2018年11月
2018年11月30日 (金)
2018年11月29日 (木)
一色山城、大留城、新居城
小牧山城の現説の後は、瀬戸市曽野町の一色山城跡へ。
「定光寺ほたるの里」入口から県道207号を北へ約400m、道路脇の斜面を登り、少し開けた尾根筋を南へしばらく進むと・・・

切り立った切岸に行き当たります。
ここから先、尾根に沿って南へ城域が続くようです。
一色山城の築城時期は定かではありませんが、この城には興味深いエピソードが残されています。
天文3年(1534/織田信長の生年でもある)、一色山城主・磯村左近は感応寺(同市水北町)で住職と碁を打っていたところ、留守の城を品野(秋葉)城の松平家重、落合城の戸田家光らに攻められます。
ところが左近は、敵襲来の報を受けても泰然と碁を打ち続け、対局が終わってから戦場へ駆けつけて討死したとか。
「磯村左近」は織田信長にも仕えたとされますが、前述のように年代が合わないので、信長の家臣となったのは戦死した一色山城主の子息、ということになるのでしょうか。

切岸上の曲輪跡。
こうした曲輪が3つほど縦に連なる城跡です。

堀切
写真左端には土橋(少し崩れていました)があります。

堀切の底から土橋。
他に虎口らしき窪みや櫓台のような土盛り、西側には腰曲輪もありましたが、兵を100人も入れたら満杯になりそうな程の、とても小さな城跡でした。
お次は春日井市大留の大留城跡。
天正12年(1584)の小牧長久手合戦の際、秀吉方の池田恒興が入って軍議を開いたとされています。
その翌日に恒興は戦死するのですが、大留城主・村瀬作左衛門も討死し、大留城は廃城になったと云います。

現在は子安神明社になっており、境内には城址碑が建っていました。
本殿裏手に空堀の跡が残る、との情報があったので覗いてみたのですが・・・

神明社周辺は急速に開発が進んでいるようで、付近の造成の影響ですっかり改変されていました。

旅のラストは尾張旭市の新居城跡。
本丸や二の丸を二重の土塁が囲むお城だったようです。

本丸を囲む一重目の土塁。
公園化されている割には、そこそこ良好な残存状況に思えました。

一段下って二重目の土塁(右の小さな盛り上がり)と、左に先ほどの一重目の土塁。
従って、この2つの土塁に挟まれた園路部分は横堀、ということになるでしょうか。

新居城跡には「旭城」という天守閣風の建物が建っていますが、本来のお城とは関係のない建造物です。

今回の旅も、同行のフォロワーさんたちのお陰で満喫しました。
次は・・・どこへ出没しましょうか?
「定光寺ほたるの里」入口から県道207号を北へ約400m、道路脇の斜面を登り、少し開けた尾根筋を南へしばらく進むと・・・

切り立った切岸に行き当たります。
ここから先、尾根に沿って南へ城域が続くようです。
一色山城の築城時期は定かではありませんが、この城には興味深いエピソードが残されています。
天文3年(1534/織田信長の生年でもある)、一色山城主・磯村左近は感応寺(同市水北町)で住職と碁を打っていたところ、留守の城を品野(秋葉)城の松平家重、落合城の戸田家光らに攻められます。
ところが左近は、敵襲来の報を受けても泰然と碁を打ち続け、対局が終わってから戦場へ駆けつけて討死したとか。
「磯村左近」は織田信長にも仕えたとされますが、前述のように年代が合わないので、信長の家臣となったのは戦死した一色山城主の子息、ということになるのでしょうか。

切岸上の曲輪跡。
こうした曲輪が3つほど縦に連なる城跡です。

堀切
写真左端には土橋(少し崩れていました)があります。

堀切の底から土橋。
他に虎口らしき窪みや櫓台のような土盛り、西側には腰曲輪もありましたが、兵を100人も入れたら満杯になりそうな程の、とても小さな城跡でした。
お次は春日井市大留の大留城跡。
天正12年(1584)の小牧長久手合戦の際、秀吉方の池田恒興が入って軍議を開いたとされています。
その翌日に恒興は戦死するのですが、大留城主・村瀬作左衛門も討死し、大留城は廃城になったと云います。

現在は子安神明社になっており、境内には城址碑が建っていました。
本殿裏手に空堀の跡が残る、との情報があったので覗いてみたのですが・・・

神明社周辺は急速に開発が進んでいるようで、付近の造成の影響ですっかり改変されていました。

旅のラストは尾張旭市の新居城跡。
本丸や二の丸を二重の土塁が囲むお城だったようです。

本丸を囲む一重目の土塁。
公園化されている割には、そこそこ良好な残存状況に思えました。

一段下って二重目の土塁(右の小さな盛り上がり)と、左に先ほどの一重目の土塁。
従って、この2つの土塁に挟まれた園路部分は横堀、ということになるでしょうか。

新居城跡には「旭城」という天守閣風の建物が建っていますが、本来のお城とは関係のない建造物です。

今回の旅も、同行のフォロワーさんたちのお陰で満喫しました。
次は・・・どこへ出没しましょうか?
2018年11月28日 (水)
小牧山城発掘調査現地説明会(H.30,11,18)
旅の2日目は、浜松から愛知県小牧市へ移動。

小牧山城の発掘調査現地説明会(以下「現説」)に参加してきました。

“小牧山城のおんな城主”こと、小野さんによる説明。

今回の発掘調査で出土した天目茶碗に青磁碗。
この日集まった人数は600人近く。
最初に配られた資料に記載される整理番号順に、30名ずつ呼ばれての見学となりました。
私は88番でしたので、比較的早い3番目のグループ。

さ、それでは実際に発掘現場を見ていきます。
今回の発掘現場は、本丸から2段下がった南側の曲輪部です。

丸礫が敷き詰められた地表面。建物礎石らしきものも混じっています。
こうした玉石を敷き詰めた遺構には遊興性も感じられ、事例からも城主や、それに近しい人物に限られた施設に多く見られるそうです。

建物礎石群
当初の報道発表では礎石の並びから、ここに2つの建物が建っていたのではないか、と推定されていましたが、現説の2日前に新たな礎石が確認され、これらの礎石は同一の建物に付随したものとの見方も出てきているようです。
そして、小牧山の山頂部の曲輪から建物礎石が出土したのは、実にこれが初めてのことになります。
天目茶碗もここから出土したようです。

斜面(切岸)の下半分は自然の岩盤を鋭角に切り落として壁面とし、その上部には石垣が積まれていました。一部、小牧山では産出しない花崗岩も混じっています。
石垣の現存高は0.8mで、裏込石の残存状況から、実際には1.6m程あったと推定されています。本丸下から検出している3段目の石垣列(北側)の延長上にあたるようです。

下半分の岩盤面と上半分の石垣面にはズレも見られ、石垣の方が少し奥に引っ込んでいるように見受けられました。
この点を質問してみたところ、積んだ石垣を安定させるために少しセットバックさせていたのではないか、とのことでした。面を揃えて積む技術がまだなかった、とも言えそうですね。
また、岩盤の上の面は平に加工されており(このような加工を「地業」というそうです)、やはり石垣を安定させる工夫が見られるそうです。
硬い岩盤のお陰で石垣が重みで沈むこともなく、こうして長い年月を経ても地中で残っていてくれたのかもしれません。
※小牧山の山頂部の地質はほぼチャートの岩盤層から成っており、ために曲輪面の削平や切岸も全て、この岩盤を掘削して造成されているそうです。

信長が小牧山に在城した永禄期の地表面。
450年の年月を物語る深さです。

岩盤の地面をくり抜いて掘られた土坑も2基、出土しています。
中からは大量の礫(転落した石垣石材?)に交じって戦国期の遺物が出土しているとか・・・わざわざ硬い岩盤をくり抜いてまで、一体何のために用いたのか・・・謎です。
見学を終えての感想としては;
・丸礫を敷き詰めた遺構
・周辺から出土した天目茶碗や青磁碗
・城主クラスの居住空間としては、少々手狭なスペース(削平地)
・山頂部の主郭から少し下って大手ルートからも逸れ、戦略上の敵対方向(北方)に対しては背後にあたる位置関係
これらの要素から、茶室のような遊興性を内包した建物の存在を意識させられます。
この曲輪はどことなく、後に秀吉が大坂城などに築いた「山里曲輪」の原型のような性質のものだったのではないかなぁと感じました。
いずれにしても、信長のプライベート性の高い空間であったことは確かだろうと思います。
発掘現場の見学を終えた後は、小野さんを囲んでの質問タイム。
皆さんそれぞれ、遺構や遺物、歴史に興味津々といった様子でした。
こうした現説に参加できたのは、実はこれが初めてでした。
現説は報道発表から開催までの日が浅いことが多く、関東に住んでいると信長に関連した史跡の現説に駆けつけるのは、調整も間に合わなくてなかなか難しいのです。
それだけに、今回は個人的にもとても有意義な時間になりました。

小牧山城の発掘調査現地説明会(以下「現説」)に参加してきました。

“小牧山城のおんな城主”こと、小野さんによる説明。

今回の発掘調査で出土した天目茶碗に青磁碗。
この日集まった人数は600人近く。
最初に配られた資料に記載される整理番号順に、30名ずつ呼ばれての見学となりました。
私は88番でしたので、比較的早い3番目のグループ。

さ、それでは実際に発掘現場を見ていきます。
今回の発掘現場は、本丸から2段下がった南側の曲輪部です。

丸礫が敷き詰められた地表面。建物礎石らしきものも混じっています。
こうした玉石を敷き詰めた遺構には遊興性も感じられ、事例からも城主や、それに近しい人物に限られた施設に多く見られるそうです。

建物礎石群
当初の報道発表では礎石の並びから、ここに2つの建物が建っていたのではないか、と推定されていましたが、現説の2日前に新たな礎石が確認され、これらの礎石は同一の建物に付随したものとの見方も出てきているようです。
そして、小牧山の山頂部の曲輪から建物礎石が出土したのは、実にこれが初めてのことになります。
天目茶碗もここから出土したようです。

斜面(切岸)の下半分は自然の岩盤を鋭角に切り落として壁面とし、その上部には石垣が積まれていました。一部、小牧山では産出しない花崗岩も混じっています。
石垣の現存高は0.8mで、裏込石の残存状況から、実際には1.6m程あったと推定されています。本丸下から検出している3段目の石垣列(北側)の延長上にあたるようです。

下半分の岩盤面と上半分の石垣面にはズレも見られ、石垣の方が少し奥に引っ込んでいるように見受けられました。
この点を質問してみたところ、積んだ石垣を安定させるために少しセットバックさせていたのではないか、とのことでした。面を揃えて積む技術がまだなかった、とも言えそうですね。
また、岩盤の上の面は平に加工されており(このような加工を「地業」というそうです)、やはり石垣を安定させる工夫が見られるそうです。
硬い岩盤のお陰で石垣が重みで沈むこともなく、こうして長い年月を経ても地中で残っていてくれたのかもしれません。
※小牧山の山頂部の地質はほぼチャートの岩盤層から成っており、ために曲輪面の削平や切岸も全て、この岩盤を掘削して造成されているそうです。

信長が小牧山に在城した永禄期の地表面。
450年の年月を物語る深さです。

岩盤の地面をくり抜いて掘られた土坑も2基、出土しています。
中からは大量の礫(転落した石垣石材?)に交じって戦国期の遺物が出土しているとか・・・わざわざ硬い岩盤をくり抜いてまで、一体何のために用いたのか・・・謎です。
見学を終えての感想としては;
・丸礫を敷き詰めた遺構
・周辺から出土した天目茶碗や青磁碗
・城主クラスの居住空間としては、少々手狭なスペース(削平地)
・山頂部の主郭から少し下って大手ルートからも逸れ、戦略上の敵対方向(北方)に対しては背後にあたる位置関係
これらの要素から、茶室のような遊興性を内包した建物の存在を意識させられます。
この曲輪はどことなく、後に秀吉が大坂城などに築いた「山里曲輪」の原型のような性質のものだったのではないかなぁと感じました。
いずれにしても、信長のプライベート性の高い空間であったことは確かだろうと思います。
発掘現場の見学を終えた後は、小野さんを囲んでの質問タイム。
皆さんそれぞれ、遺構や遺物、歴史に興味津々といった様子でした。
こうした現説に参加できたのは、実はこれが初めてでした。
現説は報道発表から開催までの日が浅いことが多く、関東に住んでいると信長に関連した史跡の現説に駆けつけるのは、調整も間に合わなくてなかなか難しいのです。
それだけに、今回は個人的にもとても有意義な時間になりました。
2018年11月27日 (火)
三方原古戦場めぐり
11月17日(土)は三方原古戦場めぐり。
元亀3年12月22日に勃発した三方原の戦い・・・日本史上でも有名な合戦であるにもかかわらず、その経過や詳細については諸説あり、多くの謎が残されています。
私自身も理解と整理が追い付いていないので、今回は合戦の詳細には立ち入らず、「通説」などを元に、訪れた場所を淡々と綴っていくことにします。
同行者たちと浜松城の駐車場で集合した後、まずは三方原台地の縁沿いに北上して欠下城跡へ向かいました。

欠下城跡(大菩薩)
合戦当日、二俣街道を南進してきた武田軍は欠下から三方原台地へ上がり、大菩薩(欠下城か)で陣容を整えたと云います。
主要な曲輪部分は東名高速に分断され、それ以外にも後世の手が入って遺構は全く残っていませんが・・・

南側の雑木林の中には、堀切らしき痕跡が綺麗に残っていました。

東へ向かって真っ直ぐに伸び、そのまま台地の縁へ落ちていたようです。

堀底から見る土橋

土橋の先、東の斜面にはうっすらと畝状竪堀に“見えなくもない”形状が認められましたが・・・単なる崩れでしょうかね。
更には・・・

細い土塁のようなものが真っ直ぐ、南西方向へ向かって伸びていました。
土塁の左側は台地の縁の斜面で、右は明らかに人工的に掘り落とされており、とても細い尾根筋のようになっています。
この土塁、とある工場の敷地まで続いていましたが、その先には大菩薩坂があります。それを踏まえ、この土塁を大菩薩坂から欠下城へのルートとなる城道か?とも考えたのですが・・・地元の伝承によると「大菩薩坂には近代まで、道らしい道は存在していなかった」とされているようなので、そうなると土塁=城へのルート説も成り立たず・・・謎の遺構でした。

欠下城跡の南に位置する、件の大菩薩坂。
武田軍が台地へ上がったルートをこの大菩薩坂とする説もありますが、当時道らしき道がなかったとすると、少なくとも本隊はやはり、古くからのルートとされる欠下坂を登ったものと思われます。

欠下城跡から見る、欠下坂方向の眺め。
中央奥の白い大きな建物の辺りに欠下坂はあります。早速移動して・・・

欠下坂の旧道。
欠下城からは少し北寄りになります。

三方原の台地上をゆく、欠下坂からの旧道。

旧道をしばらく進むと、信玄街道の標柱が建っています。
大菩薩(欠下城)で陣容を整えた武田軍は、再びこの旧道を進み、途中で針路を北へと変えて根洗松~祝田坂の方角へ向かったものと思われます。

三方原墓園の駐車場脇に立つ三方原古戦場碑。
ここからは徒歩で根洗松~祝田坂を目指します。

根洗松
合戦の折、信玄がこの辺りに本陣を布いたとの説もあります。

祝田坂への旧道碑

祝田坂への旧道は、根洗松で国道257号と分離します。

そのまま旧道を進み、台地の縁(奥の林の辺り)が見えてくるといよいよ・・・

祝田の旧坂に到着です。
一説に家康は、武田軍がこの坂を下る背後から襲い掛かろうとしたものの、それを察知した信玄が軍勢を反転させて迎撃した、とも云われる地です。
根洗松を信玄本陣とすると、一応は辻褄の合う位置関係になります。

旧道の雰囲気満点な坂を下る。
今回、三方原合戦関連地を訪れるにあたり、個人的に最も楽しみにしていたポイント・・・実際に歩くことができ、ちょっと感激。

なかなかの狭隘な坂道で、2万をも超える武田の軍勢が下り切るには、相当な時間を要したものと思います。

祝田の旧坂を下った先に鎮座する蜂前神社。
ご存じ、井伊直虎の唯一現存する花押入り書状(井伊直虎関口氏経連署状)を所蔵する神社です。
(浜松市博物館にて保管)
さて、お次は三方原での戦勝後、武田軍が駐屯して越年した刑部方面へと向かいます。

武田軍の駐屯地の一つ、油田地区の丘陵上・・・ひどい逆光。
付近には堀切跡と思われる痕跡もありましたが、逆光でまともに撮影もできませんでした・・・。

刑部城跡
先ほどの油田の丘陵から北東へ、尾根を下った先端部分になります。
写真手前の平坦地には「館跡」の案内板も建っていましたが・・・?

刑部城の堀切

堀切を見下ろす。
同行者が見上げている先に主郭がありますが、さすがに藪が酷かったので立ち入りませんでした。

最後は刑部城跡から1㎞少々南東へ向かった先に建つ、刑部砦の史蹟碑。
背面には甲陽軍鑑からの引用と思われますが、武田軍が刑部に駐屯することになった経緯などが漢文で彫られていました。
武田軍は2万以上もの兵力を有していましたので、こうした陣場や城、砦に分宿していたのではないかと思われます。
さて、これにて今回の三方原古戦場めぐりは終了です。
浜松城へ敗走する家康にまつわる伝承にちなんだ「小豆餅」や「銭取」、 犀ヶ崖古戦場、夏目吉信や平手汎秀の戦死地など、他にもめぐってみたい地はありますが、それはまた次の機会に。

元亀3年12月22日に勃発した三方原の戦い・・・日本史上でも有名な合戦であるにもかかわらず、その経過や詳細については諸説あり、多くの謎が残されています。
私自身も理解と整理が追い付いていないので、今回は合戦の詳細には立ち入らず、「通説」などを元に、訪れた場所を淡々と綴っていくことにします。
同行者たちと浜松城の駐車場で集合した後、まずは三方原台地の縁沿いに北上して欠下城跡へ向かいました。

欠下城跡(大菩薩)
合戦当日、二俣街道を南進してきた武田軍は欠下から三方原台地へ上がり、大菩薩(欠下城か)で陣容を整えたと云います。
主要な曲輪部分は東名高速に分断され、それ以外にも後世の手が入って遺構は全く残っていませんが・・・

南側の雑木林の中には、堀切らしき痕跡が綺麗に残っていました。

東へ向かって真っ直ぐに伸び、そのまま台地の縁へ落ちていたようです。

堀底から見る土橋

土橋の先、東の斜面にはうっすらと畝状竪堀に“見えなくもない”形状が認められましたが・・・単なる崩れでしょうかね。
更には・・・

細い土塁のようなものが真っ直ぐ、南西方向へ向かって伸びていました。
土塁の左側は台地の縁の斜面で、右は明らかに人工的に掘り落とされており、とても細い尾根筋のようになっています。
この土塁、とある工場の敷地まで続いていましたが、その先には大菩薩坂があります。それを踏まえ、この土塁を大菩薩坂から欠下城へのルートとなる城道か?とも考えたのですが・・・地元の伝承によると「大菩薩坂には近代まで、道らしい道は存在していなかった」とされているようなので、そうなると土塁=城へのルート説も成り立たず・・・謎の遺構でした。

欠下城跡の南に位置する、件の大菩薩坂。
武田軍が台地へ上がったルートをこの大菩薩坂とする説もありますが、当時道らしき道がなかったとすると、少なくとも本隊はやはり、古くからのルートとされる欠下坂を登ったものと思われます。

欠下城跡から見る、欠下坂方向の眺め。
中央奥の白い大きな建物の辺りに欠下坂はあります。早速移動して・・・

欠下坂の旧道。
欠下城からは少し北寄りになります。

三方原の台地上をゆく、欠下坂からの旧道。

旧道をしばらく進むと、信玄街道の標柱が建っています。
大菩薩(欠下城)で陣容を整えた武田軍は、再びこの旧道を進み、途中で針路を北へと変えて根洗松~祝田坂の方角へ向かったものと思われます。

三方原墓園の駐車場脇に立つ三方原古戦場碑。
ここからは徒歩で根洗松~祝田坂を目指します。

根洗松
合戦の折、信玄がこの辺りに本陣を布いたとの説もあります。

祝田坂への旧道碑

祝田坂への旧道は、根洗松で国道257号と分離します。

そのまま旧道を進み、台地の縁(奥の林の辺り)が見えてくるといよいよ・・・

祝田の旧坂に到着です。
一説に家康は、武田軍がこの坂を下る背後から襲い掛かろうとしたものの、それを察知した信玄が軍勢を反転させて迎撃した、とも云われる地です。
根洗松を信玄本陣とすると、一応は辻褄の合う位置関係になります。

旧道の雰囲気満点な坂を下る。
今回、三方原合戦関連地を訪れるにあたり、個人的に最も楽しみにしていたポイント・・・実際に歩くことができ、ちょっと感激。

なかなかの狭隘な坂道で、2万をも超える武田の軍勢が下り切るには、相当な時間を要したものと思います。

祝田の旧坂を下った先に鎮座する蜂前神社。
ご存じ、井伊直虎の唯一現存する花押入り書状(井伊直虎関口氏経連署状)を所蔵する神社です。
(浜松市博物館にて保管)
さて、お次は三方原での戦勝後、武田軍が駐屯して越年した刑部方面へと向かいます。

武田軍の駐屯地の一つ、油田地区の丘陵上・・・ひどい逆光。
付近には堀切跡と思われる痕跡もありましたが、逆光でまともに撮影もできませんでした・・・。

刑部城跡
先ほどの油田の丘陵から北東へ、尾根を下った先端部分になります。
写真手前の平坦地には「館跡」の案内板も建っていましたが・・・?

刑部城の堀切

堀切を見下ろす。
同行者が見上げている先に主郭がありますが、さすがに藪が酷かったので立ち入りませんでした。

最後は刑部城跡から1㎞少々南東へ向かった先に建つ、刑部砦の史蹟碑。
背面には甲陽軍鑑からの引用と思われますが、武田軍が刑部に駐屯することになった経緯などが漢文で彫られていました。
武田軍は2万以上もの兵力を有していましたので、こうした陣場や城、砦に分宿していたのではないかと思われます。
さて、これにて今回の三方原古戦場めぐりは終了です。
浜松城へ敗走する家康にまつわる伝承にちなんだ「小豆餅」や「銭取」、 犀ヶ崖古戦場、夏目吉信や平手汎秀の戦死地など、他にもめぐってみたい地はありますが、それはまた次の機会に。
