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2019年2月

2019年2月10日 (日)

近藤勇書簡三浦休太郎宛

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東京都日野市の佐藤彦五郎新選組資料館
平成31年2月10日より、大久野(東京都日の出町)の羽生家の蔵から昭和63年頃に発見された;
近藤勇書簡三浦休太郎宛
が特別展示されると聞き、早速訪れてみました。

坂本龍馬の暗殺(近江屋事件)を受け、いろは丸沈没事故の経緯から身の危険を感じた三浦休太郎(紀州藩)は京都守護職の松平容保を通じ、新選組に身辺警護を依頼します。
新選組は三浦の要請に応え、御陵衛士を脱したばかりの斎藤一(山口二郎)らを派遣しますが、この書簡はその二郎を少々必要とする件(少々相用候事件)が出来して、断りなく引き上げたことを詫びる内容となっています。
その日付は(慶応三年)霜月十八日。龍馬暗殺の3日後で、伊東甲子太郎ら御陵衛士の粛清を謀った油小路の変まさに当日です。
※派遣メンバーに斎藤一を加えたのは、御陵衛士から脱した彼を匿ってもらう意図をも含んでいたことが、やはり本書簡から読み取れます(二郎事潜伏之義如之御配慮奉多謝候)。

書簡は虫食いも殆どなく、とてもきれいな状態で保存されていました。
実際には三浦の元へ届くことはなく、どういう訳か新選組とは接点のない羽生家に伝来した書状・・・おそらくは近藤勇から佐藤彦五郎の手に渡り、彦五郎が羽生家に匿われた際(この経緯については、コチラの記事を参照)に当家に置いていったものと考えられています。
(三浦の元へ届けられていないことから、本史料を下書きとする説もあるようですが、下書きにしては校正による直しもなく、文字も丁寧に整然と書き上げられていました。本人は文末で多忙乱筆草々などと述べていますが)

私が訪れた時には他に来館者もなく、しばらくは佐藤福子館長と書簡について;

・近藤から彦五郎の手に渡ったタイミングはいつだったのか
・何故、油小路の変当日の日付になっているのか
来月上旬迄ニ者確報も可有之と述べている確報の内容とは、具体的に何を指していたのか

etc...いろいろと意見交換方々、じっくりとお話しさせていただけました。

この書簡が認められた日から一月も経たない12月7日には、龍馬暗殺を疑った海援隊士らによる三浦休太郎襲撃事件が発生し、三浦の警護に戻っていた斎藤一は手傷を負いながらも、なんとかその撃退に成功しています(天満屋事件)。

本書簡の特別展示に合わせ、通常は毎月第1・3日曜日のみの開館のところを、3月いっぱいまでは毎日曜日(但し3月10日を除く)開館するそうです。
ご興味をお持ちの方は是非、訪れてみてください。

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2019年2月 3日 (日)

さようなら、とうかん森。

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古くから付近に住む土方一族10家余りにによって祀られ、守り継がれてきた稲荷祠ととうかん森

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土方歳三の土方家(屋号「大尽」)はこの10家余りに含まれていませんが、歳三が生まれ、洪水被害によって現在の土方歳三資料館の地に移り住むまでを過ごした家が近くにあったらしいので、きっと幼い歳三少年も遊んだことがあったのではないでしょうか。

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周辺の住宅に危険が及ぶ恐れもあるとして、2011年には大規模な間伐も行われました。
しかしこの度、これ以上の維持は困難との氏子の皆様のご判断により、お稲荷様は2019年2月9日に返納されることに決したそうです。

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とうかん森の最後の姿をそっと、静かに目に焼き付ける。。。
お稲荷様の返納後、僅かに残された稲荷の森の大木も伐採されることでしょう。ゆくゆくは公園化する計画なのだそうです。

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この日は思いの外気温も上がり、ちょっと霞んでしまいましたが、とうかん森の奥には富士山も見えていました。
公園にした暁にはこの大木の木材でベンチでも作って、将来的にもこの地に残してくれないかなぁ・・・というのが、今の密かな願いです。

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大馬出先端の横堀 (滝山城)

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最近、「大馬出先端の横堀が伐採で綺麗に見えるようになった」との情報を受け、久しぶりに滝山城へ行ってきました。
図のでマーキングした部分です。

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二の丸南に位置する大馬出。

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南面の土塁上から見下ろす横堀。

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この横堀はずっと藪が生い茂っていて、一度も踏み込んだことはありませんでした。

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“折れ”もしっかりと確認できます。
今まで見れなかったものが見えるようになるのは嬉しいものですね。

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ついでにもう一つ、千畳敷に向けて突き出す角馬出も。

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こちらも整備により、以前よりも綺麗に見えるようになっています。

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先程の大馬出が本当に馬出かどうかは置いておくとして、こちらは歴とした馬出。
こじんまりとコンパクトな分、構造をよく見て取ることができます。

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ところで、千畳敷といえばとても残念な個所が・・・。
近年、北側の弁天池へ向けた斜面が、大雨によって崩落してしまったのです。

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弁天池から見上げる千畳敷方向(2013年撮影)
斜面に道や小曲輪のような痕跡が残されていたのですが、これらの遺構が一時に失われたのかと思うと無念でなりません。

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また、カゾノ屋敷か刑部屋敷だったかの土塁にも、通行禁止の立て札が。
こちらは、人が歩いて削れてしまった土塁を保護するための措置のようです。

土塁を保護するのなら、他にも・・・

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本丸東虎口のこの部分とか・・・

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二の丸枡形虎口のこの部分とかも、是非お願いしたいところ。

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今回新たに気付いたのが、小宮曲輪の虎口付近。
立派な枡形虎口があるにも関わらず、その先に立ち入り禁止の柵が立ち塞がっているためか、案内板の右横に踏み跡による傷みがクッキリと・・・。
僅か2年前の2017年3月に撮影した写真では確認できなかったので、ごく最近になってつけられてしまったものです。
大切な遺構なので、無闇に土塁に登ってはいけませんね。「城好き」こそ、気を付けないといけないこと・・・私も肝に銘じます。

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最近は、安全の確保や遺構の保護といった観点から以外にも、「園路ではないから」という理由での通行禁止の立て札が増えました。
写真は三の丸の横堀。

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こちらは、本丸南虎口を出た先の西側。

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図の通り、この先にもいい遺構がたくさんあるのですが・・・。

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小宮曲輪の横堀まで通行禁止になっていたのには驚きました。
物凄く見応えのある遺構なのに・・・。

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場所によっては、こうして見学させていただける箇所も。
(以前、コチラの記事でご紹介した小宮曲輪北にある枡形虎口一帯)

地権者のご都合とか、公園利用としての交渉とか、いろいろと致し方のない大人の事情があるのでしょう。
しかし、こうも制約が増えて見れる箇所が限られてくると、地元の人間としては;
滝山城の凄さはこんなもんじゃない!!
という思いが強くなるだけに、逆に胸を張って誇れる城跡ではなくなっていく感覚もジワジワと湧いてきてしまいます。

大好きな城跡なだけに、なんだか寂しい。。。

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2019年2月 2日 (土)

旧東海道歩き…六合~藤枝

旅のラストは六合駅から旧東海道を東へ、藤枝までの一駅間を歩いてみました。

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六合駅から県道381号を東へ進むと、すぐに島田市から藤枝市へ入ります。
この先の「一里山」交差点で、旧街道は右へ逸れていきます。

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目印は、道路脇に残る旧東海道の松並木。

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こうして松並木が残っていてくれると、旧街道を歩いている実感が湧いていいですね。

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逆光で酷い写真になっちゃったけど・・・上青島一里塚跡。

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この先は道幅が狭くなり、車の通りも多いので注意が必要です。

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染飯茶屋址の碑

瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて、皆道に人の知る所あり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

この前日に歩いた金谷から掛川までの旧東海道の記事でも触れましたが、織田信長は甲府からの帰路、天正10年(1582)4月15日、未明に藤枝市の田中を出発してこの付近も通過しているのです。

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瀬戸の染飯はこの上青島村瀬戸町(現藤枝市上青島付近)にあった茶屋で、戦国期から売られてきた東海道の名物の一つです。
包装紙の版木は、茶屋の御当主の一子相伝なのだそうです。

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また、この地には千貫堤と呼ばれる大きな堤防が築かれていました。
千貫堤は寛永12年(1635)、大井川の洪水から田中藩領を守るため、千貫もの大金を投じて築かれました。高さ3.6m、幅29m、総延長は約360mもありましたが、現在はそのごく一部を残すのみとなっています。

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近くの千貫堤・瀬戸染飯伝承館では、染飯の染料となるクチナシの実を乾燥させていました。
染飯の版木のレプリカなども展示されています。

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伝承館の北側に、僅かに残る千貫堤の痕跡。
染飯茶屋の御子孫は、現在もこの地にお住まいなのだそうです。

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再び旧東海道へ戻ります。

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東海道追分の碑
中世の頃までこの付近には湿地が多く、東から西へ進む古道は藤枝の先から大きく南へ迂回して、この石碑の建つ辺りへ繋がっていました。
近世東海道が通った後も古道は残り、いつしか2つの道の交錯点を追分と呼ぶようになったそうです。

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また、更に西へ進む中世までの古東海道は「瀬戸の山越え」と呼ばれ、瀬戸山(昭和30年代、東京オリンピックに向けた高速道路建設等の開発のために消滅)の上を通っていました。
道の歴史も辿っていくと、いろいろと奥が深いですね。

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今回はほぼ舗装路の上を歩くだけの旅となりましたが、様々な歴史に触れることができて楽しめました。
こうして少しずつ東海道をめぐり、いずれは京都までを1本に繋げてみたい、などと野望を抱いたりして・・・!?

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2019年2月 1日 (金)

掛川古城

掛川で迎える旅の2日目。
まずはホテルを出てぶらぶらと散策し、近世掛川城の脇を抜けて掛川古城へ向かいました。

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掛川古城の主郭には龍華院大猷院霊屋が建っています。
明暦2年(1656)、掛川藩主・北条氏重が幕府に願い出て、徳川家光を祀るために建立しました。
一説には、嗣子のない氏重による無嗣断絶を回避するための打開策だったともされますが、万治元年(1657)に氏重が没すると領地は没収され、断絶となってしまいます。

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主郭東面に残る土塁。
掛川古城は西暦1500年前後、今川氏親の命を受けた朝比奈泰熈により、遠江支配の拠点として築かれました。
1513年には早くも、現在の掛川城跡の位置に新たに築城して移っていますが、1568年に武田軍に駿府を追われた今川氏真がその掛川城へ逃げ込むと、今度は徳川家康が掛川城を包囲します。
その際、家康はこの掛川古城跡に本陣を置いたとも云われています。

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土塁の先に見えている堀切。

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掛川古城の大堀切。

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掛川古城と、近世掛川城との距離感。

さて、この後は電車で少々移動します。

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