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2018年11月28日 (水)

小牧山城発掘調査現地説明会(H.30,11,18)

旅の2日目は、浜松から愛知県小牧市へ移動。

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小牧山城の発掘調査現地説明会(以下「現説」)に参加してきました。

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“小牧山城のおんな城主”こと、小野さんによる説明。

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今回の発掘調査で出土した天目茶碗に青磁碗。

この日集まった人数は600人近く。
最初に配られた資料に記載される整理番号順に、30名ずつ呼ばれての見学となりました。
私は88番でしたので、比較的早い3番目のグループ。

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さ、それでは実際に発掘現場を見ていきます。
今回の発掘現場は、本丸から2段下がった南側の曲輪部です。

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丸礫が敷き詰められた地表面。建物礎石らしきものも混じっています。
こうした玉石を敷き詰めた遺構には遊興性も感じられ、事例からも城主や、それに近しい人物に限られた施設に多く見られるそうです。

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建物礎石群
当初の報道発表では礎石の並びから、ここに2つの建物が建っていたのではないか、と推定されていましたが、現説の2日前に新たな礎石が確認され、これらの礎石は同一の建物に付随したものとの見方も出てきているようです。
そして、小牧山の山頂部の曲輪から建物礎石が出土したのは、実にこれが初めてのことになります。
天目茶碗もここから出土したようです。

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斜面(切岸)の下半分は自然の岩盤を鋭角に切り落として壁面とし、その上部には石垣が積まれていました。一部、小牧山では産出しない花崗岩も混じっています。
石垣の現存高は0.8mで、裏込石の残存状況から、実際には1.6m程あったと推定されています。本丸下から検出している3段目の石垣列(北側)の延長上にあたるようです。

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下半分の岩盤面と上半分の石垣面にはズレも見られ、石垣の方が少し奥に引っ込んでいるように見受けられました。
この点を質問してみたところ、積んだ石垣を安定させるために少しセットバックさせていたのではないか、とのことでした。面を揃えて積む技術がまだなかった、とも言えそうですね。
また、岩盤の上の面は平に加工されており(このような加工を「地業」というそうです)、やはり石垣を安定させる工夫が見られるそうです。
硬い岩盤のお陰で石垣が重みで沈むこともなく、こうして長い年月を経ても地中で残っていてくれたのかもしれません。

※小牧山の山頂部の地質はほぼチャートの岩盤層から成っており、ために曲輪面の削平や切岸も全て、この岩盤を掘削して造成されているそうです。

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信長が小牧山に在城した永禄期の地表面。
450年の年月を物語る深さです。

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岩盤の地面をくり抜いて掘られた土坑も2基、出土しています。
中からは大量の礫(転落した石垣石材?)に交じって戦国期の遺物が出土しているとか・・・わざわざ硬い岩盤をくり抜いてまで、一体何のために用いたのか・・・謎です。

見学を終えての感想としては;

・丸礫を敷き詰めた遺構
・周辺から出土した天目茶碗や青磁碗
・城主クラスの居住空間としては、少々手狭なスペース(削平地)
・山頂部の主郭から少し下って大手ルートからも逸れ、戦略上の敵対方向(北方)に対しては背後にあたる位置関係

これらの要素から、茶室のような遊興性を内包した建物の存在を意識させられます。
この曲輪はどことなく、後に秀吉が大坂城などに築いた「山里曲輪」の原型のような性質のものだったのではないかなぁと感じました。
いずれにしても、信長のプライベート性の高い空間であったことは確かだろうと思います。

発掘現場の見学を終えた後は、小野さんを囲んでの質問タイム。
皆さんそれぞれ、遺構や遺物、歴史に興味津々といった様子でした。

こうした現説に参加できたのは、実はこれが初めてでした。
現説は報道発表から開催までの日が浅いことが多く、関東に住んでいると信長に関連した史跡の現説に駆けつけるのは、調整も間に合わなくてなかなか難しいのです。
それだけに、今回は個人的にもとても有意義な時間になりました。

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