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2019年3月14日 (木)

天正10年4月17日の織田信長

四月十七日、浜松払暁に出でさせられ、今切の渡り、御座船飾り、御舟の内にて一献進上申さるゝ。其の外、御伴衆の舟数余多寄せさせ、前後に舟奉行つけ置かれ、由断なくこさせらる。御舟御上りなされ、七、八町御出で候て、右手に、はまなの橋とて、卒度したる所なれども、名にしおふ名所なり。(中略)しほみ坂に御茶屋、御厩立て置き、夫ゝの御普請候て、一献進上候なり。晩に及びて雨降り、吉田に御泊り。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月17日、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は明け方に浜松を出発し、この日は吉田(愛知県豊橋市)まで進んでいます。
私もその旅の足跡を歩いて辿ってみることにしましたが、浜松からでは距離が長くなってしまうため、少し西へ進んだ舞阪駅をスタート地点に選びました。

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舞阪駅から少し南へ向かって旧東海道へ出ると、それは見事な松並木が出迎えてくれました。
この松並木は約700mも続き、旧東海道の風情を楽しませてくれます。

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松並木が終わると国道301号(右)との交差点に出ますが、旧東海道は松並木からの直進方向、左の道を進みます。

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見付石垣
舞坂宿の東の玄関口にあたります。

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舞阪一里塚と新町常夜燈
日本橋より68里目の一里塚のあった場所で、常夜燈は文化12年(1815)の建立。

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舞坂宿脇本陣

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そのまま真っ直ぐ進み、浜名湖畔に出た突き当りが今切の渡し、舞阪側の渡船場の一つ、本雁木跡。
舞阪側には南雁木・本雁木・北雁木と三つの渡船場がありましたが、南は荷物の運搬用、北は主に大名や幕府公用人が利用し、こちらの本雁木が一般の旅人が最も多く利用した渡船場でした。

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本雁木から、浜名湖畔を少し北上した先に北雁木。
石垣も残り(一部は昭和に修復)、石畳が水際まで敷き詰められています。

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今切の渡しは明応7年(1498)、そして永正7年(1510)の度重なる震災で浜名湖から遠州灘へ流れ込んでいた浜名川が決壊し、湖と海が繋がったことにより設けられた渡船場でした。

弁天島駅の辺りで国道301号に出て、しばらくは延々と退屈な国道歩きが続きます。

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新居町駅前を過ぎ、(現代の)浜名橋を越えると・・・
※なお、この先は豊橋の一つ手前、二川駅まで旧東海道は鉄道路線を大きく逸れてしまうため、覚悟を決めて歩き切らなければなりません(;・∀・)

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今切の渡しを往来する旅人らを監視した、新居関所が待ち受けます。
元禄12年(1699)、宝永4年(1707)の災害による2度の移転を経て現在地に至り、嘉永7年(1854)の地震で倒壊したものの、安政2~5年(1855~1858)にかけて再建された建物が現存しています。主要街道の関所建物では、唯一の現存なのだそうです。
手前は新居関所がこの地に移って以降の、今切の渡し新居側の渡船場跡(復元)。

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旅人らを取り締まる関所役人らが居並びます。

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壁には徳富蘇峰の墨跡も。

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無事に関所を通過した後は、あちらの突き当りを左へ進みます。

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新居宿の旅籠、紀伊国屋。

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愛宕山の麓を回り込み、橋本で県道417号に出た先に、風炉の井の石碑。
建久元年(1190)、源頼朝が上洛の折に、この井戸の水を茶の湯に用いたとされています。

ここで一旦旧東海道を離れ、県道417号の更に南へ向かいました。

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浜名橋跡
その昔、浜名川に架けられていた橋で、古くから歌枕にも詠まれる風光明媚な景勝地として知られていましたが、明応7年の地震による川の決壊で流失しました。
旧東海道の橋本から2~300mほど南に位置します。

御舟御上りなされ、七、八町御出で候て、右手に、はまなの橋とて、卒度したる所なれども、名にしおふ名所なり。

牛一は舟から上がった後、7~8町(約760~870m)進んだ先の右手はまなの橋があったと書いていますが、江戸期の旧東海道からは左手になります。
この時の信長一行は、もっと南の海岸寄りを通行したのでしょうか・・・?

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浜名橋跡から南、海岸寄りの方向を見た様子。

それとも、そもそも浜名橋は天正10年の時点でとっくに失われていたはずなので、どこか別の場所に架けられていた橋をはまなの橋としていたのか、はたまた単なる左右の記憶違いか・・・?

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さて、旧東海道に戻ります。
写真は県道417号の橋本西交差点。ここで県道を離れ、右へ進路をとります。

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紅葉寺跡
室町幕府6代将軍・足利義教が永享4年(1432)、富士遊覧の際に立ち寄って紅葉を鑑賞したことから紅葉寺と呼ばれるようになったとか。
建久元年、橋本に宿泊した源頼朝の寵愛を受けた娘が後に出家して妙相と号し、高野山から毘沙門天立像を勧請して創建した寺と伝えられています。

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また松並木が出てきました。
この時点で既にかなり足や腰にきていましたが、この松並木のお陰で気持ちは癒されました。

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新居宿と、この先の白須賀宿の間に設けられていた立場(旅人や人足らの休憩のための茶屋)跡。

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明治天皇御野立所址
明治元年(1868)10月1日、東京へ行幸する明治天皇が豊橋から新居へ向かう際に休憩した地。

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微妙なアップダウンを繰り返しながら続く旧東海道。

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立派な門構えのお屋敷もありました。

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ひたすら西へと歩を進め、国道42号や潮見バイパスの高架が視界に近づく辺りまで来ると、いよいよこの日、私が最も楽しみにしていたポイントに差し掛かります。
この路地を右へ曲がった先が・・・

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旧東海道の名所の一つ、潮見坂への登り口です。

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1月に登った小夜の中山ばりの急傾斜・・・疲れ切った足腰にはかなり堪えます・・・。

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歌川広重が描いた潮見坂・・・

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その現代版。

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潮見坂上からの眺め。
海の青さがとても沁みました。。。

しほみ坂に御茶屋、御厩立て置き、夫ゝの御普請候て、一献進上候なり。

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潮見坂公園跡
ここの案内板にも;
「天正一〇年(一五八二)織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張へ帰る時、徳川家康が茶亭を新築してもてなした場所が、ここ潮見坂上です。」
とありました(尾張というよりは安土へ、だと思うけど・・・)。
信長もこうして、この付近のどこかに用意された茶屋から太平洋の大海原を愉しんだことでしょうね。

また、潮見坂上は明治天皇が東京への行幸の折、初めて太平洋をご覧になった場所でもあるのだそうです。

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潮見坂の先、白須賀宿の曲尺手(かねんて)
鉤の手状に曲げられた道のことで、防衛上の理由の他に、参勤交代の大名行列が鉢合わせをしないようにする役割もあったのだとか。
物見役が曲尺手の先へ先行し、他の大名行列と鉢合わせしそうな時は、格下の大名一行は休憩を装って最寄りの寺に避難したりしたそうです。

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白須賀宿を抜け、この先の緩やかな坂を上りきると県道173号、更に先の一里山東交差点で国道1号に出ます。

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旧東海道が国道1号に合流してすぐの地点、一里山の一里塚。
藪で見えづらいですが、よくぞこんな国道沿いに残っていたものです。

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終盤に来てのこの、延々7㎞近くも続く国道1号歩きがとにかく退屈でしんどかった・・・。

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疲労と足腰の痛み、そして退屈さに倦みながらもようやく辿り着いた二川ガード南交差点を右へ折れて新幹線の線路をくぐり、更に東海道本線の踏切を越えた先が・・・

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東海道五十三次中、お江戸日本橋から33番目の宿駅となる二川宿です。

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二川宿本陣跡

あわよくば豊橋まで歩き切ってやろうかとも考えていましたが、気力も体力も時間も残っていなかったので、この日の旧東海道歩きは二川宿でゴールとしました。
後で計測したところ約22㎞、6時間かけての行程となりました。

二川駅から豊橋まで東海道本線で移動し、路面電車を乗り継いで・・・

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吉田城へ。

晩に及びて雨降り、吉田に御泊り。


吉田城で友人の車に拾ってもらい、夜は岐阜で懇親会♪
翌日は岐阜から、まるで信長の凱旋旅最終日のように旧中山道を押さえつつ安土へ移動、文芸の郷セミナリヨで開催されたシンポジウム「信長の城と戦国近江」に参加してきました。

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