革籠原防塁跡
10月6~8日の3日間、家族と共に福島(会津~いわき)への旅に出かけてきました。

初日、まずは白河ICで高速を下り、情報収集のため福島県立文化財センター白河館“まほろん”に立ち寄ってから・・・
(学芸員の方には親切に、いろいろと教えていただきました。ありがとうございました)

まほろんのすぐ南側にある、革籠原防塁跡へ。

遺構西側の、南北に伸びる土塁と堀。
写真は南側から北方向を見た様子で、この土塁と堀は奥の杉並木に沿って写真右方向(東)へ折れています。

その東へ折れるポイント。
数年前にかなり大規模な伐採が行われたらしく、予め写真などで目にしていた姿からはすっかり様変わりしていました。
変に日当たりが良くなったために、かえって雑草が増えてしまったような・・・。

東へと伸びる土塁と堀。
外側(左)にも堀らしき痕跡が浅く残っており、辛うじて二重に築かれていた名残を留めています。

堀底から。

東側から西の方角を振り返る。
この写真の方が、二重になっていた様子がわかり易いですね。伐採は残念ですが、なかなか見応えのある遺構であることは確かです。
二重に築かれた土塁の形状や堀幅が、向羽黒山城など上杉家が築いた他の城塁と合致する点が多いことから、これを慶長5年(1600)の徳川家康率いる会津征伐軍に備えた上杉家の防塁=革籠原防塁の跡としているようです。
しかし、江戸期の地誌類には「鍛冶屋敷」とも記されています。

初日、まずは白河ICで高速を下り、情報収集のため福島県立文化財センター白河館“まほろん”に立ち寄ってから・・・
(学芸員の方には親切に、いろいろと教えていただきました。ありがとうございました)

まほろんのすぐ南側にある、革籠原防塁跡へ。

遺構西側の、南北に伸びる土塁と堀。
写真は南側から北方向を見た様子で、この土塁と堀は奥の杉並木に沿って写真右方向(東)へ折れています。

その東へ折れるポイント。
数年前にかなり大規模な伐採が行われたらしく、予め写真などで目にしていた姿からはすっかり様変わりしていました。
変に日当たりが良くなったために、かえって雑草が増えてしまったような・・・。

東へと伸びる土塁と堀。
外側(左)にも堀らしき痕跡が浅く残っており、辛うじて二重に築かれていた名残を留めています。

堀底から。

東側から西の方角を振り返る。
この写真の方が、二重になっていた様子がわかり易いですね。伐採は残念ですが、なかなか見応えのある遺構であることは確かです。
二重に築かれた土塁の形状や堀幅が、向羽黒山城など上杉家が築いた他の城塁と合致する点が多いことから、これを慶長5年(1600)の徳川家康率いる会津征伐軍に備えた上杉家の防塁=革籠原防塁の跡としているようです。
しかし、江戸期の地誌類には「鍛冶屋敷」とも記されています。
そして私自身、残された遺構が少ないというのもありますが、周辺の地形を見渡して立地を考えた時に、なんだかスッキリしないものを感じました。
そして、これはまほろんで教えていただいたのですが・・・

革籠原防塁跡から西(やや北西寄り)の方角には、石阿弥陀の一里塚があります。
周辺の発掘調査の結果、塚の間を中世~慶長期の奥州街道(奥州街道は江戸時代に入り、白河へ入封した丹羽氏によって付け替えられたと考えられるそうです)と推定される道が通っていたことが判明しています。
この道路遺構は、革籠原防塁跡とされている土塁や堀とほぼ平行するようにして通っていました。
そして、これはまほろんで教えていただいたのですが・・・

革籠原防塁跡から西(やや北西寄り)の方角には、石阿弥陀の一里塚があります。
周辺の発掘調査の結果、塚の間を中世~慶長期の奥州街道(奥州街道は江戸時代に入り、白河へ入封した丹羽氏によって付け替えられたと考えられるそうです)と推定される道が通っていたことが判明しています。
この道路遺構は、革籠原防塁跡とされている土塁や堀とほぼ平行するようにして通っていました。
一里塚付近からは中世の宿場町(芳野宿)の痕跡も出土していることから、この道路遺構が主要な幹線道路の一つであったことは確かです。
敵の進軍を止めるための防塁であるならば、むしろ街道と交錯していて然るべきではないでしょうか。
そもそも、上杉家が徳川家康率いる上方の軍勢を迎え撃つにあたり、白河を決戦の地と定め、「革籠原」に大防衛線を布いたとする説の根拠も、「東国太平記」や「白河口戦闘配備之図」といった江戸期に成立した軍記や、それを元に作成されたと考えられる図面に拠っているようで、実際には景勝や、兼続すらも白河には赴いていません。
無論、白河は上杉領への玄関口でもあり、重要な防衛拠点であったことに疑問の余地はありません。それなりに防衛拠点を構築してはいたでしょうが、長さ数kmにも及んだという防塁が本当に存在して、それもこの場所に築かれていたのかとなると、その根拠にはまだ疑問符がつくような気がします。
現時点でこの遺構を上杉家の築いた防塁跡と見るには、少々難があるのではないかと考えます。
さて、この後は下郷を経由して国道121号を北上しつつ、会津を目指すこととします。
敵の進軍を止めるための防塁であるならば、むしろ街道と交錯していて然るべきではないでしょうか。
そもそも、上杉家が徳川家康率いる上方の軍勢を迎え撃つにあたり、白河を決戦の地と定め、「革籠原」に大防衛線を布いたとする説の根拠も、「東国太平記」や「白河口戦闘配備之図」といった江戸期に成立した軍記や、それを元に作成されたと考えられる図面に拠っているようで、実際には景勝や、兼続すらも白河には赴いていません。
無論、白河は上杉領への玄関口でもあり、重要な防衛拠点であったことに疑問の余地はありません。それなりに防衛拠点を構築してはいたでしょうが、長さ数kmにも及んだという防塁が本当に存在して、それもこの場所に築かれていたのかとなると、その根拠にはまだ疑問符がつくような気がします。
現時点でこの遺構を上杉家の築いた防塁跡と見るには、少々難があるのではないかと考えます。
さて、この後は下郷を経由して国道121号を北上しつつ、会津を目指すこととします。
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