三方原古戦場めぐり
11月17日(土)は三方原古戦場めぐり。
元亀3年12月22日に勃発した三方原の戦い・・・日本史上でも有名な合戦であるにもかかわらず、その経過や詳細については諸説あり、多くの謎が残されています。
私自身も理解と整理が追い付いていないので、今回は合戦の詳細には立ち入らず、「通説」などを元に、訪れた場所を淡々と綴っていくことにします。
同行者たちと浜松城の駐車場で集合した後、まずは三方原台地の縁沿いに北上して欠下城跡へ向かいました。

欠下城跡(大菩薩)
合戦当日、二俣街道を南進してきた武田軍は欠下から三方原台地へ上がり、大菩薩(欠下城か)で陣容を整えたと云います。
主要な曲輪部分は東名高速に分断され、それ以外にも後世の手が入って遺構は全く残っていませんが・・・

南側の雑木林の中には、堀切らしき痕跡が綺麗に残っていました。

東へ向かって真っ直ぐに伸び、そのまま台地の縁へ落ちていたようです。

堀底から見る土橋

土橋の先、東の斜面にはうっすらと畝状竪堀に“見えなくもない”形状が認められましたが・・・単なる崩れでしょうかね。
更には・・・

細い土塁のようなものが真っ直ぐ、南西方向へ向かって伸びていました。
土塁の左側は台地の縁の斜面で、右は明らかに人工的に掘り落とされており、とても細い尾根筋のようになっています。
この土塁、とある工場の敷地まで続いていましたが、その先には大菩薩坂があります。それを踏まえ、この土塁を大菩薩坂から欠下城へのルートとなる城道か?とも考えたのですが・・・地元の伝承によると「大菩薩坂には近代まで、道らしい道は存在していなかった」とされているようなので、そうなると土塁=城へのルート説も成り立たず・・・謎の遺構でした。

欠下城跡の南に位置する、件の大菩薩坂。
武田軍が台地へ上がったルートをこの大菩薩坂とする説もありますが、当時道らしき道がなかったとすると、少なくとも本隊はやはり、古くからのルートとされる欠下坂を登ったものと思われます。

欠下城跡から見る、欠下坂方向の眺め。
中央奥の白い大きな建物の辺りに欠下坂はあります。早速移動して・・・

欠下坂の旧道。
欠下城からは少し北寄りになります。

三方原の台地上をゆく、欠下坂からの旧道。

旧道をしばらく進むと、信玄街道の標柱が建っています。
大菩薩(欠下城)で陣容を整えた武田軍は、再びこの旧道を進み、途中で針路を北へと変えて根洗松~祝田坂の方角へ向かったものと思われます。

三方原墓園の駐車場脇に立つ三方原古戦場碑。
ここからは徒歩で根洗松~祝田坂を目指します。

根洗松
合戦の折、信玄がこの辺りに本陣を布いたとの説もあります。

祝田坂への旧道碑

祝田坂への旧道は、根洗松で国道257号と分離します。

そのまま旧道を進み、台地の縁(奥の林の辺り)が見えてくるといよいよ・・・

祝田の旧坂に到着です。
一説に家康は、武田軍がこの坂を下る背後から襲い掛かろうとしたものの、それを察知した信玄が軍勢を反転させて迎撃した、とも云われる地です。
根洗松を信玄本陣とすると、一応は辻褄の合う位置関係になります。

旧道の雰囲気満点な坂を下る。
今回、三方原合戦関連地を訪れるにあたり、個人的に最も楽しみにしていたポイント・・・実際に歩くことができ、ちょっと感激。

なかなかの狭隘な坂道で、2万をも超える武田の軍勢が下り切るには、相当な時間を要したものと思います。

祝田の旧坂を下った先に鎮座する蜂前神社。
ご存じ、井伊直虎の唯一現存する花押入り書状(井伊直虎関口氏経連署状)を所蔵する神社です。
(浜松市博物館にて保管)
さて、お次は三方原での戦勝後、武田軍が駐屯して越年した刑部方面へと向かいます。

武田軍の駐屯地の一つ、油田地区の丘陵上・・・ひどい逆光。
付近には堀切跡と思われる痕跡もありましたが、逆光でまともに撮影もできませんでした・・・。

刑部城跡
先ほどの油田の丘陵から北東へ、尾根を下った先端部分になります。
写真手前の平坦地には「館跡」の案内板も建っていましたが・・・?

刑部城の堀切

堀切を見下ろす。
同行者が見上げている先に主郭がありますが、さすがに藪が酷かったので立ち入りませんでした。

最後は刑部城跡から1㎞少々南東へ向かった先に建つ、刑部砦の史蹟碑。
背面には甲陽軍鑑からの引用と思われますが、武田軍が刑部に駐屯することになった経緯などが漢文で彫られていました。
武田軍は2万以上もの兵力を有していましたので、こうした陣場や城、砦に分宿していたのではないかと思われます。
さて、これにて今回の三方原古戦場めぐりは終了です。
浜松城へ敗走する家康にまつわる伝承にちなんだ「小豆餅」や「銭取」、 犀ヶ崖古戦場、夏目吉信や平手汎秀の戦死地など、他にもめぐってみたい地はありますが、それはまた次の機会に。

元亀3年12月22日に勃発した三方原の戦い・・・日本史上でも有名な合戦であるにもかかわらず、その経過や詳細については諸説あり、多くの謎が残されています。
私自身も理解と整理が追い付いていないので、今回は合戦の詳細には立ち入らず、「通説」などを元に、訪れた場所を淡々と綴っていくことにします。
同行者たちと浜松城の駐車場で集合した後、まずは三方原台地の縁沿いに北上して欠下城跡へ向かいました。

欠下城跡(大菩薩)
合戦当日、二俣街道を南進してきた武田軍は欠下から三方原台地へ上がり、大菩薩(欠下城か)で陣容を整えたと云います。
主要な曲輪部分は東名高速に分断され、それ以外にも後世の手が入って遺構は全く残っていませんが・・・

南側の雑木林の中には、堀切らしき痕跡が綺麗に残っていました。

東へ向かって真っ直ぐに伸び、そのまま台地の縁へ落ちていたようです。

堀底から見る土橋

土橋の先、東の斜面にはうっすらと畝状竪堀に“見えなくもない”形状が認められましたが・・・単なる崩れでしょうかね。
更には・・・

細い土塁のようなものが真っ直ぐ、南西方向へ向かって伸びていました。
土塁の左側は台地の縁の斜面で、右は明らかに人工的に掘り落とされており、とても細い尾根筋のようになっています。
この土塁、とある工場の敷地まで続いていましたが、その先には大菩薩坂があります。それを踏まえ、この土塁を大菩薩坂から欠下城へのルートとなる城道か?とも考えたのですが・・・地元の伝承によると「大菩薩坂には近代まで、道らしい道は存在していなかった」とされているようなので、そうなると土塁=城へのルート説も成り立たず・・・謎の遺構でした。

欠下城跡の南に位置する、件の大菩薩坂。
武田軍が台地へ上がったルートをこの大菩薩坂とする説もありますが、当時道らしき道がなかったとすると、少なくとも本隊はやはり、古くからのルートとされる欠下坂を登ったものと思われます。

欠下城跡から見る、欠下坂方向の眺め。
中央奥の白い大きな建物の辺りに欠下坂はあります。早速移動して・・・

欠下坂の旧道。
欠下城からは少し北寄りになります。

三方原の台地上をゆく、欠下坂からの旧道。

旧道をしばらく進むと、信玄街道の標柱が建っています。
大菩薩(欠下城)で陣容を整えた武田軍は、再びこの旧道を進み、途中で針路を北へと変えて根洗松~祝田坂の方角へ向かったものと思われます。

三方原墓園の駐車場脇に立つ三方原古戦場碑。
ここからは徒歩で根洗松~祝田坂を目指します。

根洗松
合戦の折、信玄がこの辺りに本陣を布いたとの説もあります。

祝田坂への旧道碑

祝田坂への旧道は、根洗松で国道257号と分離します。

そのまま旧道を進み、台地の縁(奥の林の辺り)が見えてくるといよいよ・・・

祝田の旧坂に到着です。
一説に家康は、武田軍がこの坂を下る背後から襲い掛かろうとしたものの、それを察知した信玄が軍勢を反転させて迎撃した、とも云われる地です。
根洗松を信玄本陣とすると、一応は辻褄の合う位置関係になります。

旧道の雰囲気満点な坂を下る。
今回、三方原合戦関連地を訪れるにあたり、個人的に最も楽しみにしていたポイント・・・実際に歩くことができ、ちょっと感激。

なかなかの狭隘な坂道で、2万をも超える武田の軍勢が下り切るには、相当な時間を要したものと思います。

祝田の旧坂を下った先に鎮座する蜂前神社。
ご存じ、井伊直虎の唯一現存する花押入り書状(井伊直虎関口氏経連署状)を所蔵する神社です。
(浜松市博物館にて保管)
さて、お次は三方原での戦勝後、武田軍が駐屯して越年した刑部方面へと向かいます。

武田軍の駐屯地の一つ、油田地区の丘陵上・・・ひどい逆光。
付近には堀切跡と思われる痕跡もありましたが、逆光でまともに撮影もできませんでした・・・。

刑部城跡
先ほどの油田の丘陵から北東へ、尾根を下った先端部分になります。
写真手前の平坦地には「館跡」の案内板も建っていましたが・・・?

刑部城の堀切

堀切を見下ろす。
同行者が見上げている先に主郭がありますが、さすがに藪が酷かったので立ち入りませんでした。

最後は刑部城跡から1㎞少々南東へ向かった先に建つ、刑部砦の史蹟碑。
背面には甲陽軍鑑からの引用と思われますが、武田軍が刑部に駐屯することになった経緯などが漢文で彫られていました。
武田軍は2万以上もの兵力を有していましたので、こうした陣場や城、砦に分宿していたのではないかと思われます。
さて、これにて今回の三方原古戦場めぐりは終了です。
浜松城へ敗走する家康にまつわる伝承にちなんだ「小豆餅」や「銭取」、 犀ヶ崖古戦場、夏目吉信や平手汎秀の戦死地など、他にもめぐってみたい地はありますが、それはまた次の機会に。

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