青木ヶ原樹海の中道往還と本栖城
10月13~14日は山梨への歴旅。
同行のメンバーと本栖湖で集合し、まずは青木ヶ原樹海に残る中道往還の旧道を歩きつつ、本栖城跡へ向かいます。
本栖湖近くに建つ江岸寺。
天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への凱旋の途につく織田信長は、4月10日に甲府を発ち、右左口を経て11日には本栖に入っています。(参考記事「織田信長の凱旋旅」)
典拠が定かではないのですが、この時の本栖での信長の滞在先が、この江岸寺だったとの説もあるようです。(但し、家康は本栖でも一夜のためにわざわざ御座所を作らせているので、江岸寺に泊まったのが事実としても、“寺域内に建てた御座所に泊った”となるのでしょうが)
伝承では戦国期、甲斐武田氏も甲駿国境防備のため、江岸寺に武器を備えて将兵の詰所にしていたとも云われていますが、幕末の慶応4年(1868)に書かれた寺記では、開山を慶長7年(1602)としているそうです。
そうなると武田氏の軍事拠点説は無論のこと、信長の宿泊もなかったことになるのですが・・・「甲斐国志」では開基を本栖の土豪で、1591年には没している渡辺因獄祐としていて、定かなことはわかりません。
また、創建当初は更に湖の畔に近い場所(まさに江の岸)に建てられていましたが、安永年間(1772~78)になって現在地に移されています。
さて、それでは某廃校前から青木ヶ原樹海に入り、中道往還の旧道を歩いて本栖城方面へと向かいます。
中道往還の起源は古代にまで遡るとも云われ、甲斐と駿河を最短距離で結んでいました。甲駿両国を結ぶ3本の主要な街道の中央に位置することから、「中道」の名で呼ばれました。
「信長公記」の記述を追う限り、織田信長も甲府から富士宮へと抜ける際に間違いなく中道往還を通っています。
樹海の中を進む中道往還。
「信長公記」には徳川家康が信長一行の往来のため、大木を切り伏せたり、石をどかすなどして右左口から本栖へと至る峠の山道を整備した様子が記されています。
ここはその峠の山道ではありませんが、富士山の噴火でできた溶岩石が道の左右に寄せられており、なんとなく家康らの苦心の跡が偲ばれる気もしてきませんか?
中道往還を歩いていると、明らかに人工的に積まれた石積みの痕跡がチラホラと目につくようになります。
これなどはまるで、枡形虎口のよう・・・。
そして、綺麗に積まれた石塁に囲われた空間も。
なんのために築かれた石塁かは不明ですが、溶岩の石材が苔生して、これがまたいい雰囲気を醸し出していました。
本栖城の麓まで達したところで登城口へ向かう前に一旦、城山の尾根南麓沿いに西へ進んでみます。
すると・・・
今度は城山の斜面から遊歩道を跨ぐようにして伸び、遊歩道を跨いだ先で奥(西)へ向かって直角に折れている石塁が出てきました。
写真は直角に折れた石塁の内側(城山側)部分。積み方がまるで雁木のようです。
石塁は遊歩道上で一旦切れており、まるで山麓居館区域への虎口といった風情でした。
もう少し西へ進むと・・・
またまた長く伸びる石塁と遭遇。
この石塁、写真の奥の方で斜面を少し登った後、緩やかに左へカーブして更に先まで続いていたようです。
斜面を登る石積み。
その全てを辿ることはできませんが、或いは一つ前に見た、雁木状の石積みを伴う直角に折れる石塁の辺りまで続いていたのかもしれません。
両石塁の間にも、更に区画を細かく仕切るかのような石塁の痕跡らしきもの(樹海には溶岩でできた岩がそこかしこにゴロゴロと転がっており、遺構か否かを見分けるのも難しいのですが)が見受けられたので、やはり屋敷地のような、本栖城に付随した関連施設の跡なのではないかと思いました。
それではいよいよ、本栖城を攻めます。
尾根に上がって西へ進むと、最初に4本の連続堀切が出迎えてくれます。
同行者が立っている辺りに2本目、そのすぐ先にも3本目が見えているのですが・・・写真ではさすがに分かりませんよね(^_^;)
確かに、そのまま竪堀として落とされてもいたようですが・・・表示するなら、まずは「堀切」でしょう(笑)
堀切を越えた先から振り返る・・・。
主郭への登り口の脇についていた石積み。
ここでもやはり、富士の溶岩が用いられていたようです。
本栖城主郭
本栖城は、烏帽子岳からの尾根が青木ヶ原樹海にせり出した先端付近に築かれていました。
この城山の麓を、尾根を取り巻くようにして中道往還の旧道が通っているので、街道を押さえて甲駿国境防備のために築かれた城であったろうと考えられています。
甲州征伐~天正壬午の乱が勃発する天正10年(1582)の頃には、「甲斐国志」で江岸寺の開基とされている渡辺因獄祐が在城していたようです。
主郭南面の石積み。
主郭西側の、一段下った曲輪から見る主郭方向。
ここでも石積みの石列が確認できました。
主郭西下の曲輪にあった櫓台のような遺構。案内板には「のろし台」とありました。
この先には・・・
ザックリと尾根を断ち切る、深い堀切が口を開けていました。
この先にも堀切が何本か連続しているらしいのですが、かなり足元が危うかったので、我々は撤退しました。
下山後は一旦国道139号に出て尾根の北側へ回り、再び樹海の中へと伸びていく中道往還の旧道を歩きます。
旧街道の遺構としては、尾根北側の方がより綺麗に、しっかりと残っていたように思います。
この道をしばらく歩いていくと・・・
これまでで一番規模の大きな石塁が視界に入ってきました。
中道往還とは直角に接する方向へ伸びています。写真には写っていませんが、手前側には枡形のような、ほぼ正方形に石塁で囲まれた空間も付随していました。
石塁の反対側へ回り込むと、かなりハッキリとした階段状に積まれていました。
中道往還の旧道が利用されていた昭和の初期頃まで、ここには「信玄築石」と墨書された木製の標柱が立っていたそうです。
本当にこれが信玄の築いた(築かせた)石塁か否かはともかくとして、やはり何らかの形で本栖城に関連していた遺構と考えておくのが無難、といったところでしょうか。
信玄築石の先へと続く中道往還。
ここから4~5分も歩くと、中道往還は再び国道139号に出ました。
この後は昼食休憩を挟み、本栖湖の周囲を一周して景観も楽しんでから、信長が凱旋旅の初日に泊った右左口へ向かいます。
現在の千円札の裏側と同じアングルからの本栖湖・・・富士山が消えちゃってるけど(^_^;)
同行のメンバーと本栖湖で集合し、まずは青木ヶ原樹海に残る中道往還の旧道を歩きつつ、本栖城跡へ向かいます。
本栖湖近くに建つ江岸寺。
天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への凱旋の途につく織田信長は、4月10日に甲府を発ち、右左口を経て11日には本栖に入っています。(参考記事「織田信長の凱旋旅」)
典拠が定かではないのですが、この時の本栖での信長の滞在先が、この江岸寺だったとの説もあるようです。(但し、家康は本栖でも一夜のためにわざわざ御座所を作らせているので、江岸寺に泊まったのが事実としても、“寺域内に建てた御座所に泊った”となるのでしょうが)
伝承では戦国期、甲斐武田氏も甲駿国境防備のため、江岸寺に武器を備えて将兵の詰所にしていたとも云われていますが、幕末の慶応4年(1868)に書かれた寺記では、開山を慶長7年(1602)としているそうです。
そうなると武田氏の軍事拠点説は無論のこと、信長の宿泊もなかったことになるのですが・・・「甲斐国志」では開基を本栖の土豪で、1591年には没している渡辺因獄祐としていて、定かなことはわかりません。
また、創建当初は更に湖の畔に近い場所(まさに江の岸)に建てられていましたが、安永年間(1772~78)になって現在地に移されています。
さて、それでは某廃校前から青木ヶ原樹海に入り、中道往還の旧道を歩いて本栖城方面へと向かいます。
中道往還の起源は古代にまで遡るとも云われ、甲斐と駿河を最短距離で結んでいました。甲駿両国を結ぶ3本の主要な街道の中央に位置することから、「中道」の名で呼ばれました。
「信長公記」の記述を追う限り、織田信長も甲府から富士宮へと抜ける際に間違いなく中道往還を通っています。
樹海の中を進む中道往還。
「信長公記」には徳川家康が信長一行の往来のため、大木を切り伏せたり、石をどかすなどして右左口から本栖へと至る峠の山道を整備した様子が記されています。
ここはその峠の山道ではありませんが、富士山の噴火でできた溶岩石が道の左右に寄せられており、なんとなく家康らの苦心の跡が偲ばれる気もしてきませんか?
中道往還を歩いていると、明らかに人工的に積まれた石積みの痕跡がチラホラと目につくようになります。
これなどはまるで、枡形虎口のよう・・・。
そして、綺麗に積まれた石塁に囲われた空間も。
なんのために築かれた石塁かは不明ですが、溶岩の石材が苔生して、これがまたいい雰囲気を醸し出していました。
本栖城の麓まで達したところで登城口へ向かう前に一旦、城山の尾根南麓沿いに西へ進んでみます。
すると・・・
今度は城山の斜面から遊歩道を跨ぐようにして伸び、遊歩道を跨いだ先で奥(西)へ向かって直角に折れている石塁が出てきました。
写真は直角に折れた石塁の内側(城山側)部分。積み方がまるで雁木のようです。
石塁は遊歩道上で一旦切れており、まるで山麓居館区域への虎口といった風情でした。
もう少し西へ進むと・・・
またまた長く伸びる石塁と遭遇。
この石塁、写真の奥の方で斜面を少し登った後、緩やかに左へカーブして更に先まで続いていたようです。
斜面を登る石積み。
その全てを辿ることはできませんが、或いは一つ前に見た、雁木状の石積みを伴う直角に折れる石塁の辺りまで続いていたのかもしれません。
両石塁の間にも、更に区画を細かく仕切るかのような石塁の痕跡らしきもの(樹海には溶岩でできた岩がそこかしこにゴロゴロと転がっており、遺構か否かを見分けるのも難しいのですが)が見受けられたので、やはり屋敷地のような、本栖城に付随した関連施設の跡なのではないかと思いました。
それではいよいよ、本栖城を攻めます。
尾根に上がって西へ進むと、最初に4本の連続堀切が出迎えてくれます。
同行者が立っている辺りに2本目、そのすぐ先にも3本目が見えているのですが・・・写真ではさすがに分かりませんよね(^_^;)
確かに、そのまま竪堀として落とされてもいたようですが・・・表示するなら、まずは「堀切」でしょう(笑)
堀切を越えた先から振り返る・・・。
主郭への登り口の脇についていた石積み。
ここでもやはり、富士の溶岩が用いられていたようです。
本栖城主郭
本栖城は、烏帽子岳からの尾根が青木ヶ原樹海にせり出した先端付近に築かれていました。
この城山の麓を、尾根を取り巻くようにして中道往還の旧道が通っているので、街道を押さえて甲駿国境防備のために築かれた城であったろうと考えられています。
甲州征伐~天正壬午の乱が勃発する天正10年(1582)の頃には、「甲斐国志」で江岸寺の開基とされている渡辺因獄祐が在城していたようです。
主郭南面の石積み。
主郭西側の、一段下った曲輪から見る主郭方向。
ここでも石積みの石列が確認できました。
主郭西下の曲輪にあった櫓台のような遺構。案内板には「のろし台」とありました。
この先には・・・
ザックリと尾根を断ち切る、深い堀切が口を開けていました。
この先にも堀切が何本か連続しているらしいのですが、かなり足元が危うかったので、我々は撤退しました。
下山後は一旦国道139号に出て尾根の北側へ回り、再び樹海の中へと伸びていく中道往還の旧道を歩きます。
旧街道の遺構としては、尾根北側の方がより綺麗に、しっかりと残っていたように思います。
この道をしばらく歩いていくと・・・
これまでで一番規模の大きな石塁が視界に入ってきました。
中道往還とは直角に接する方向へ伸びています。写真には写っていませんが、手前側には枡形のような、ほぼ正方形に石塁で囲まれた空間も付随していました。
石塁の反対側へ回り込むと、かなりハッキリとした階段状に積まれていました。
中道往還の旧道が利用されていた昭和の初期頃まで、ここには「信玄築石」と墨書された木製の標柱が立っていたそうです。
本当にこれが信玄の築いた(築かせた)石塁か否かはともかくとして、やはり何らかの形で本栖城に関連していた遺構と考えておくのが無難、といったところでしょうか。
信玄築石の先へと続く中道往還。
ここから4~5分も歩くと、中道往還は再び国道139号に出ました。
この後は昼食休憩を挟み、本栖湖の周囲を一周して景観も楽しんでから、信長が凱旋旅の初日に泊った右左口へ向かいます。
現在の千円札の裏側と同じアングルからの本栖湖・・・富士山が消えちゃってるけど(^_^;)
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