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2018年10月23日 (火)

中道往還と右左口

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真っすぐに伸びる中道往還と、右左口宿の町並み。

四月十日、信長公、東国の儀仰せ付けられ、甲府を御立ちなさる。爰に、笛吹川とて善光寺より流れ出づる川あり。橋を懸げおき、かち人渡し申し、御馬共乗りこさせられ、うば口に至りて御陣取り。家康公御念を入れられ、路次通り鉄炮長竹木を皆道ひろゞと作り、左右にひしと透間なく警固を置かれ、石を退かせ、水をそゝぎ、御陣屋丈夫に御普請申し付け、
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より抜粋。以下引用同)

甲州征伐を終え、安土への凱旋の途についた織田信長は天正10年(1582)4月10日、甲府を発ってこの右左口(うばぐち)に入りました。(参考記事「織田信長の凱旋旅」
上に引用した「信長公記」の記述を見ても、信長一行の往来のために徳川家康が心を砕き、陣屋や道、つまりこの中道往還の整備に励んだ様子が伺えます。

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右左口宿に建つ敬泉寺。
慶長10年(1605)の創建と伝わりますが、天正10年(1582)に家康が甲斐へ入国した際、寺中に家康や諸士の滞在のための仮屋を建てたとの記録もあり、実際の創建時期は更に遡るとの説もあるとのことです。
現在の堂宇は1700年代前期に再建されたもので、創建当初から現存する観音堂には、平安時代の作と考えられる十一面観音立像が安置されています。

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敬泉寺前に建つ宝蔵倉。
徳川家康との結びつきを示すように、この蔵には家康の朱印状も保管されていました。
(現在は県立博物館に寄託)

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左上の赤い屋根が観音堂で、右手前は東照神君御殿場跡。

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東照神君御殿場
天正10年、本能寺の変で信長が斃れると甲斐国では一揆が勃発し、甲斐を預けられていた河尻秀隆も殺害されました。
この混乱を収め、甲斐の掌握に乗り出した家康は同年7月に甲府へ入りますが、その道中には中道往還を通って右左口にも数日間滞在しています。
東照神君御殿場跡は、その時の家康滞在の仮屋跡とされている場所です。
※なお、甲府へ向かう家康を本栖の辺りで案内したのは、やはり渡辺因獄祐だったようです。(前記事参照)

織田信長が甲府からの帰路で右左口に宿泊したのは、その僅かに3ヶ月ほど前。そして、その時の信長のための御陣屋を準備させたのも家康・・・そう考えると、この東照神君御殿場跡が即ち、織田信長宿泊の地でもあったのではないかと考えたくなります。

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観音堂
秘仏の十一面観音の御開帳は、なんと33年に1度なのだそうです。
高台にあることから、家康の滞在時には見張りの兵が置かれていたとの伝承もあるようです。

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敬泉寺から中道往還を少し南へ進むと、小さな分岐点がありました。
中道往還は右へ進むのですが、その足元には・・・

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古い道標があります。
左 山道
右 駿河

信長もここを右へ進み、駿河(富士宮)へ向かいました。

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中道往還、迦葉坂の登り口。
迦葉は「かしょう」と読み、昔より柏尾坂とも呼ばれてきました。

四月十一日、払暁に、うぱ口より女坂高山御上りなされ、谷合ひに、御茶屋、御厩結構に構へて、一献進上申さるゝ。かしは坂、是れ又、高山にて茂りたる事、大形ならず。左右の大木を伏せられ、道を作り、石を退かさせ、山ゝ嶺ゝ、透間なく御警固を置かる。かしは坂の峠に御茶屋美々しく立て置き、一献進上侯なり。其の日は、もとすに至りて、御陣を移され、

4月11日の明け方、右左口を出立した信長一行は女坂かしは坂を越えて本栖へ向かったとあります。
「信長公記」にあるかしは坂は、この迦葉坂を指しているのではないかと思います。

なお女坂の方は、本栖までの道中にもう一つ越えなければならない阿難坂を指しているものと思われます。実際、阿難坂は昔から女坂とも呼ばれてきたそうです・・・が、一つ大きな疑問も。
「公記」を読む限り、あたかも女坂かしは坂の順で通行したように書かれていますが、上の写真の通り、右左口から本栖へ向かう際に最初に迎える坂は迦葉坂であり、阿難坂は迦葉坂で右左口峠を越え、一旦甲府市小関町周辺の集落へ下りた後に迎える2つ目の坂(峠)です。阿難坂を越えると精進湖に出て、その先は本栖に至るまで特に目立った坂(峠)もありません。

かしは坂=迦葉坂とすると、どうしても「公記」の記述に矛盾が生じてしまうのですが、これは太田牛一の記憶違いか、記録ミスによる誤記ではないかと考えています。
むしろそれよりも、現地に立って迦葉坂の細い坂道を目にした時、これほど細かな地名まで書き漏らすことなく綴っている牛一に、改めて凄みのようなものを感じました。

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迦葉坂の登り口から、凱旋旅の出発地・甲府の街並みを眺め渡す。
信長も右左口を出立する朝、こうして甲府の町並みを振り仰いだのでしょうか。


さて、初日の行程はこれにて終了です。
ワイナリーに立ち寄ったり、喫茶店で休憩した後は甲府駅前の宿にチェックインし、夜は楽しく飲みました。
2日めは勝沼の大善寺からスタートします。

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