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2018年12月14日 (金)

壺笠山城、他

城友山城踏査会・忘年会明けの2日目(12月9日)は壺笠山城へ。

九月廿四日、信長公、城都本能寺を御立ちたされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り侯。
(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より)

宇佐山城の記事でも触れましたが、壺笠山城は元亀元年(1570)の志賀の陣に於いて、朝倉・浅井勢が立て籠もった地の一つです。
なお、あほ山は青山で壺笠山のすぐ北峰、はちヶ峰は日吉大社の奥宮が建つ八王子山付近と比定する説もありますが、壺笠山の辺りを通る古くからの白鳥越え(京の一条寺と穴太を結んでいた)のルート上には他にもいくつかの城郭遺構が残り、確かなことはわかりません。

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穴太野添古墳群近くの駐車スペースに車を停め、緩やかな傾斜の続く荒れた林道を西へ約1.5㎞、ダラダラと30分ほど登っていきます。
落石が多いようで、道中の至る所に岩が散乱していました。少々注意を要します。

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趣のある古い橋を渡り・・・

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こちらの分岐点を左手前方向へ進むと・・・

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壺笠山(右)と青山(左)間の林道切通に出ます。
ここを少し進んで壺笠山の北東側へ回り・・・

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目印となるテープが巻かれている箇所から斜面に取り付き、僅かな踏み跡のような山道?を頼りに山頂部を目指します。

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山道分岐点。
何の気なしに歩いていると左へ向かいそうになりますが、左ルートは最終的に斜面直登になってしまうようなので、ここは右に見えている土塁のような高まりを越えた先へ進みます。

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5分ほどで尾根に出ました。
この尾根は白鳥越えのルートとも推定されており、尾根に出て右(西)へ向かった先にも城郭遺構があるらしいのですが、この日は強風注意報も出ていたほどで、山の上では爆風が吹き荒れ、細尾根を渡るのは危険と判断して諦めました。

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反対に、尾根を左(東)へ進むと壺笠山城に至ります。

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いよいよ城域が近付いてきました。
斜面を遮断する竪土塁のようなものが見えます。

壺笠山の山頂には元々前方後円墳が築かれていて、写真手前側が前方部、奥の主郭側が後円部になっていたようです。
竪土塁の先、前方部にはいくつかの削平地が連なっていました。

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主郭を取り巻く腰曲輪の、更に南西下段の斜面にあった石垣。

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僅かではありますが、このような石垣がいくつか散見されました。

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主郭を囲む腰曲輪。

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主郭・・・壺笠山の山頂です。
残念ながら宇佐山城方向はおろか、四方の眺望は全く利きませんでした。

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主郭北東側の虎口。

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北東虎口には、かつては石段だったのでは?と思わせる痕跡も。

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北東虎口を下りた先の腰曲輪。

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その足元の切岸を覗くと、やはり石垣がありましたが・・・どことなく城の遺構には思えないような違和感を覚えました。

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引き続き、腰曲輪下の斜面を反時計回りに西へ回り込み、石垣を捜し歩きました。

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主郭北西虎口下付近にあった石垣。

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主郭北西虎口
こちらは完全に石段の跡ですね。

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壺笠山から青山を見る。
青山にも削平された空間があるようですが、いずれにしても朝倉・浅井合わせて3万とも云う大軍が数ヶ月に渡って駐屯するには、壺笠山も青山もあまりに手狭な感じがします。
太田牛一が信長公記に列挙した三山だけでなく、実際にはもう少し広範に渡って滞陣していたのではないでしょうか。

壺笠山城
・・・確かに朝倉・浅井勢が籠った際に陣城として改修してはいるのでしょうが、各所に残る石垣や虎口の石段までもが陣城に由来するものだったのかとなると、正直なところ釈然とはしません。
そもそも特定の合戦のためだけに築く陣城に、それも元亀元年の段階で石垣を積むものなのか・・・やはり疑問を禁じえません。

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下山後、穴太野添古墳群から望む琵琶湖。

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壺笠山城の後は日吉大社へ。(写真は東本宮)
私にとっては4年ぶりの再訪となりました。

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東本宮に建つ摂社、樹下神社の本殿は文禄4年(1595)の建立。
その床下には全国的にも珍しく・・・

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なんと、霊泉湧き出づる井戸が掘られていました。

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日吉三橋の一つ、走井橋。
他の二橋と同様、豊臣秀吉が天正年間に寄進したものと伝わりますが、元来のものは木橋で、寛文9年(1669)に現在の石橋に架け換えられています。

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志賀の陣の折、朝倉・浅井勢が籠った山の一つとして挙げられているはちヶ峰に比定される八王子山を振り仰ぐ。
奥宮の社殿が小さく見えています。

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お昼に近江ちゃんぽんで冷えた体を温め、今度は近江国一之宮・建部神社に参拝。

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建部神社に安置されていた菊花石・・・どこから見ても本物の菊の花にしか見えませんね。

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頼朝の出世水
源頼朝も伊豆へ流される道中、建部神社にお参りしていたようです。

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瀬田の唐橋

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唐橋近くに建つ龍王宮秀郷社。
竜宮の乙姫と、百足退治の伝説で知られる藤原秀郷(俵藤太)を祀ります。
※百足退治の伝説の真相は、敵の軍勢の列(=たくさんの足が連なる)を百足に擬え、それを瀬田川の要害性を利して撃退した、といったところのようです。

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瀬田城跡碑

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旅の最後は近江国庁跡へ。
付近の住宅街を、旧東海道(写真)が通り抜けています。

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近江国庁(国衙)跡碑

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かなり広範に渡って史跡として整備されているようですが、周辺は道幅も狭い住宅街で、駐車スペースに辿り着けなくて難儀しました。

さて、これにて2018年の遠征も終了です。
今年も多くの仲間に大変お世話になりました。
来年はどのくらい遠征に出られるか・・・いろいろと事情があって現段階では不透明ですが、これからもどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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