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2018年12月

2018年12月14日 (金)

壺笠山城、他

城友山城踏査会・忘年会明けの2日目(12月9日)は壺笠山城へ。

九月廿四日、信長公、城都本能寺を御立ちたされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り侯。
(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より)

宇佐山城の記事でも触れましたが、壺笠山城は元亀元年(1570)の志賀の陣に於いて、朝倉・浅井勢が立て籠もった地の一つです。
なお、あほ山は青山で壺笠山のすぐ北峰、はちヶ峰は日吉大社の奥宮が建つ八王子山付近と比定する説もありますが、壺笠山の辺りを通る古くからの白鳥越え(京の一条寺と穴太を結んでいた)のルート上には他にもいくつかの城郭遺構が残り、確かなことはわかりません。

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穴太野添古墳群近くの駐車スペースに車を停め、緩やかな傾斜の続く荒れた林道を西へ約1.5㎞、ダラダラと30分ほど登っていきます。
落石が多いようで、道中の至る所に岩が散乱していました。少々注意を要します。

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趣のある古い橋を渡り・・・

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こちらの分岐点を左手前方向へ進むと・・・

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壺笠山(右)と青山(左)間の林道切通に出ます。
ここを少し進んで壺笠山の北東側へ回り・・・

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目印となるテープが巻かれている箇所から斜面に取り付き、僅かな踏み跡のような山道?を頼りに山頂部を目指します。

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山道分岐点。
何の気なしに歩いていると左へ向かいそうになりますが、左ルートは最終的に斜面直登になってしまうようなので、ここは右に見えている土塁のような高まりを越えた先へ進みます。

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5分ほどで尾根に出ました。
この尾根は白鳥越えのルートとも推定されており、尾根に出て右(西)へ向かった先にも城郭遺構があるらしいのですが、この日は強風注意報も出ていたほどで、山の上では爆風が吹き荒れ、細尾根を渡るのは危険と判断して諦めました。

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反対に、尾根を左(東)へ進むと壺笠山城に至ります。

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いよいよ城域が近付いてきました。
斜面を遮断する竪土塁のようなものが見えます。

壺笠山の山頂には元々前方後円墳が築かれていて、写真手前側が前方部、奥の主郭側が後円部になっていたようです。
竪土塁の先、前方部にはいくつかの削平地が連なっていました。

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主郭を取り巻く腰曲輪の、更に南西下段の斜面にあった石垣。

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僅かではありますが、このような石垣がいくつか散見されました。

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主郭を囲む腰曲輪。

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主郭・・・壺笠山の山頂です。
残念ながら宇佐山城方向はおろか、四方の眺望は全く利きませんでした。

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主郭北東側の虎口。

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北東虎口には、かつては石段だったのでは?と思わせる痕跡も。

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北東虎口を下りた先の腰曲輪。

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その足元の切岸を覗くと、やはり石垣がありましたが・・・どことなく城の遺構には思えないような違和感を覚えました。

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引き続き、腰曲輪下の斜面を反時計回りに西へ回り込み、石垣を捜し歩きました。

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主郭北西虎口下付近にあった石垣。

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主郭北西虎口
こちらは完全に石段の跡ですね。

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壺笠山から青山を見る。
青山にも削平された空間があるようですが、いずれにしても朝倉・浅井合わせて3万とも云う大軍が数ヶ月に渡って駐屯するには、壺笠山も青山もあまりに手狭な感じがします。
太田牛一が信長公記に列挙した三山だけでなく、実際にはもう少し広範に渡って滞陣していたのではないでしょうか。

壺笠山城
・・・確かに朝倉・浅井勢が籠った際に陣城として改修してはいるのでしょうが、各所に残る石垣や虎口の石段までもが陣城に由来するものだったのかとなると、正直なところ釈然とはしません。
そもそも特定の合戦のためだけに築く陣城に、それも元亀元年の段階で石垣を積むものなのか・・・やはり疑問を禁じえません。

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下山後、穴太野添古墳群から望む琵琶湖。

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壺笠山城の後は日吉大社へ。(写真は東本宮)
私にとっては4年ぶりの再訪となりました。

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東本宮に建つ摂社、樹下神社の本殿は文禄4年(1595)の建立。
その床下には全国的にも珍しく・・・

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なんと、霊泉湧き出づる井戸が掘られていました。

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日吉三橋の一つ、走井橋。
他の二橋と同様、豊臣秀吉が天正年間に寄進したものと伝わりますが、元来のものは木橋で、寛文9年(1669)に現在の石橋に架け換えられています。

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志賀の陣の折、朝倉・浅井勢が籠った山の一つとして挙げられているはちヶ峰に比定される八王子山を振り仰ぐ。
奥宮の社殿が小さく見えています。

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お昼に近江ちゃんぽんで冷えた体を温め、今度は近江国一之宮・建部神社に参拝。

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建部神社に安置されていた菊花石・・・どこから見ても本物の菊の花にしか見えませんね。

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頼朝の出世水
源頼朝も伊豆へ流される道中、建部神社にお参りしていたようです。

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瀬田の唐橋

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唐橋近くに建つ龍王宮秀郷社。
竜宮の乙姫と、百足退治の伝説で知られる藤原秀郷(俵藤太)を祀ります。
※百足退治の伝説の真相は、敵の軍勢の列(=たくさんの足が連なる)を百足に擬え、それを瀬田川の要害性を利して撃退した、といったところのようです。

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瀬田城跡碑

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旅の最後は近江国庁跡へ。
付近の住宅街を、旧東海道(写真)が通り抜けています。

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近江国庁(国衙)跡碑

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かなり広範に渡って史跡として整備されているようですが、周辺は道幅も狭い住宅街で、駐車スペースに辿り着けなくて難儀しました。

さて、これにて2018年の遠征も終了です。
今年も多くの仲間に大変お世話になりました。
来年はどのくらい遠征に出られるか・・・いろいろと事情があって現段階では不透明ですが、これからもどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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2018年12月13日 (木)

宇佐山城、聖衆来迎寺、坂本城

12月8日(土)は、年末恒例の城友山城踏査会。2018年の舞台は大津市の宇佐山城跡です。
集合時間直前に発生した人身事故の影響で電車に遅延が生じたものの、午前11時過ぎには大津駅に集合して車3台に分乗、近江神宮から歩き始めました。

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山麓から見上げる宇佐山城跡
白いアンテナ(TV局の中継所)が見えている辺りが主郭になります。

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まずは、宇佐山中腹に建つ宇佐八幡宮の参道を登っていきます。

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宇佐八幡宮の社殿手前辺りから、登城路は本格的な山道に入ります。
これが結構な急勾配で、ハードな登山になりました。

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城山の東側に落とされた大きな竪堀。

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主郭と、その北側に位置する曲輪(以下「北曲輪」)間の鞍部・・・堀切でいいのかな?
まずは写真左手の主郭へ上がってみます。

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宇佐山城主郭
TV局の施設が、曲輪を埋め尽くすように並んでいます。一番奥の建物の先には・・・

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枡形虎口があります。
写真の左手前方向に先ほどの建物があるのですが、その縁の下(?)には・・・

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枡形で折られた導入路の延長線上と思われる位置に、石列が綺麗に並んでいました。

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主郭からの西の眺望。
眼下に山中越えのルートをしっかりと収めています。

宇佐山城は元亀元年(1570)、織田信長の命を受けた森可成によって築かれました。
敵対する朝倉・浅井勢に備え、山中越えや逢坂越えといった京へのルートを押さえるための措置だったと思われます。

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主郭から、一段下がった南の曲輪(以下「南曲輪」)を見下ろす。
主郭の南端に位置する枡形の土塁に沿って、不思議な“溝”がありました。

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反対に南曲輪より主郭方向。
写真で溝の右側が、先ほどの枡形へと続くルートと思われますので、溝は主郭への導入路を限定するための堀、と考えてもいいのかもしれませんが、それならば左側は掘り切ってしまえば良さそうな気がするのですが、現状は縁を残して溜池のようになっています。

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南曲輪東下の腰曲輪に残る石垣。

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こちらは主郭の東下に残る石垣。

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続いて主郭の北東側、三角に張り出した小曲輪に残る石垣。

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同じ石垣を反対側から。

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隅の部分は欠損していました。

宇佐山城は元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後、志賀郡を与えられた明智光秀が坂本城を築いた後に廃城になったとされていますが、これほどの石垣が残っていることから、織田方の軍事施設として引き続き機能していたのではないか、とする見解もあるようです。

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主郭北側の横堀・・・というよりは塹壕?

辛末九月十六日、越前の朝倉・浅井備前、三万ぱかり坂本ロヘ相働くなり。森三左衛門、宇佐山の坂を下々り懸け向かひ、坂本の町はづれにて取り合ひ、纔千の内にて足軽合戦に少々頸を取り、勝利を得。翌日、
九月十九日、浅井・朝倉両手に備へ、又取り懸け侯。町を破らせ侯ては無念と存知られ、相拘へられ侯のところ、大軍両手よりどう(口へんに童)とかゝり来たり、手前に於いて粉骨を尽さると雖も、御敵猛勢にて、相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死。森三左衛門、織田九郎、青地駿河守、尾藤源内、尾藤叉八。
(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より。以下引用同)

元亀元年9月、信長が摂津の野田・福島城攻めに出ている隙を衝き、朝倉・浅井勢が坂本まで南進してきました。いわゆる志賀の陣の始まりです。
宇佐山城将・森可成は坂を駆け下って出撃し、一度は勝利を収めるものの衆寡敵せず、9月19日に再び大軍で押し寄せた朝倉・浅井勢との戦闘で森以下、織田信治ら主だった将兵は枕を並べて討死しました。

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森可成らが坂を駆け下り、朝倉・浅井勢と戦いを繰り広げた坂本の町を眼下に収める北曲輪からの眺め。
この日は晴天に恵まれ、琵琶湖の湖面が青く輝いてとても綺麗でした。

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ご覧のような急斜面を、まるで敵の迎撃に向かう森可成の如くに駆け下り、北曲輪から尾根伝いに更に北へと移動します。

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5分ほど進み、とてもスリッピーな急斜面を登った先に・・・

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北出丸があります。
※北曲輪と北出丸間の鞍部付近の西の斜面に、2本の連続竪堀らしきものもありましたが、逆光で写真が全く使えなかったので割愛します・・・。

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北出丸には石垣は一切見当たらず、複数の削平地が山の斜面に合わせて折り重なるように連なっていました。

宇佐山の城、端城まで攻め上り、放火候と雖も、武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門両人これありて、堅固に相拘へ候。

城将・森可成を失った宇佐山城でしたが、城に籠った家臣らが奮闘し、朝倉・浅井勢の猛攻をなんとか凌いで落城は免れました。
この時、朝倉・浅井勢が攻め上って放火したと云う端城こそ、この北出丸ではなかったでしょうか
北から進攻してきた朝倉・浅井勢が攻城戦に臨み、尾根の傾斜が比較的緩やかな北側から攻め上ったと考えるのは、至って自然な流れとも思えます。

九月廿四日、信長公、城都本能寺を御立ちたされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り侯。

宇佐山城の攻略には至らなかった朝倉・浅井勢でしたが、9月20日には逢坂を越え、醍醐・山科の辺りまで侵攻しました。
9月22日、摂津で急報に接した信長は急ぎ軍勢を返し、24日には逢坂を越えて坂本へと駆けつけます。信長の転進を知った朝倉・浅井勢は、はちケ峰あほ山つぼ笠山に登って立て籠もりました。

廿五日、叡山の麓を取りまかせ、(略)信長公志賀の城宇佐山に御居陣なり。

対する信長は諸将に比叡山を包囲させ、自らは宇佐山城へ入っています。

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北出丸から壺笠山(右の頂部)、そして比叡山方面の眺め。
多少の小競り合いを挟みつつ、和議が成立する12月まで続く志賀の陣で、両軍が対峙した距離感です。

また、この志賀の陣に於ける延暦寺の対応が、翌元亀2年の焼き討ちへと繋がっていくのですが、それについてはコチラの記事を参照ください。

志賀の陣の舞台となった宇佐山城
石垣などの遺構にも興味深いものがありましたが、何より織田信長も一時在城したこの城跡に立って、周辺の景観を眺めることができて感無量でした。

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下山後は森可成の墓所がある聖衆来迎寺へ。
聖衆来迎寺の山門は、明智光秀が築いた坂本城の移築門と云われています。

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この山門、平成22年に保存修理工事が施されたそうです。

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国の重要文化財に指定されている客殿。
寛永16年(1639)頃の創建と伝えられています。

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朝倉・浅井勢との戦闘で散った森可成の墓所
彼は聖衆来迎寺が建つ比叡辻の辺りで戦死したと伝えられています。

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織田信忠の室で、秀信の母となった寿々のお墓もありました。

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続いて坂本城跡へ。
坂本城址公園には、見慣れた明智光秀の像も建ちますが・・・

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こちらの図面が示す通り、公園は実際の城域からは外れています。

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城址公園の100mほど北、現在は廃墟となっているこちらの建物が建つ辺りが本丸跡。

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本丸跡の裏手、琵琶湖岸に残る坂本城の石垣石列。
運よく水位が下がっていたので、間近で観ることができました。

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よ~く目を凝らすと、水中で横方向に連なる石列も見えていたのですが・・・写真ではわかりづらいですかね。

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琵琶湖の対岸には、「近江富士」三上山も綺麗に見えていました。

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これにて、この日も踏査会も無事に終了となりました。
この後は大津駅周辺で各々チェックイン等を済ませ、こちらのお店で忘年会。

私は2次会まで参加し、午前0時頃まで楽しく盛り上がりました。
・・・お蔭で翌朝は、少々しんどい思いをする羽目に陥るのですが(笑)

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2018年12月 7日 (金)

高麗山城と周辺の歴史散策

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今回は神奈川県大磯町高麗の高麗山城へアタック。
ルートはいくつかあるようですが、私は麓の高来神社(江戸時代までは神仏習合の高麗寺)社殿裏手からの山道(昔の参道)を登りました。

高麗寺は徳川家康から寺領を賜り、東照権現を併せ祀っていたことから、参勤交代で東海道を往来する諸大名は、高麗寺の前では駕籠を降りて通行するのが慣例となっていたそうです。
明治の神仏分離令で高麗神社となり、更に社名を高来(たかく)神社と改められて現在に至ります。

また、「高麗」の地名は若光をはじめとする高句麗からの渡来人たちが大磯に上陸し、しばらく化粧坂辺りに住んでいたことに由来するとされています。
その後、彼ら高句麗からの渡来人は、武蔵国高麗郡に集められることになりました(参照記事)。

永正7年(1510)に伊勢宗瑞(北条早雲)が扇谷上杉氏との対立の中で高麗山に城を築き、永禄4年(1561)には上杉謙信も、小田原城攻めにあたって高麗山に本陣を据えたと伝えられています。

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高来神社からの山道(男坂を選択しました)を必死に登り詰めた八合目付近にあった平場。背後(山頂側)は切岸になっており、なんとなく曲輪跡に思えました。
ここまでの道中は急勾配の連続で、崖のような岩場あり、すれ違いもできないような急斜面沿いの細道もあり、で結構ハードな登山でした。。。

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こちらの古い石段を上がった先が・・・

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高麗山の山頂で、高麗山城の主郭(標高167m強)。
「大堂」と呼ばれる場所で、かつては高麗権現を祀るお堂が建っていたようです。

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主郭から北東寄りの鞍部へ下り、その先のピーク(写真)を登ると・・・

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やはり曲輪跡を思わせる平場が広がり、土橋を残して両サイドを切り落とした堀切のようなものが、中央部を横切っていました。

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こちらは主郭の西下にあった堀切。
この堀切の先は細尾根になっており、それに沿って進むと・・・

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すぐに堀切と土橋を連想させる地形がありました。
そのまま更に西へ進みます。

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またまた堀切が出てきました。
こちらは規模といい形状の明瞭さといい、歴とした堀切です。

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堀底から。

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堀切の先の平場(八俵山)。
この先は自然の地形が落ち込んでいます。この辺りが城の西端だったのでしょうか。

高麗山城探索はこれで終了ですが、麓の大磯町生涯学習館で貰った散策マップで、南西麓の妙大寺に松本良順(明治以降「順」に改名)の墓所があることを知ったので、このまま尾根伝いに湘南平方面へ向かいます。

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高麗山の西方、浅間山の山頂。

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湘南平
遠くに江の島も見えています。

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小田原方面の眺望。
上杉謙信もこうして、大軍で包囲する小田原を眺めたのでしょうか。

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下山ルートは妙大寺を目指して坂田山コースを選択。
JR大磯駅の少し西側へ下るイメージです。

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多少のアップダウンはあるものの、なかなか快適な山歩きになりました。

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住宅が建ち並ぶ地点まで下ってきました。
天気が良ければ、湘南の海もさぞ綺麗だったでしょうね。

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松本良順が眠る妙大寺。

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幕末、幕府御典医として活躍した松本良順。
明治に入ってからも陸軍軍医総監に就きましたが、公職を辞した後は大磯に移り、照ヶ崎海岸に日本初となる海水浴場を誕生させています。
個人的には、新選組との繋がりで強く印象に残っている人物。期せずしてお参りすることができて良かったです。

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旧東海道、化粧坂の松並木。
登山口よりだいぶ南西寄りに下山しましたので、最後は山麓を旧東海道で北東方向へ引き返しました。

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広重の「東海道五十三次」に描かれた大磯。
右に見える山は高麗山。海が左手になっているので向きこそ違え、先ほどの写真とほぼ同じ場所を描いたものになります。

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化粧坂の一里塚(跡)

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虎女(虎御前)化粧井戸
虎御前は大磯の遊女で、「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我兄弟の兄・曾我祐成の妾だったとされる人物。
彼女がこの井戸の水で朝な夕な化粧をしていたとの伝承から、この名で呼ばれているようです。

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車を置かせていただいた大磯町生涯学習館に到着。
こちらには高麗山の簡単な散策マップも置かれています。山中にも案内板は設置されていますが、予め一部持っておくと心強いです。

予定よりも長い行程となって時間を要しましたが、それだけに充実した散策になりました。

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2018年12月 6日 (木)

信貴山城

城友会2018、ラストは生駒郡平群町の信貴山城です。

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朝護孫子寺の参道を伝って城山へアタック。
途中で雄嶽と雌嶽の分岐点に出ます。雌嶽にも出城のような曲輪がありますが、まずは主城の雄嶽へ向かいました。

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信貴山城本丸

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信貴山城図

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城内最高所に建つ空鉢堂。

十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間、羽柴、惟任、惟住、諸口仰せつけられ、信貴の城へ攻め上られ、夜責めにさせらる。防戦、弓折れ矢尽き、松永、天主に火を懸け、焼死候。
(信長公記 巻十「信貴城攻め落さるゝの事」より)

織田信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もった松永久秀。
天正5年(1577)10月10日、織田信忠率いる大軍の総攻撃を受け、信貴山城は落城しました。
久秀が火を放って命を絶ったと云う天主も、或いはこの空鉢堂の辺りに建っていたのかもしれませんね。

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信貴山城本丸からの眺望。
手前に丸い頭が出ているのが、後で登る雌嶽の山頂です。

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本丸から舗装された山道伝いに北の方角へ下っていくと、いくつかの小曲輪を経てAの曲輪に達します。
A曲輪の更に北へ続くのが・・・

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松永屋敷の曲輪群です。

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松永屋敷から見上げるAの切岸。

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松永屋敷は最近整備されたようで、整備の度合いもやり過ぎず適度な感じで、とても気持ちよく見学できました。

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段違いに4~5の削平地から成り、土塁なども見受けられました。

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松永屋敷北端から南を振り返る。
土橋状の虎口が明瞭に残っていました。

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松永屋敷西の谷を越え、Bの竪堀。

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Cの辺りにあった堀切と土橋。

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Dの食違虎口を抜け、最北端の曲輪を目指します。

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Eの虎口・・・枡形になっていたように思います。
この虎口を出た東側の斜面に・・・

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ご覧のような石垣が残っていました。

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一旦本丸まで登り直し、最後に雌嶽曲輪へ。

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雌嶽曲輪
細長い削平地が広がっています。

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雌嶽曲輪先端は一段低くなり、虎口のような痕跡も見られました。

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虎口の先、尾根を下った地点に堀切のようなものも見えていましたが、もはや下って確かめる気力も残っていなかったので・・・引き返しました。←

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信貴山城遠景

これにて城友会2018も終了です。
今回めぐった奈良のお城はどれも素晴らしく、スケールの大きさに驚きの連続でした。
来年は・・・どこになったのかな?そういえば、まだちゃんと聞いていなかったな・・・想像はついているけど。
(翌年の行先は夜のカラオケで決定するのが恒例←今年パスした)

来年もまた、みんなで集まれますように。

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2018年12月 5日 (水)

龍王山城(北城)

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旅の最終日は天理市田町の龍王山城へ。
林道の途中で通行止めになっていたので、そこから結構な距離を歩いて到達しました。

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龍王山城は大和の豪族・十市氏の居城でした。
天文年間、十市氏は遠忠の代に勢力を伸ばして龍王山城も拡張されたようですが、子の遠勝の代になり、松永久秀が大和で勢力を伸ばすと徐々に衰退し、やがて前日に訪れた宇陀松山城の秋山氏から攻撃を受け、城を放棄して逃れていきました。
その後も紆余曲折を経て、龍王山城は最終的に松永久通の手に渡りますが、松永氏が織田信長に反旗を翻して滅びると、天正6年に信長の命によって廃城となりました。

龍王山城は北城と南城の2つから成りますが、今回は時間の都合で北城のみを見ていきます。

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馬池・・・馬の肢でも洗っていたのでしょうか。

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馬池から時ノ丸方向へ向かう途中、西側の斜面にあった竪堀群。
群と言っても藪がひどく、ちゃんと確認できたのはこちらの2本のみでした。

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このすぐ上の曲輪が時ノ丸で、その先の切岸の上は北城の本丸になります。

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Aの曲輪
高い土塁には平虎口が付けられていました。

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A曲輪の土塁には一部、石積みも。

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A曲輪北東下の竪堀。
この竪堀を下って大手方面へ向かいます。

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西の大手の丸
数段の平場が階段状に連なっていました。

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五人衆郭
写真奥、一段上がった先には大きな平場が広がっています。

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図で「馬ひやし場」と書かれている地点。
左は五人衆郭の切岸です。

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馬ひやし場の北に広がる郭には土塁も残っていました。

この後、五人衆郭の北にある竪堀群を見に行きましたが、良い写真が撮れていなかったので割愛・・・。
他にも見ておきたいポイントはありましたが、縄張り迷子になってしまったので本丸へ直行。

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北城本丸

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北城本丸から西の眺望。

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北城本丸と辰巳の櫓間の堀切。

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こちらはB曲輪と太鼓ノ丸間の堀切。

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南虎口の丸堀。
丸堀を挟んで2つの食違虎口が設けられています。
写真は城内側から見ていますが、対岸の城外から城へ攻めてきた寄せ手は、丸堀の外周を反時計回りに手前の虎口まで回り込まされる構造になっていました。
こうすることにより、寄せ手の弓は城内(高所)から狙う城兵に対して常に逆手となり、逆に城兵にとっては有利な得手となる工夫なのだそうです。

龍王山城、北城のみを駆け足で見てまわりましたが、とても規模が大きく、見どころの多い山城でした。

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2018年12月 4日 (火)

宇陀松山城

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城友会2018
、2つ目のお城は宇陀松山城です。

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城山南西麓の千軒舎に車を停め、パンフレットをいただいてから、建物の脇より登城道へ向かいます。
※続100名城スタンプも千軒舎にあります。

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Aの横堀

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雀門跡からの登城路に散見された残存石垣。

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崩れやすそうな地質に見えたので、大部分は崩落してしまったのかもしれませんが、往時は総石垣づくりのお城だったのでしょうか。

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雀門からの登城路。
直角の折れが続きます。

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本丸から天守郭を望む。

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本丸から南方の眺め。
ブルーシートは、台風などによる崩落箇所を覆ったものです。

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本丸から二ノ丸方向。
そこかしこに崩落の痕が見られます・・・。

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天守郭からBの張り出し。

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天守台周囲に残る石垣。
多くの崩落箇所が物語るように、やはり崩れやすい地質によって石垣も、長い年月の中でその大半が失われてしまったのでしょう。

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隅石

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大門

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大御殿郭からの天守郭

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つづいて山麓の春日門跡。
現在は春日神社の参道になっていますが、参道は石垣の先ですぐに左へ折れ、枡形だったことが明瞭にわかります。この春日門は、宇陀松山城の大手にあたります。
また、春日神社の周辺には宇陀松山藩主・織田家の屋敷が建っていたようです。

宇陀松山城は秋山氏の居城として築かれました(当時は秋山城)。
その後、豊臣秀長の大和入部に伴って宇陀へ配された豊臣家臣らや、関ケ原合戦後に入城した福島高晴によって改修が続けられました(「松山」と改名したのも高晴とされる)。
しかし高晴は元和元年(1615)に改易となり、その後に入封した織田信雄は麓に陣屋を構えたものの城には入らず、宇陀松山城はその使命を終えました。

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続いて城下町を散策。古い道標が建っていました。

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町並みもいい感じですね。

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城下町への大手門にあたる松山西口関門。
建設時から残る唯一の建造物で、ここから城下へ入って大手筋を進むと、先ほどの春日門に繋がっています。

さて、これにて城友会2018本戦の初日は終了です。
夜は宿近くの居酒屋で飲んだ後、メンバーは恒例のカラオケへ繰り出しましたが、私は疲れからか気力・体力が続かず、参加7年目にして初のパス・・・最終日に備えるため宿へ戻りました。
そう、twitterをご覧いただいていた方はご存知かもしれない、全く寛げない宿へ・・・。

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2018年12月 3日 (月)

高取城

前乗り~早駆けだけで記事が3本になってしまいましたが、ようやく旅の名目である城友会2018の本戦に突入です(笑)
法隆寺参拝に時間を使い過ぎ、他の参加メンバーを少し待たせてしまいましたが無事に合流して、まずは高取城へ。

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高取城図
高取山林道の終点付近に車を停め、壺坂口からアプローチします。

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歩き始めてすぐに石垣が出迎えてくれますが、これで驚いていたら身が持たなくなることを、すぐに思い知らされることになります(笑)

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壺坂口門~壺坂口郭を経由し、壺坂口中門(写真)を抜ける。
この先の角を折れると・・・

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大手門横の石垣がそそり立っていました。

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大手門
城内への入口であるニノ門・壺坂口門・吉野口門から主郭部へのルートは、全てこの大手門を経由することになり、二の丸や本丸への唯一の入口となります。

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大手門のすぐ先にある枡形虎口を抜けると・・・

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二の丸に出ます。

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二の丸から、太鼓櫓脇に付けられた虎口を抜けて本丸を目指す。

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先ほどの虎口の先では、天守台の高い石垣が正面に待ち受けていました。

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天守台の足元にあった城址碑。

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本丸への虎口

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本丸内からの天守台

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天守台から本丸を見下ろす。
虎口が幾重にも折られ、いかに複雑且つ厳重に施されていたかがわかります。

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本丸南面の石垣
少しカーブしているようです。次は一段下の腰曲輪に下りて、この石垣を下から見上げてみることにします。

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本丸東面の石垣
不自然な段差がついているのは、孕みなどを修復した痕跡のようです。

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先程は上から見た南面の石垣。

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反対の西側からも。

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この後、写真左手方向へ下って七つ井戸も見に行きましたが、ろくな写真がなかったので割愛します・・・(;^_^A

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続いて大手門付近から三の丸方向へ下り、本丸の周囲を時計回りに吉野口門方面を目指します。

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三の丸から先は樹木が鬱蒼と生い茂り、紅葉目当ての観光客も殆ど立ち入ることはありませんが、こうして見事な石垣が続いています。

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吉野口門
斜面を登り石垣で遮断し、人一人がやっと通れるほどの狭い一本道だけが通されていました。

この吉野口辺りまでを「城内」としていたようですが、この先にもまだ素晴らしい遺構があるとのことでしたので、更に進みます。

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本丸のすぐ先で、南へ続く尾根を分断する堀切。
この尾根に沿って進むと・・・

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片面を石垣で固められた小さな堀切がありました。

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しばらくすると、土塁で囲われた大きな曲輪跡に出ます。
この曲輪の先からは、尾根に沿って東へ向かいます。すると・・・

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今度は両サイドを石垣で固めた堀切に遭遇しました。
ここが今回の最終目的地点。

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こんな山深い場所にもしっかりと残っている石垣・・・いいですねぇ~♪

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堀切を上から見下ろしてみる。
往時は橋が架けられていたのでしょうね。

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関東ではなかなかお目にかかれない石垣づくりの山城・・・やっぱりいいです!

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下山後は城下町にある夢創館へ。
呉服商を改修した観光用の施設で、高取城のパンフレットや100名城スタンプが置かれています。

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高取城のニノ門を移築した子嶋寺の山門。

高取城
僅か2万5000石の高取藩の居城とは思えない規模の大城郭。
それでも城域の北側一帯など、時間の都合でまわれていないエリアがたくさんあるのですから、その規模には驚くばかりです。

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2018年12月 2日 (日)

法隆寺、他

2日目の朝。
集合時間前に、前乗り組でちょっと早駆けしてきました。

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まずは宿の近くにあった小泉城跡(大和郡山市小泉町)から。
南北朝期の小泉氏の居館跡で、江戸時代には小泉藩の片桐貞隆が陣屋を構えました。

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現在は完全に宅地化されていますが、石碑前の段差に名残を感じました。

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続いて中宮寺跡
中宮寺は聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の住居跡に建てられたと考えられている尼寺。
江戸時代になって法隆寺の東院に移されています。

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復元された塔や金堂の礎石。

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塔の心礎が埋まっている地点。

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復元展示されている心礎。
高さは40㎝ほどで作られていますが、発掘でも深さは未確認のため、実際の高さは判っていないそうです。

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そして法隆寺へ。
真っ直ぐに伸びる松並木の参道が素敵でした。

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法隆寺を訪れるのは、実に30年ぶりのことです。

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まずは西院の大講堂にお参り。

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五重塔に金堂
金堂では、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像、太子の父・用明天皇の金銅薬師如来座像、母・穴穂部間人皇后の金銅阿弥陀如来座像の他、それらを守護する四天王像にも参拝させていただきました。
※こちらの四天王像は1300年以上の歴史を持つ日本最古のもので、邪鬼の背に静かに立っています
通常、よく目にする四天王像は片足を邪鬼の頭に乗せるなどして、邪鬼を踏みつけるような姿で彫られていますが、法隆寺金堂の像のように静かに立っているのが、本来の姿なのだそうです。
しかし時代が下るにつれ、四天王は即ち守護神なので、邪鬼を踏みつけるようにして強さを表現するようになっていったと考えられているようです。

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大宝蔵院では玉虫厨子も拝観。

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最後に東院へ向かいます。

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聖徳太子が住まいした斑鳩宮跡に建てられた夢殿。

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江戸時代に移された中宮寺。

30年ぶりに訪れた法隆寺。
世界最古の木造建築とされる伽藍、仏像、宝物の数々・・・どれもこれも1000年を軽く超える歴史の重みに、ただただ圧倒されるばかりでした。

さて、それでは次回からいよいよ、城友会2018本戦の開始です。

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2018年12月 1日 (土)

多聞山城

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城友会2018、前哨戦の2城目は多聞山城です。
現在、城跡には若草中学校が建っています。「職員の方がいれば多聞山城の冊子を購入できる」という情報をいただいたのでインターフォンを鳴らしてみましたが、残念ながら応答はありませんでした。

三月廿七日、信長、奈良の多門に至りて御出で。(略)
三月廿八日、辰の刻、御蔵開き候ひ訖んぬ。彼の名香、長さ六尺の長持に納まりこれあり。則ち、多門へ持参され、御成りの間、舞台において御目に懸け、本法に任せ、一寸八分切り捕らる。
(信長公記 巻七「蘭奢待切り捕らるゝの事」より)

天正2年(1574)3月、前年末に松永久秀・久通父子から多聞山城を接収した織田信長は、上洛して朝廷へ蘭奢待の切り取りを奏聞し、勅許を得るとすぐに多聞山城へ向かいました。
そして、東大寺の正倉院から長持に入った蘭奢待を運ばせ、この多聞山城で一寸八分(5㎝強)切り取っています。

写真の階段の上が主郭にあたりますので、まさに織田信長による蘭奢待切り取りの舞台、ということになります。

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多聞山城跡から見る東大寺の大仏殿。正倉院は写真で、大仏殿の少し左方向にあります。
天正2年3月28日、長持に収められた蘭奢待が往復した距離。
(写真提供:こばたかさん)

残念ながら城内(校内)を見学することは叶いませんが、周辺からも城の痕跡を探れそうなので少し散策してみます。

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主郭(左)と、その東の曲輪(グランド)の間を断ち切る東堀切。

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主郭北側の切岸
よ~く目を凝らして見てみると・・・

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土塁らしきものが見えている気もするのですが・・・如何せん近づくことができないので確証はありません。

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こちらは、主郭の一部として取り込まれていたであろう仁正皇太后の佐保山東陵(左)と、やはり城に利用されていたと思われる聖武天皇の佐保山南陵(右)の間の西堀切。
無論、敷地内に立ち入ることはできませんが、何とか目視できるポイントまで辿り着くことができました。

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眉間寺遺跡から見る佐保山南陵の西面。
何かしらの痕跡がありそうでしたが、城に関係するものかどうかは定かではありません。

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佐保山陵の参道
正面が聖武天皇の南陵になります。

実際に城を見学した宣教師ルイス・デ・アルメイダに;
世界中どこにもこの城の如く、善且つ美なるものはないと考える。
と讃えられた多聞山城。
僅かばかりでも、その痕跡に触れることができて良かったと思います。

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初日のラストは興福寺にも立ち寄り。

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今年(平成30年)落慶したばかりの中金堂。

この後は宿にチェックインしてから、最寄り駅近くで乾杯☆彡
・・・宿にもいろいろとネタがあるのですが・・・もう忘れることにします(笑)

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