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2018年12月13日 (木)

宇佐山城、聖衆来迎寺、坂本城

12月8日(土)は、年末恒例の城友山城踏査会。2018年の舞台は大津市の宇佐山城跡です。
集合時間直前に発生した人身事故の影響で電車に遅延が生じたものの、午前11時過ぎには大津駅に集合して車3台に分乗、近江神宮から歩き始めました。

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山麓から見上げる宇佐山城跡
白いアンテナ(TV局の中継所)が見えている辺りが主郭になります。

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まずは、宇佐山中腹に建つ宇佐八幡宮の参道を登っていきます。

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宇佐八幡宮の社殿手前辺りから、登城路は本格的な山道に入ります。
これが結構な急勾配で、ハードな登山になりました。

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城山の東側に落とされた大きな竪堀。

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主郭と、その北側に位置する曲輪(以下「北曲輪」)間の鞍部・・・堀切でいいのかな?
まずは写真左手の主郭へ上がってみます。

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宇佐山城主郭
TV局の施設が、曲輪を埋め尽くすように並んでいます。一番奥の建物の先には・・・

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枡形虎口があります。
写真の左手前方向に先ほどの建物があるのですが、その縁の下(?)には・・・

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枡形で折られた導入路の延長線上と思われる位置に、石列が綺麗に並んでいました。

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主郭からの西の眺望。
眼下に山中越えのルートをしっかりと収めています。

宇佐山城は元亀元年(1570)、織田信長の命を受けた森可成によって築かれました。
敵対する朝倉・浅井勢に備え、山中越えや逢坂越えといった京へのルートを押さえるための措置だったと思われます。

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主郭から、一段下がった南の曲輪(以下「南曲輪」)を見下ろす。
主郭の南端に位置する枡形の土塁に沿って、不思議な“溝”がありました。

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反対に南曲輪より主郭方向。
写真で溝の右側が、先ほどの枡形へと続くルートと思われますので、溝は主郭への導入路を限定するための堀、と考えてもいいのかもしれませんが、それならば左側は掘り切ってしまえば良さそうな気がするのですが、現状は縁を残して溜池のようになっています。

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南曲輪東下の腰曲輪に残る石垣。

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こちらは主郭の東下に残る石垣。

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続いて主郭の北東側、三角に張り出した小曲輪に残る石垣。

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同じ石垣を反対側から。

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隅の部分は欠損していました。

宇佐山城は元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後、志賀郡を与えられた明智光秀が坂本城を築いた後に廃城になったとされていますが、これほどの石垣が残っていることから、織田方の軍事施設として引き続き機能していたのではないか、とする見解もあるようです。

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主郭北側の横堀・・・というよりは塹壕?

辛末九月十六日、越前の朝倉・浅井備前、三万ぱかり坂本ロヘ相働くなり。森三左衛門、宇佐山の坂を下々り懸け向かひ、坂本の町はづれにて取り合ひ、纔千の内にて足軽合戦に少々頸を取り、勝利を得。翌日、
九月十九日、浅井・朝倉両手に備へ、又取り懸け侯。町を破らせ侯ては無念と存知られ、相拘へられ侯のところ、大軍両手よりどう(口へんに童)とかゝり来たり、手前に於いて粉骨を尽さると雖も、御敵猛勢にて、相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死。森三左衛門、織田九郎、青地駿河守、尾藤源内、尾藤叉八。
(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より。以下引用同)

元亀元年9月、信長が摂津の野田・福島城攻めに出ている隙を衝き、朝倉・浅井勢が坂本まで南進してきました。いわゆる志賀の陣の始まりです。
宇佐山城将・森可成は坂を駆け下って出撃し、一度は勝利を収めるものの衆寡敵せず、9月19日に再び大軍で押し寄せた朝倉・浅井勢との戦闘で森以下、織田信治ら主だった将兵は枕を並べて討死しました。

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森可成らが坂を駆け下り、朝倉・浅井勢と戦いを繰り広げた坂本の町を眼下に収める北曲輪からの眺め。
この日は晴天に恵まれ、琵琶湖の湖面が青く輝いてとても綺麗でした。

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ご覧のような急斜面を、まるで敵の迎撃に向かう森可成の如くに駆け下り、北曲輪から尾根伝いに更に北へと移動します。

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5分ほど進み、とてもスリッピーな急斜面を登った先に・・・

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北出丸があります。
※北曲輪と北出丸間の鞍部付近の西の斜面に、2本の連続竪堀らしきものもありましたが、逆光で写真が全く使えなかったので割愛します・・・。

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北出丸には石垣は一切見当たらず、複数の削平地が山の斜面に合わせて折り重なるように連なっていました。

宇佐山の城、端城まで攻め上り、放火候と雖も、武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門両人これありて、堅固に相拘へ候。

城将・森可成を失った宇佐山城でしたが、城に籠った家臣らが奮闘し、朝倉・浅井勢の猛攻をなんとか凌いで落城は免れました。
この時、朝倉・浅井勢が攻め上って放火したと云う端城こそ、この北出丸ではなかったでしょうか
北から進攻してきた朝倉・浅井勢が攻城戦に臨み、尾根の傾斜が比較的緩やかな北側から攻め上ったと考えるのは、至って自然な流れとも思えます。

九月廿四日、信長公、城都本能寺を御立ちたされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り侯。

宇佐山城の攻略には至らなかった朝倉・浅井勢でしたが、9月20日には逢坂を越え、醍醐・山科の辺りまで侵攻しました。
9月22日、摂津で急報に接した信長は急ぎ軍勢を返し、24日には逢坂を越えて坂本へと駆けつけます。信長の転進を知った朝倉・浅井勢は、はちケ峰あほ山つぼ笠山に登って立て籠もりました。

廿五日、叡山の麓を取りまかせ、(略)信長公志賀の城宇佐山に御居陣なり。

対する信長は諸将に比叡山を包囲させ、自らは宇佐山城へ入っています。

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北出丸から壺笠山(右の頂部)、そして比叡山方面の眺め。
多少の小競り合いを挟みつつ、和議が成立する12月まで続く志賀の陣で、両軍が対峙した距離感です。

また、この志賀の陣に於ける延暦寺の対応が、翌元亀2年の焼き討ちへと繋がっていくのですが、それについてはコチラの記事を参照ください。

志賀の陣の舞台となった宇佐山城
石垣などの遺構にも興味深いものがありましたが、何より織田信長も一時在城したこの城跡に立って、周辺の景観を眺めることができて感無量でした。

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下山後は森可成の墓所がある聖衆来迎寺へ。
聖衆来迎寺の山門は、明智光秀が築いた坂本城の移築門と云われています。

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この山門、平成22年に保存修理工事が施されたそうです。

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国の重要文化財に指定されている客殿。
寛永16年(1639)頃の創建と伝えられています。

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朝倉・浅井勢との戦闘で散った森可成の墓所
彼は聖衆来迎寺が建つ比叡辻の辺りで戦死したと伝えられています。

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織田信忠の室で、秀信の母となった寿々のお墓もありました。

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続いて坂本城跡へ。
坂本城址公園には、見慣れた明智光秀の像も建ちますが・・・

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こちらの図面が示す通り、公園は実際の城域からは外れています。

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城址公園の100mほど北、現在は廃墟となっているこちらの建物が建つ辺りが本丸跡。

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本丸跡の裏手、琵琶湖岸に残る坂本城の石垣石列。
運よく水位が下がっていたので、間近で観ることができました。

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よ~く目を凝らすと、水中で横方向に連なる石列も見えていたのですが・・・写真ではわかりづらいですかね。

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琵琶湖の対岸には、「近江富士」三上山も綺麗に見えていました。

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これにて、この日も踏査会も無事に終了となりました。
この後は大津駅周辺で各々チェックイン等を済ませ、こちらのお店で忘年会。

私は2次会まで参加し、午前0時頃まで楽しく盛り上がりました。
・・・お蔭で翌朝は、少々しんどい思いをする羽目に陥るのですが(笑)

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