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2018年10月

2018年10月30日 (火)

飛山城

大谷資料館の後は20㎞ほど移動し、飛山城跡(宇都宮市竹下町)へ向かいました。

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飛山城跡図
便宜上、4つに大別される曲輪に14の数字をふりました。

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城跡北東隅から南の方角。
土塁や堀が綺麗に整備されています。

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飛山城は13世紀末、宇都宮氏の家臣・芳賀氏による築城と伝わります。
以来、小田原征伐(1590年)後に豊臣秀吉の命によって破却されるまでの300年間、芳賀氏の拠点として機能していました。

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それでは、城跡図●現在地にある木橋を渡り、東の大手虎口より入城します。
虎口の先に、視界を遮断するかのような土塁が見えています。橋の手前からは「蔀土塁かな?」と思いましたが、近づいてみると・・・

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小さいながらも、れっきとした馬出でした。
木橋を渡ってくる敵に対し、写真左奥に見えている4曲輪北東端の虎口を守っています。

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馬出の奥、4曲輪の虎口前にも二重目の横堀が走り、土橋が架けられています。

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東面二重目の横堀。
ちなみに一重目は最初に木橋で越えた堀です。

飛山城は鬼怒川の河岸段丘上に築かれており、北と西面は段丘の縁に接して急崖と川に守られていますが、南と東面にはこうして帯曲輪状の削平地を挟み、二重の堀を施して守りを固めていました。

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4曲輪虎口側から馬出方向。
写真では明る過ぎてとんでしまっていますが、正面やや左寄りの土塁の切れ目の先に、大手の木橋が架けられています。

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4曲輪(手前)と3曲輪(右奥)を隔てる堀と土塁。
まずはこの堀を越え、3曲輪から反時計回りに見ていくことにします。

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3曲輪から鬼怒川越しの眺め(北西方向)。
足元はすぐに落ち込んでおり、段丘の縁に築かれていたことが一目瞭然です。

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3曲輪と1曲輪間の堀・土塁。

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1曲輪は更に堀で細かく仕切られていたようで、地表面にその痕跡(窪み)が残されていました。
この堀(現地表記では「1号堀」)は発掘調査の結果、破城時に埋め戻されていたことが判明しています。

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同じく埋め戻された堀跡(同「3号堀」)

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1曲輪(左)と2曲輪(右)間の堀・土塁。
出枡状に折っている部分がありますが、そのすぐ先(写真奥)には虎口があって木橋が架けられています。
12曲輪を繋ぐ虎口の至近から横矢を掛け、厳重に警戒する意図を感じました。

現地案内板にも(上の図で1曲輪に相当する)「2号堀に囲まれた部分が、主郭(本丸部分)と考えられます」とありましたが、虎口に対する厳重な防御、そして出枡の向きからして、私も1曲輪が主郭だったのだろうと思います。

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2曲輪に復元された掘立柱建物。

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2曲輪と4曲輪間の堀。2つほど畝もありました。

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2曲輪から4曲輪への虎口は、堀が屈折するコーナーに設けられていました。
その土橋の足元には・・・

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可愛らしい畝の姿も。

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広大な4曲輪には復元された古代の住居や・・・

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竪穴建物なども展示されていました。

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4曲輪南東隅の横堀。
左奥は二重の堀に挟まれた帯曲輪で、その外側に最外郭の堀があります。

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その最外郭の堀(東面)

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最初に見た大手虎口へ横矢を掛ける、大手南側の櫓台。

飛山城・・・予想外に広い城域と、技巧的な遺構が見応えありました。
史跡公園としてよく整備され、登山もないので手軽にお城散策を楽しめますし、歴史体験館が併設されて駐車場も完備。
近くへお越しの際は、お薦めの立ち寄りスポットです。

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2018年10月29日 (月)

大谷石の地下採石場跡(大谷資料館)

10月28日(日)は早朝に自宅を出発し、宇都宮までドライブ。
まずは大谷石の地下採石場跡、大谷資料館へ向かいます。

大谷石は宇都宮市大谷町の一帯で採掘される石材で、柔らかくて加工しやすい特長を持ち、古くから土蔵などの建材として用いられてきました。

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資料館周辺の岩肌にも、特徴的な採石跡が見られました。

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それでは早速、地下の採石場坑内へ。

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細い階段を下りていくと、いきなりこの光景が目に飛び込んできます。
聞きしに勝るスケールです。

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やぁ、精が出ますなぁ~。
昭和30年代に機械化されるまでは、こうしてツルハシで手掘りしていたそうです。

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地下神殿を思わせる神秘的な空間はこれまで、映画やドラマなどのロケでも多く利用されているようです。

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こうして見ると、まるで某RPGのダンジョンですよね。

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表面につけられた溝は、機械で採石された痕跡とのこと。

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岩石とか地質に興味があれば更に楽しめるのでしょうが、この光景だけでも一見の価値ありです。

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何故か突然の・・・ドンペリ(笑)
地下坑内は年間を通じて気温12度前後に保たれており、天然の冷蔵庫としても最適、ということのようです。

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人尺が入ると、そのスケールの大きさが引き立ちますね。

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次は夏の暑い盛りに涼みにきますか!←

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2018年10月25日 (木)

向嶽寺、小山城、etc...

今回の山梨旅、ラストの記事になります。

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甲州市塩山の向嶽寺
臨済宗向嶽寺派の大本山で、開基は甲斐守護の武田信成。
寺名は「富嶽に向かう」を由来としています。

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武田信玄も禁制を発給するなどして、向嶽寺の保護に努めています。
当初は「向嶽庵」としていましたが、信玄の朝廷への働きかけで開山の抜隊得勝禅師に「恵光大圓禅師」の諡号を賜り、これを機に向嶽寺と改められました。
伽藍の多くは度重なる火災で失われ、後に再建されたものになります。

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同行者たちが何やら覗き込んでいますが・・・仏殿の天井には龍が描かれていました。

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更には、甲斐国分寺跡や・・・

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国分尼寺跡にも立ち寄りつつ・・・

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ラストは山梨県笛吹市八代町高家の小山城跡へ。
東側の虎口から曲輪内へ入ります。

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規模の大きな土塁が方形に曲輪を囲う、単郭式の遺構でした。
遠くに御坂城の城山も見えています。

甲斐小山城は武田氏時代の城で一旦は廃城となっていたものの、天正10年(1582)、御坂城に拠る北条勢と対峙する徳川家康(天正壬午の乱)が、鳥居元忠にこの城の修築を命じ、守備させていたと伝わります。
遺構の多くも、この時の徳川勢によるものでしょうか。

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土塁の外側には空堀も。
残存状態は結構良さそうです。
さて、これにて1泊2日の山梨旅は終了です。
小山城跡で同行者たちとお別れして帰路へ。中央道の渋滞には難儀したものの、何とか無事に帰宅しました。

旅の趣旨に賛同し、同行していただいた仲間に感謝。
楽しく、多くの歴史に触れることができました。

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2018年10月24日 (水)

大善寺の御開帳、栖雲寺、etc...

山梨旅の2日目はまず、勝沼の大善寺へ。

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大善寺では平成30年10月1~14日までの間、秘仏薬師三尊5年に1度の御開帳を迎えていました。
その最終日に、駆け込むようにして参拝させていただきます。

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勝沼といえば、やはり葡萄ですよね~♪

参拝時間は午前9時からのはずでしたが、その5分前に到着した我々でさえ、既に第3駐車場へまわされるという盛況ぶりでした。

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こちらが今回、御開帳で拝観させていただいた薬師三尊。
御本尊の葡萄を手にした薬師如来(ぶどう薬師)を中心に、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩。
開かれた扉の目の前まで近づくことができ、至近距離でお詣りさせていただけました。

薬師三尊以外にも;
・十二神将立像
・150年ぶりの公開となる紙本着色不動明王画像
・土浦土屋氏(片手千人切の惣藏の子孫)奉納 文殊菩薩立像
・秋田佐竹氏奉納 毘沙門天立像
・永禄12年の武田信玄による小田原攻めの布陣を描いた図屏風

などの他、なんと天正10年4月に発給された、
織田信長の禁制(立て札)
までもがケースに入れるでもなく、裸の状態で陳列されていました。さすがに劣化が激しく、墨書された文字は殆ど判読不能でしたが・・・。
武田氏が滅亡し、新たな支配者となった織田氏の禁制を取り付けるため、大慌てで奔走する当時の住職らの姿を思わず想像してしまいました。

同様に秀吉の禁制木札もありましたが、発給年月を失念しました。おそらく、天正18年の小田原征伐時のものではなかったかと・・・。

最後に理慶尼のお墓にもお詣りして、大善寺をあとにしました。

大善寺参拝の後は田野の景徳院や、土屋惣藏片手千人切の碑にも立ち寄りました。

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景徳院では、旗竪松が失くなっていたことにビックリ!
2017年の1月に訪れた際は確かに健在だったのですが・・・何があったのでしょうか。

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小山田信茂の裏切りに遭い、追い詰められた武田勝頼らが最後に目指していたとも云われる天目山栖雲寺

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栖雲寺からの山深い眺め。

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栖雲寺銅鐘
中世の作で、「甲斐の五鐘」にも数えられています。

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栖雲寺に眠る武田信満と家臣らの墓所。
応永23年(1416)、信満は上杉禅秀の乱に加担するも敗れ、同24年に天目山にて自害しています。

なお、我々の訪問時には法要が行われていたようで、残念ながら庭園の拝観は諦めました。

天目山は蕎麦切り発祥の地でもあるらしいので・・・
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お昼は勿論、景徳院近くのお店でお蕎麦をいただきました(笑)

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有馬晴信謫居の跡
有馬晴信は肥前日野江城主で、キリシタン大名としても有名な人物です。
慶長17年(1612)、本多正純の家臣・岡本大八とのいざこざ(長くなるので割愛)から罪に問われ、幕府の命で甲斐へ流された後に死罪に処されました。
こちらは晴信が甲斐へ流され、死を迎えるまでの僅かな期間を過ごした地ということになります。

この後も更にいくつか史跡をめぐりましたが、それは次の記事にて。
※大善寺や理慶尼、武田氏終焉の地などについては別の記事でも書いていますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
「新府城~武田勝頼の終幕」

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2018年10月23日 (火)

中道往還と右左口

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真っすぐに伸びる中道往還と、右左口宿の町並み。

四月十日、信長公、東国の儀仰せ付けられ、甲府を御立ちなさる。爰に、笛吹川とて善光寺より流れ出づる川あり。橋を懸げおき、かち人渡し申し、御馬共乗りこさせられ、うば口に至りて御陣取り。家康公御念を入れられ、路次通り鉄炮長竹木を皆道ひろゞと作り、左右にひしと透間なく警固を置かれ、石を退かせ、水をそゝぎ、御陣屋丈夫に御普請申し付け、
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より抜粋。以下引用同)

甲州征伐を終え、安土への凱旋の途についた織田信長は天正10年(1582)4月10日、甲府を発ってこの右左口(うばぐち)に入りました。(参考記事「織田信長の凱旋旅」
上に引用した「信長公記」の記述を見ても、信長一行の往来のために徳川家康が心を砕き、陣屋や道、つまりこの中道往還の整備に励んだ様子が伺えます。

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右左口宿に建つ敬泉寺。
慶長10年(1605)の創建と伝わりますが、天正10年(1582)に家康が甲斐へ入国した際、寺中に家康や諸士の滞在のための仮屋を建てたとの記録もあり、実際の創建時期は更に遡るとの説もあるとのことです。
現在の堂宇は1700年代前期に再建されたもので、創建当初から現存する観音堂には、平安時代の作と考えられる十一面観音立像が安置されています。

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敬泉寺前に建つ宝蔵倉。
徳川家康との結びつきを示すように、この蔵には家康の朱印状も保管されていました。
(現在は県立博物館に寄託)

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左上の赤い屋根が観音堂で、右手前は東照神君御殿場跡。

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東照神君御殿場
天正10年、本能寺の変で信長が斃れると甲斐国では一揆が勃発し、甲斐を預けられていた河尻秀隆も殺害されました。
この混乱を収め、甲斐の掌握に乗り出した家康は同年7月に甲府へ入りますが、その道中には中道往還を通って右左口にも数日間滞在しています。
東照神君御殿場跡は、その時の家康滞在の仮屋跡とされている場所です。
※なお、甲府へ向かう家康を本栖の辺りで案内したのは、やはり渡辺因獄祐だったようです。(前記事参照)

織田信長が甲府からの帰路で右左口に宿泊したのは、その僅かに3ヶ月ほど前。そして、その時の信長のための御陣屋を準備させたのも家康・・・そう考えると、この東照神君御殿場跡が即ち、織田信長宿泊の地でもあったのではないかと考えたくなります。

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観音堂
秘仏の十一面観音の御開帳は、なんと33年に1度なのだそうです。
高台にあることから、家康の滞在時には見張りの兵が置かれていたとの伝承もあるようです。

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敬泉寺から中道往還を少し南へ進むと、小さな分岐点がありました。
中道往還は右へ進むのですが、その足元には・・・

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古い道標があります。
左 山道
右 駿河

信長もここを右へ進み、駿河(富士宮)へ向かいました。

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中道往還、迦葉坂の登り口。
迦葉は「かしょう」と読み、昔より柏尾坂とも呼ばれてきました。

四月十一日、払暁に、うぱ口より女坂高山御上りなされ、谷合ひに、御茶屋、御厩結構に構へて、一献進上申さるゝ。かしは坂、是れ又、高山にて茂りたる事、大形ならず。左右の大木を伏せられ、道を作り、石を退かさせ、山ゝ嶺ゝ、透間なく御警固を置かる。かしは坂の峠に御茶屋美々しく立て置き、一献進上侯なり。其の日は、もとすに至りて、御陣を移され、

4月11日の明け方、右左口を出立した信長一行は女坂かしは坂を越えて本栖へ向かったとあります。
「信長公記」にあるかしは坂は、この迦葉坂を指しているのではないかと思います。

なお女坂の方は、本栖までの道中にもう一つ越えなければならない阿難坂を指しているものと思われます。実際、阿難坂は昔から女坂とも呼ばれてきたそうです・・・が、一つ大きな疑問も。
「公記」を読む限り、あたかも女坂かしは坂の順で通行したように書かれていますが、上の写真の通り、右左口から本栖へ向かう際に最初に迎える坂は迦葉坂であり、阿難坂は迦葉坂で右左口峠を越え、一旦甲府市小関町周辺の集落へ下りた後に迎える2つ目の坂(峠)です。阿難坂を越えると精進湖に出て、その先は本栖に至るまで特に目立った坂(峠)もありません。

かしは坂=迦葉坂とすると、どうしても「公記」の記述に矛盾が生じてしまうのですが、これは太田牛一の記憶違いか、記録ミスによる誤記ではないかと考えています。
むしろそれよりも、現地に立って迦葉坂の細い坂道を目にした時、これほど細かな地名まで書き漏らすことなく綴っている牛一に、改めて凄みのようなものを感じました。

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迦葉坂の登り口から、凱旋旅の出発地・甲府の街並みを眺め渡す。
信長も右左口を出立する朝、こうして甲府の町並みを振り仰いだのでしょうか。


さて、初日の行程はこれにて終了です。
ワイナリーに立ち寄ったり、喫茶店で休憩した後は甲府駅前の宿にチェックインし、夜は楽しく飲みました。
2日めは勝沼の大善寺からスタートします。

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2018年10月22日 (月)

青木ヶ原樹海の中道往還と本栖城

10月13~14日は山梨への歴旅。
同行のメンバーと本栖湖で集合し、まずは青木ヶ原樹海に残る中道往還の旧道を歩きつつ、本栖城跡へ向かいます。

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本栖湖近くに建つ江岸寺
天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への凱旋の途につく織田信長は、4月10日に甲府を発ち、右左口を経て11日には本栖に入っています。(参考記事「織田信長の凱旋旅」
典拠が定かではないのですが、この時の本栖での信長の滞在先が、この江岸寺だったとの説もあるようです。(但し、家康は本栖でも一夜のためにわざわざ御座所を作らせているので、江岸寺に泊まったのが事実としても、“寺域内に建てた御座所に泊った”となるのでしょうが)
伝承では戦国期、甲斐武田氏も甲駿国境防備のため、江岸寺に武器を備えて将兵の詰所にしていたとも云われていますが、幕末の慶応4年(1868)に書かれた寺記では、開山を慶長7年(1602)としているそうです。
そうなると武田氏の軍事拠点説は無論のこと、信長の宿泊もなかったことになるのですが・・・「甲斐国志」では開基を本栖の土豪で、1591年には没している渡辺因獄祐としていて、定かなことはわかりません。
また、創建当初は更に湖の畔に近い場所(まさに江の岸)に建てられていましたが、安永年間(1772~78)になって現在地に移されています。

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さて、それでは某廃校前から青木ヶ原樹海に入り、中道往還の旧道を歩いて本栖城方面へと向かいます。

中道往還の起源は古代にまで遡るとも云われ、甲斐と駿河を最短距離で結んでいました。甲駿両国を結ぶ3本の主要な街道の中央に位置することから、「中道」の名で呼ばれました。
「信長公記」の記述を追う限り、織田信長も甲府から富士宮へと抜ける際に間違いなく中道往還を通っています

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樹海の中を進む中道往還。
「信長公記」には徳川家康が信長一行の往来のため、大木を切り伏せたり、石をどかすなどして右左口から本栖へと至る峠の山道を整備した様子が記されています。
ここはその峠の山道ではありませんが、富士山の噴火でできた溶岩石が道の左右に寄せられており、なんとなく家康らの苦心の跡が偲ばれる気もしてきませんか?

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中道往還を歩いていると、明らかに人工的に積まれた石積みの痕跡がチラホラと目につくようになります。

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これなどはまるで、枡形虎口のよう・・・。

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そして、綺麗に積まれた石塁に囲われた空間も。

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なんのために築かれた石塁かは不明ですが、溶岩の石材が苔生して、これがまたいい雰囲気を醸し出していました。

本栖城の麓まで達したところで登城口へ向かう前に一旦、城山の尾根南麓沿いに西へ進んでみます。
すると・・・

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今度は城山の斜面から遊歩道を跨ぐようにして伸び、遊歩道を跨いだ先で奥(西)へ向かって直角に折れている石塁が出てきました。
写真は直角に折れた石塁の内側(城山側)部分。積み方がまるで雁木のようです。
石塁は遊歩道上で一旦切れており、まるで山麓居館区域への虎口といった風情でした。

もう少し西へ進むと・・・

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またまた長く伸びる石塁と遭遇。
この石塁、写真の奥の方で斜面を少し登った後、緩やかに左へカーブして更に先まで続いていたようです。

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斜面を登る石積み。
その全てを辿ることはできませんが、或いは一つ前に見た、雁木状の石積みを伴う直角に折れる石塁の辺りまで続いていたのかもしれません。
両石塁の間にも、更に区画を細かく仕切るかのような石塁の痕跡らしきもの(樹海には溶岩でできた岩がそこかしこにゴロゴロと転がっており、遺構か否かを見分けるのも難しいのですが)が見受けられたので、やはり屋敷地のような、本栖城に付随した関連施設の跡なのではないかと思いました。

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それではいよいよ、本栖城を攻めます。

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尾根に上がって西へ進むと、最初に4本の連続堀切が出迎えてくれます。
同行者が立っている辺りに2本目、そのすぐ先にも3本目が見えているのですが・・・写真ではさすがに分かりませんよね(^_^;)

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確かに、そのまま竪堀として落とされてもいたようですが・・・表示するなら、まずは「堀切」でしょう(笑)

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堀切を越えた先から振り返る・・・。

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主郭への登り口の脇についていた石積み。
ここでもやはり、富士の溶岩が用いられていたようです。

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本栖城主郭

本栖城は、烏帽子岳からの尾根が青木ヶ原樹海にせり出した先端付近に築かれていました。
この城山の麓を、尾根を取り巻くようにして中道往還の旧道が通っているので、街道を押さえて甲駿国境防備のために築かれた城であったろうと考えられています。
甲州征伐~天正壬午の乱が勃発する天正10年(1582)の頃には、「甲斐国志」で江岸寺の開基とされている渡辺因獄祐が在城していたようです。

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主郭南面の石積み。

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主郭西側の、一段下った曲輪から見る主郭方向。
ここでも石積みの石列が確認できました。

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主郭西下の曲輪にあった櫓台のような遺構。案内板には「のろし台」とありました。
この先には・・・

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ザックリと尾根を断ち切る、深い堀切が口を開けていました。
この先にも堀切が何本か連続しているらしいのですが、かなり足元が危うかったので、我々は撤退しました。

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下山後は一旦国道139号に出て尾根の北側へ回り、再び樹海の中へと伸びていく中道往還の旧道を歩きます。
旧街道の遺構としては、尾根北側の方がより綺麗に、しっかりと残っていたように思います。
この道をしばらく歩いていくと・・・

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これまでで一番規模の大きな石塁が視界に入ってきました。
中道往還とは直角に接する方向へ伸びています。写真には写っていませんが、手前側には枡形のような、ほぼ正方形に石塁で囲まれた空間も付随していました。

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石塁の反対側へ回り込むと、かなりハッキリとした階段状に積まれていました。

中道往還の旧道が利用されていた昭和の初期頃まで、ここには「信玄築石」と墨書された木製の標柱が立っていたそうです。
本当にこれが信玄の築いた(築かせた)石塁か否かはともかくとして、やはり何らかの形で本栖城に関連していた遺構と考えておくのが無難、といったところでしょうか。

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信玄築石の先へと続く中道往還。
ここから4~5分も歩くと、中道往還は再び国道139号に出ました。

この後は昼食休憩を挟み、本栖湖の周囲を一周して景観も楽しんでから、信長が凱旋旅の初日に泊った右左口へ向かいます。

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現在の千円札の裏側と同じアングルからの本栖湖・・・富士山が消えちゃってるけど(^_^;)

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2018年10月13日 (土)

良善寺

福島旅の最終日、宿を出発していわき駅近くに建つ良善寺へ。

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良善寺山門

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山門に残る戊辰戦争時の弾痕
こちらは向かって右側の扉のもので・・・

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左側の扉にも。

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本堂

良善寺の東方500mほどの場所には、磐城平城がありました。
戊辰戦争の真っ只中にあった慶応4年(1868)当時、磐城平城には前平藩主で老中も務めた安藤信正(坂下門外の変で幕政からは失脚)がいました。
信正が佐幕派でもあったことから同城は、平潟に上陸して浜街道を仙台目指して進攻してゆく新政府軍の攻撃を受け、同年6月末~7月中旬にかけて都合3度の戦闘が繰り広げられています。

良善寺もこの間の戦闘に巻き込まれたようですが、銃弾が撃ち込まれた具体的な日時や経緯についてはハッキリしていないようです。

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良善寺に眠る安藤信正の墓所。
その背後には・・・

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戊辰戦争戦没者たちのお墓がズラリと並んでいました。

今回、いわきに泊ることが決まった段階で磐城平城跡については一応チェックしていたものの、良善寺はノーマークでした。
情報をくれたフォロワーさんに感謝です。

この後は海産物店でお土産を物色したりしつつ、下道で日立市まで南下してから常磐道→圏央道経由で帰宅しました。
※日立までの道中は海沿いの国道を走ったのですが、随所に新しい防潮堤が築かれていて、車窓から海の眺めを楽しめるポイントが少なかったように思います。
これもきっと、あの地震の影響なのでしょうね。

3日間の総走行距離は約780㎞。
渋滞知らずでいいドライブとなりました。

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2018年10月12日 (金)

「戊辰戦争150年」展、他

白河からは国道289号を西北へ進み、「道の駅しもごう」での昼食休憩を挟みつつ、下郷からは国道121号を北上して芦ノ牧温泉駅へ向かいました。

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「ねこが働く駅」として有名な芦ノ牧温泉駅。

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残念ながららぶ駅長は出張中で会えませんでしたが、ぴーち施設長には会えました♪

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更に北上して会津若松市街に入り、福島県立博物館へ。
当館にて10月14日まで開催されている平成30年度秋の企画展戊辰戦争150を見学してきました。

入館できたのが16時頃だったこともあり、じっくり時間をかけてという訳にもいきませんでしたが、とにかく展示内容が充実していました。

・松平容保に賜った孝明天皇の御製や宸翰(共に複製)
・孝明天皇宸翰徳川家茂宛
・孝明天皇勅書
→元治元年6月、長州軍が京の都に迫る緊迫した情勢(後に元治甲子戦争へと発展)の中、「(前年の)八月十八日の政変は決して松平容保の私情によるものではなく、自らの叡慮に沿ったものである」といったことが記されている。

なども大変興味深かったのですが、何といっても私が一番魅かれた展示品は;

・土方歳三書状 内藤介右衛門・小原宇右衛門宛

に尽きます。

母成峠で旧幕府勢力が新政府軍に敗れた慶応4年(1868)8月21日の夜、土方歳三が会津藩重臣の内藤・小原両名へ宛てて、

明日の朝までには必ず新政府軍が(母成峠後方の)猪苗代まで攻め寄せてくるから、各方面に散っている部隊を残らず猪苗代へ集めて欲しい。
そうしないと明日中には、(猪苗代はおろか)会津若松城下までをも攻め込まれてしまうでしょう。

と書き送り、もはや一刻の猶予もならない緊急事態であることを急報した手紙です。
急なこととて実際に猪苗代へ兵が増員されることはなく、果たして歴史は、土方が訴えた通りの事態を迎えてしまうのでした。。。
(実際に新政府軍が会津城下に達するのは、翌々日の23日)

無論この史料の存在は知っていましたが、初めて実物を拝観することが叶い、感無量です。
さて、初日の宿は東山温泉に取りました。
私自身にとっては8月に続く再訪なので、今回は周辺の散策は省いて宿でのんびりしました。

翌2日目は喜多方へ移動して祖母に会い、昼過ぎまで買い物へ連れ出したり、昼食を共にしたりして過ごしました。

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お昼をいただいた「志ぐれ亭」

祖母を送り届けた後は磐越道で一気に移動し、いわき市の宿へ。

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宿の窓から、遠くに塩屋崎灯台を望む太平洋の夕景。
周囲には空地が多く、閑散としていました。きっと、あの日の津波によるものと思われます。

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宿での夕食。
これら以外にも多くの料理が供され、久しぶりに本気で食べ切れないほどの贅沢な食事に・・・(;^_^A

温泉もどういう訳か大浴場を独占することができ、大満足な滞在となりました。

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2018年10月11日 (木)

革籠原防塁跡

10月6~8日の3日間、家族と共に福島(会津~いわき)への旅に出かけてきました。

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初日、まずは白河ICで高速を下り、情報収集のため福島県立文化財センター白河館“まほろん”に立ち寄ってから・・・
(学芸員の方には親切に、いろいろと教えていただきました。ありがとうございました)

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まほろんのすぐ南側にある、革籠原防塁跡へ。

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遺構西側の、南北に伸びる土塁と堀。
写真は南側から北方向を見た様子で、この土塁と堀は奥の杉並木に沿って写真右方向(東)へ折れています。

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その東へ折れるポイント。
数年前にかなり大規模な伐採が行われたらしく、予め写真などで目にしていた姿からはすっかり様変わりしていました。
変に日当たりが良くなったために、かえって雑草が増えてしまったような・・・。

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東へと伸びる土塁と堀。
外側(左)にも堀らしき痕跡が浅く残っており、辛うじて二重に築かれていた名残を留めています。

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堀底から。

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東側から西の方角を振り返る。
この写真の方が、二重になっていた様子がわかり易いですね。伐採は残念ですが、なかなか見応えのある遺構であることは確かです。

二重に築かれた土塁の形状や堀幅が、向羽黒山城など上杉家が築いた他の城塁と合致する点が多いことから、これを慶長5年(1600)の徳川家康率いる会津征伐軍に備えた上杉家の防塁=革籠原防塁の跡としているようです。

しかし、江戸期の地誌類には「鍛冶屋敷」とも記されています。
そして私自身、残された遺構が少ないというのもありますが、周辺の地形を見渡して立地を考えた時に、なんだかスッキリしないものを感じました。

そして、これはまほろんで教えていただいたのですが・・・

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革籠原防塁跡から西(やや北西寄り)の方角には、石阿弥陀の一里塚があります。
周辺の発掘調査の結果、塚の間を中世~慶長期の奥州街道(奥州街道は江戸時代に入り、白河へ入封した丹羽氏によって付け替えられたと考えられるそうです)と推定される道が通っていたことが判明しています。
この道路遺構は、革籠原防塁跡とされている土塁や堀とほぼ平行するようにして通っていました。
一里塚付近からは中世の宿場町(芳野宿)の痕跡も出土していることから、この道路遺構が主要な幹線道路の一つであったことは確かです。
敵の進軍を止めるための防塁であるならば、むしろ街道と交錯していて然るべきではないでしょうか。

そもそも、上杉家が徳川家康率いる上方の軍勢を迎え撃つにあたり、白河を決戦の地と定め、「革籠原」に大防衛線を布いたとする説の根拠も、「東国太平記」や「白河口戦闘配備之図」といった江戸期に成立した軍記や、それを元に作成されたと考えられる図面に拠っているようで、実際には景勝や、兼続すらも白河には赴いていません。
無論、白河は上杉領への玄関口でもあり、重要な防衛拠点であったことに疑問の余地はありません。それなりに防衛拠点を構築してはいたでしょうが、長さ数kmにも及んだという防塁が本当に存在して、それもこの場所に築かれていたのかとなると、その根拠にはまだ疑問符がつくような気がします。

現時点でこの遺構を上杉家の築いた防塁跡と見るには、少々難があるのではないかと考えます。


さて、この後は下郷を経由して国道121号を北上しつつ、会津を目指すこととします。

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