碑にも立ち寄りました。

景徳院では、旗竪松が失くなっていたことにビックリ!
2017年の1月に訪れた際は確かに健在だったのですが・・・何があったのでしょうか。

小山田信茂の裏切りに遭い、追い詰められた武田勝頼らが最後に目指していたとも云われる天目山栖雲寺。

栖雲寺からの山深い眺め。

栖雲寺銅鐘
中世の作で、「甲斐の五鐘」にも数えられています。

栖雲寺に眠る武田信満と家臣らの墓所。
応永23年(1416)、信満は上杉禅秀の乱に加担するも敗れ、同24年に天目山にて自害しています。
なお、我々の訪問時には法要が行われていたようで、残念ながら庭園の拝観は諦めました。
天目山は蕎麦切り発祥の地でもあるらしいので・・・

お昼は勿論、景徳院近くのお店でお蕎麦をいただきました(笑)

有馬晴信謫居の跡
有馬晴信は肥前日野江城主で、キリシタン大名としても有名な人物です。
慶長17年(1612)、本多正純の家臣・岡本大八とのいざこざ(長くなるので割愛)から罪に問われ、幕府の命で甲斐へ流された後に死罪に処されました。
こちらは晴信が甲斐へ流され、死を迎えるまでの僅かな期間を過ごした地ということになります。
この後も更にいくつか史跡をめぐりましたが、それは次の記事にて。
※大善寺や理慶尼、武田氏終焉の地などについては別の記事でも書いていますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
→「新府城~武田勝頼の終幕」

大善寺では平成30年10月1~14日までの間、秘仏薬師三尊の5年に1度の御開帳を迎えていました。
その最終日に、駆け込むようにして参拝させていただきます。

勝沼といえば、やはり葡萄ですよね~♪
参拝時間は午前9時からのはずでしたが、その5分前に到着した我々でさえ、既に第3駐車場へまわされるという盛況ぶりでした。

こちらが今回、御開帳で拝観させていただいた薬師三尊。
御本尊の葡萄を手にした薬師如来(ぶどう薬師)を中心に、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩。
開かれた扉の目の前まで近づくことができ、至近距離でお詣りさせていただけました。
薬師三尊以外にも;
・十二神将立像
・150年ぶりの公開となる紙本着色不動明王画像
・土浦土屋氏(片手千人切の惣藏の子孫)奉納 文殊菩薩立像
・秋田佐竹氏奉納 毘沙門天立像
・永禄12年の武田信玄による小田原攻めの布陣を描いた図屏風
などの他、なんと天正10年4月に発給された、
・織田信長の禁制(立て札)
までもがケースに入れるでもなく、裸の状態で陳列されていました。さすがに劣化が激しく、墨書された文字は殆ど判読不能でしたが・・・。
武田氏が滅亡し、新たな支配者となった織田氏の禁制を取り付けるため、大慌てで奔走する当時の住職らの姿を思わず想像してしまいました。
同様に秀吉の禁制木札もありましたが、発給年月を失念しました。おそらく、天正18年の小田原征伐時のものではなかったかと・・・。
最後に理慶尼のお墓にもお詣りして、大善寺をあとにしました。
大善寺参拝の後は田野の景徳院や、土屋惣藏片手千人切の碑にも立ち寄りました。

景徳院では、旗竪松が失くなっていたことにビックリ!
2017年の1月に訪れた際は確かに健在だったのですが・・・何があったのでしょうか。

小山田信茂の裏切りに遭い、追い詰められた武田勝頼らが最後に目指していたとも云われる天目山栖雲寺。

栖雲寺からの山深い眺め。

栖雲寺銅鐘
中世の作で、「甲斐の五鐘」にも数えられています。

栖雲寺に眠る武田信満と家臣らの墓所。
応永23年(1416)、信満は上杉禅秀の乱に加担するも敗れ、同24年に天目山にて自害しています。
なお、我々の訪問時には法要が行われていたようで、残念ながら庭園の拝観は諦めました。
天目山は蕎麦切り発祥の地でもあるらしいので・・・

お昼は勿論、景徳院近くのお店でお蕎麦をいただきました(笑)

有馬晴信謫居の跡
有馬晴信は肥前日野江城主で、キリシタン大名としても有名な人物です。
慶長17年(1612)、本多正純の家臣・岡本大八とのいざこざ(長くなるので割愛)から罪に問われ、幕府の命で甲斐へ流された後に死罪に処されました。
こちらは晴信が甲斐へ流され、死を迎えるまでの僅かな期間を過ごした地ということになります。
この後も更にいくつか史跡をめぐりましたが、それは次の記事にて。
※大善寺や理慶尼、武田氏終焉の地などについては別の記事でも書いていますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
→「新府城~武田勝頼の終幕」
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