天正10年4月15日の織田信長
四月十五日、田中を未明に出でさせられ、…(中略)…真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、のぼれば、さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。是れより、につ坂こさせられ、懸川に御泊り。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)
天正10年(1582)4月15日、甲州征伐からの帰路にある織田信長は、未明に田中(藤枝市)を出発し、この日は掛川まで進んでいます。
その旅路を追うため、私も金谷駅から旧東海道を掛川まで歩いてみることにしました。
まずは金谷坂の石畳で牧之原台地へ上がり、諏訪原城跡の方へ向かいます。
※金谷~諏訪原城跡までのルートは、3年前のコチラの記事で詳しく触れていますので今回は割愛します。
諏訪原城跡の案内標識が見えてきました。
旧東海道は諏訪原城のすぐ真横を通っています。
真木のゝ城右に見て、
※真木のゝ城=牧野城=諏訪原城
諏訪原城を過ぎ、今度は菊川坂の石畳で台地を下っていきます。
諏訪の原を下り、
石畳に沿って下っていくと、やがて金谷と日坂の間の宿・菊川の里へ至ります。
きく川を御通りありて、
菊川の里の外れで旧東海道は左へ鉤型に折れ、いよいよ小夜(佐夜)の中山峠への急坂に差し掛かります。
のぼれば、
半分ほど登って振り返った様子。
結構な急勾配をほぼ直登していきます。
辺り一面の茶畑・・・とっても静岡な光景。
やや右寄り、遠くに鉄塔のようなものが見えている辺りがピークになります。
ようやく登りきったところに建つ久延寺。
山号は佐夜中山です。ちょっと寄らせていただきました。
久延寺夜泣石
三位良政と月小夜姫の娘・小石姫の供養塔とのこと。
詳しいことはわかりませんが、小石姫は妊娠していたものの、どういった事情からか、小夜の中山の松の根元で自害したと伝えられているそうです。
小石姫の父母、三位良政と月小夜姫の供養墓も。
慶長5年(1600)には会津の上杉征伐へ向かう徳川家康を、時の掛川城主・山内一豊が久延寺に茶亭を設けてもてなしています。
写真の碑には「松平土佐守」とありましたので、天明9年(1789)の正月に山内一豊の子孫にあたる土佐藩主が、この時のことを記念して建碑したものでしょう。
※山内家の藩主は代々「松平」を称していました。
境内には他に、家康のお手植えと伝わる五葉松や、茶亭跡の碑などもあります。
また、久延寺から50mほど離れた場所には、家康に供する茶に使用した御上井戸も。
小夜の中山公園
最高点の標高は252m。小夜の中山は古くから箱根や鈴鹿峠と列び、東海道の三大難所として知られてきました。
さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。
なお、右に見えている円筒状のものは西行の歌碑です。
年たけてまた越ゆべしとおもひきや
命なりけりさやの中山
平安末期の歌人・西行法師の、新古今和歌集にも収録されている一首。
晩年になって、生涯2度目の小夜の中山峠越えをすることになった感慨を謡ったものです。
さて、ピークに登り切った先はなだらかな尾根道が続きますので、しばらくは景色を楽しみながらのんびりと西へ進みます。
佐夜鹿一里塚
一つ前(江戸寄り)は、この日のスタート地点である金谷一里塚になりますので、ようやく一里(約4㎞)歩いたことになります。
佐夜鹿神明社
尾根上を真っ直ぐに伸びる旧東海道。
白山神社の前を通過・・・長閑です。
東海道屈指の難所であった小夜の中山。
東海道を旅した多くの人々が当時の情景を歌や句に残しており、路傍には歌碑や句碑が点在していました。
涼み松広場
昔、ここには大きな松が生えていて、松尾芭蕉がその下で、
命なりわずかの笠の下涼み
と詠んだことから、「涼み松」と呼ばれるようになりました。
小石姫の墓
涼み松広場の向かいにひっそりと佇んでいました。
すると小石姫は、涼み松の根元で亡くなったということになるのでしょうか。
路傍に建つ夜泣石跡の碑
こちらにあった夜泣石は、久延寺の夜泣石とは別のものになりますが、やはり同じような伝説が残されています。
その昔、とある身重の女性が小夜の中山で山賊に襲われて亡くなります。
この時、女性の傷口から子供が生まれました。すると、女性の霊がそばにあった丸石に乗り移って泣いたため、泣き声に気付いた久延寺の僧が駆けつけて赤ん坊を発見し、保護しました。
赤ん坊は乳の代わりに水飴で育てられて成長し、やがて母の敵を討ったとも云われています。
(赤ん坊を育てた水飴は、現在では「子育飴」として小夜の中山の名物にもなっているようです)
共に妊娠していたとされる点で、小石姫のお話との関連も気になるところですね。
安藤(歌川)広重の絵碑
絵に描かれている通り、夜泣石は旧東海道の真ん中にありました。
明治天皇行幸の折りに道の脇(つまり現在の碑の位置か)に寄せられ、その後、博覧会に出品された後に現在置かれている小夜の中山北麓の県道沿いへ移されたようです。
まさしくここが、広重が描いた「東海道五拾三次 日坂 佐夜ノ中山」の絵の場所ということになります。
沓掛の集落まで来ました。
「沓掛」とは、旅人が峠の急坂に差し掛かった時、草鞋や馬の沓を捧げて安全を祈ったことに由来する地名なのだそうです。
確かに集落を抜けると、旧東海道は急激な下り坂に差し掛かりました。
このクネクネと曲がりながら下っていく坂は「二の曲り」と呼ばれていました。
坂の途中に建つ日之坂神社。
「日之坂」という名に、この先の日坂宿との所縁を感じます。
東海道、江戸から数えて25番目の宿場町・日坂宿が見えてきました。
こちらのマップでいうと、下の小夜の中山から沓掛や日之坂神社を抜け、国道や県道を越えて日坂宿に入ります。
日坂宿本陣跡
是れより、につ坂こさせられ、
日坂宿高札場
日坂宿を抜けると、旧東海道は県道415号に合流します。
(写真左が、日坂宿から続く旧東海道)
県道に合流する地点に建つ事任八幡宮。
遠江國の一之宮だそうです。
延々と続く県道歩き・・・時折こうして旧道へ逸れることもありますが、すぐにまた合流します。
日坂を過ぎてからの後半は、結構退屈な道のりとなりました。
伊達方一里塚
この日スタートしてから2里の地点。
再び県道から少し離れます。
こういう道なら多少は歩いていて楽しいのですが、やはりここもすぐに県道へ戻されました。
そして驚いたことに大きな道路沿いにもかかわらず、飲食店はおろかコンビニにすらなかなか行き当らず、昼食の確保にも苦労しました。
葛川一里塚
スタートしてから3里。葛川一里塚を過ぎると、いよいよ掛川の城下町が近づいてきます。
七曲りに差し掛かりました。
江戸時代、掛川の城下へ入った旧東海道は、防衛上の理由からか幾重にも鉤型に折られていました。
こちらのマップを参考に、七曲りを辿っていきます。
(見づらいですが、赤いラインが旧東海道)
道を間違えないように慎重に進みます。
趣のあるクランクですね。
そして・・・ついに掛川城に到着!
懸川に御泊り。
金谷からはおよそ15㎞、寄り道などをしながらのんびりと5時間弱の行程でした。
小夜の中山越えもなかなかのハードさでしたけど、何より日坂から先の長くて退屈な県道歩きが堪えました・・・。
太田牛一も「信長公記」で、田中を出発してから大井川や小夜の中山を越え、日坂に至るまでの道中は詳しく述べているのに、その先の掛川までの道中については一言も触れていません。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)
天正10年(1582)4月15日、甲州征伐からの帰路にある織田信長は、未明に田中(藤枝市)を出発し、この日は掛川まで進んでいます。
その旅路を追うため、私も金谷駅から旧東海道を掛川まで歩いてみることにしました。
まずは金谷坂の石畳で牧之原台地へ上がり、諏訪原城跡の方へ向かいます。
※金谷~諏訪原城跡までのルートは、3年前のコチラの記事で詳しく触れていますので今回は割愛します。
諏訪原城跡の案内標識が見えてきました。
旧東海道は諏訪原城のすぐ真横を通っています。
真木のゝ城右に見て、
※真木のゝ城=牧野城=諏訪原城
諏訪原城を過ぎ、今度は菊川坂の石畳で台地を下っていきます。
諏訪の原を下り、
石畳に沿って下っていくと、やがて金谷と日坂の間の宿・菊川の里へ至ります。
きく川を御通りありて、
菊川の里の外れで旧東海道は左へ鉤型に折れ、いよいよ小夜(佐夜)の中山峠への急坂に差し掛かります。
のぼれば、
半分ほど登って振り返った様子。
結構な急勾配をほぼ直登していきます。
辺り一面の茶畑・・・とっても静岡な光景。
やや右寄り、遠くに鉄塔のようなものが見えている辺りがピークになります。
ようやく登りきったところに建つ久延寺。
山号は佐夜中山です。ちょっと寄らせていただきました。
久延寺夜泣石
三位良政と月小夜姫の娘・小石姫の供養塔とのこと。
詳しいことはわかりませんが、小石姫は妊娠していたものの、どういった事情からか、小夜の中山の松の根元で自害したと伝えられているそうです。
小石姫の父母、三位良政と月小夜姫の供養墓も。
慶長5年(1600)には会津の上杉征伐へ向かう徳川家康を、時の掛川城主・山内一豊が久延寺に茶亭を設けてもてなしています。
写真の碑には「松平土佐守」とありましたので、天明9年(1789)の正月に山内一豊の子孫にあたる土佐藩主が、この時のことを記念して建碑したものでしょう。
※山内家の藩主は代々「松平」を称していました。
境内には他に、家康のお手植えと伝わる五葉松や、茶亭跡の碑などもあります。
また、久延寺から50mほど離れた場所には、家康に供する茶に使用した御上井戸も。
小夜の中山公園
最高点の標高は252m。小夜の中山は古くから箱根や鈴鹿峠と列び、東海道の三大難所として知られてきました。
さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。
なお、右に見えている円筒状のものは西行の歌碑です。
年たけてまた越ゆべしとおもひきや
命なりけりさやの中山
平安末期の歌人・西行法師の、新古今和歌集にも収録されている一首。
晩年になって、生涯2度目の小夜の中山峠越えをすることになった感慨を謡ったものです。
さて、ピークに登り切った先はなだらかな尾根道が続きますので、しばらくは景色を楽しみながらのんびりと西へ進みます。
佐夜鹿一里塚
一つ前(江戸寄り)は、この日のスタート地点である金谷一里塚になりますので、ようやく一里(約4㎞)歩いたことになります。
佐夜鹿神明社
尾根上を真っ直ぐに伸びる旧東海道。
白山神社の前を通過・・・長閑です。
東海道屈指の難所であった小夜の中山。
東海道を旅した多くの人々が当時の情景を歌や句に残しており、路傍には歌碑や句碑が点在していました。
涼み松広場
昔、ここには大きな松が生えていて、松尾芭蕉がその下で、
命なりわずかの笠の下涼み
と詠んだことから、「涼み松」と呼ばれるようになりました。
小石姫の墓
涼み松広場の向かいにひっそりと佇んでいました。
すると小石姫は、涼み松の根元で亡くなったということになるのでしょうか。
路傍に建つ夜泣石跡の碑
こちらにあった夜泣石は、久延寺の夜泣石とは別のものになりますが、やはり同じような伝説が残されています。
その昔、とある身重の女性が小夜の中山で山賊に襲われて亡くなります。
この時、女性の傷口から子供が生まれました。すると、女性の霊がそばにあった丸石に乗り移って泣いたため、泣き声に気付いた久延寺の僧が駆けつけて赤ん坊を発見し、保護しました。
赤ん坊は乳の代わりに水飴で育てられて成長し、やがて母の敵を討ったとも云われています。
(赤ん坊を育てた水飴は、現在では「子育飴」として小夜の中山の名物にもなっているようです)
共に妊娠していたとされる点で、小石姫のお話との関連も気になるところですね。
安藤(歌川)広重の絵碑
絵に描かれている通り、夜泣石は旧東海道の真ん中にありました。
明治天皇行幸の折りに道の脇(つまり現在の碑の位置か)に寄せられ、その後、博覧会に出品された後に現在置かれている小夜の中山北麓の県道沿いへ移されたようです。
まさしくここが、広重が描いた「東海道五拾三次 日坂 佐夜ノ中山」の絵の場所ということになります。
沓掛の集落まで来ました。
「沓掛」とは、旅人が峠の急坂に差し掛かった時、草鞋や馬の沓を捧げて安全を祈ったことに由来する地名なのだそうです。
確かに集落を抜けると、旧東海道は急激な下り坂に差し掛かりました。
このクネクネと曲がりながら下っていく坂は「二の曲り」と呼ばれていました。
坂の途中に建つ日之坂神社。
「日之坂」という名に、この先の日坂宿との所縁を感じます。
東海道、江戸から数えて25番目の宿場町・日坂宿が見えてきました。
こちらのマップでいうと、下の小夜の中山から沓掛や日之坂神社を抜け、国道や県道を越えて日坂宿に入ります。
日坂宿本陣跡
是れより、につ坂こさせられ、
日坂宿高札場
日坂宿を抜けると、旧東海道は県道415号に合流します。
(写真左が、日坂宿から続く旧東海道)
県道に合流する地点に建つ事任八幡宮。
遠江國の一之宮だそうです。
延々と続く県道歩き・・・時折こうして旧道へ逸れることもありますが、すぐにまた合流します。
日坂を過ぎてからの後半は、結構退屈な道のりとなりました。
伊達方一里塚
この日スタートしてから2里の地点。
再び県道から少し離れます。
こういう道なら多少は歩いていて楽しいのですが、やはりここもすぐに県道へ戻されました。
そして驚いたことに大きな道路沿いにもかかわらず、飲食店はおろかコンビニにすらなかなか行き当らず、昼食の確保にも苦労しました。
葛川一里塚
スタートしてから3里。葛川一里塚を過ぎると、いよいよ掛川の城下町が近づいてきます。
七曲りに差し掛かりました。
江戸時代、掛川の城下へ入った旧東海道は、防衛上の理由からか幾重にも鉤型に折られていました。
こちらのマップを参考に、七曲りを辿っていきます。
(見づらいですが、赤いラインが旧東海道)
道を間違えないように慎重に進みます。
趣のあるクランクですね。
そして・・・ついに掛川城に到着!
懸川に御泊り。
金谷からはおよそ15㎞、寄り道などをしながらのんびりと5時間弱の行程でした。
小夜の中山越えもなかなかのハードさでしたけど、何より日坂から先の長くて退屈な県道歩きが堪えました・・・。
太田牛一も「信長公記」で、田中を出発してから大井川や小夜の中山を越え、日坂に至るまでの道中は詳しく述べているのに、その先の掛川までの道中については一言も触れていません。
或いは当時も、さして取り上げるほどのものがなかったのでしょうか・・・?
それはさておき、400年以上の時を経てもなお牛一を介し、信長と同じ光景を共有していることを実感できる光景の連続に、大満足な歩き旅となりました。
この日は私も、懸川(掛川)に御泊り。(笑)
この日は私も、懸川(掛川)に御泊り。(笑)
| 固定リンク
「織田信長・信長公記」カテゴリの記事
- 有岡城(2024.01.18)
- 安土城、他(2023.05.28)
- 妙覺寺の特別拝観(2023.05.25)
- 大徳寺、妙心寺の特別拝観(第57回 京の冬の旅)(2023.03.06)
- 別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)(2022.12.07)
コメント