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2019年4月

2019年4月21日 (日)

特別展「土方歳三」(没後150 歳三×日野)

2019(平成31/令和元)年は、土方歳三の没後150年。
彼の故郷である日野市では「没後150 歳三×日野」と銘打ち、講演やイベントなど様々な企画が予定され、且つ進行中です。

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その一環で、新選組のふるさと歴史館では4月20日~6月30日までの期間、土方歳三 史料から見たその実像という特別展が開催されています。
その開催初日となる4月20日、さっそく足を運んでみました。

これから行かれる方のためにも詳細は省きますが、土方歳三の名が史料上に初めて登場する天保11年(1840)の宗門人別書上帳下書から始まり;
第Ⅰ章 石田村の土方歳三
第Ⅱ章 浪士組から新選組へ
第Ⅲ章 戊辰戦争での奮闘
第Ⅳ章 箱館での最期の戦い
第Ⅴ章 語り継がれる土方歳三
という構成で、数多くの貴重な関連史料が並べられています。

中には;
・2014年に発表された本願寺文書諸日記関連記事
・土方や斎藤一、藤堂平助、伊藤甲子太郎らが宿泊した記録の残る草津宿本陣大福帳関連記事
・母成峠での敗戦後、猪苗代から援兵を請う土方歳三書状内藤介右衛門、小原字右衛門宛関連記事
などまでもが・・・函館からも多くの史料が出展されており(明治初期に撮影された軍艦「回天」の残骸写真には感動)、没後150年の特別展に相応しい、まさに全国規模の力の入った展示構成だと感じました。

2Fでは大河ドラマ「新選組!」で使用された小道具などが展示されており、個人的にツボったのは箱館の地形模型
・・・大河の続編「土方歳三最期の一日」で、大鳥圭介(吹越満)が喚きながら引っ繰り返していたアレ、ですね(笑)

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図録は2,000円也。ついでにマグカップもお買い上げ~♪

開催期間は2ヶ月以上もありますので、興味をお持ちの方は是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
本特別展では複製展示だった鎖帷子などの原史料は、彼の生家である土方歳三資料館にありますし、そちらの開館日に合わせて訪れるのもいいかもしれません。


※弘化3年(1846)の洪水による被害状況を記録した石田村絵図では、確かに土方の生家が被害を受けたことを確認できました。現在の土方歳三資料館は、その洪水後に越した地になります。

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2019年4月 7日 (日)

野田・福島攻めと本願寺の蜂起

先日、大阪へ出張する機会がありましたので、そのついで(?)に織田信長による野田・福島攻めの舞台を少しめぐってみました。

元亀元年(1570)、細川昭元・三好長逸・三好康長・安宅信康・十河存保・篠原長房・石成友通・斎藤龍興・長井道利らが立て籠もる摂津の野田・福島両城攻略のため、信長は8月20日に岐阜を出陣して横山城・長光寺城・本能寺・枚方を経由し、同月26日、軍勢を天満ヶ森・川口・渡辺・神崎・上難波・下難波・浜の手などへ配し、自らは天王寺へ着陣しました。
姉川合戦から僅か2ヶ月ほど後のことです。

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玉川4丁目交差点付近に建つ野田城跡の石碑。

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野田御坊極楽寺

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こちらは極楽寺前に建つ野田城址碑。
周辺には最早、かつてここに城が存在した痕跡は残っていません。
福島城に至っては、その位置すらもよく判っていないようです。

天王寺に着陣した信長は、ろうの岸川口に砦を築かせて諸将を配備した後、

九月九日、信長公、天満ケ森へ御大将陣を寄せさせられ、次の日、諸手より、うめ草をよせ、御敵城近辺にこれある江堀を填めさせられ、
(信長公記 巻四「野田・福島御陣の事」より。以下、青文字引用同)

本陣を天満ケ森まで移し、包囲を狭めていきます。
「細川両家記」にも日付こそ違えど;
七日に、信長天王寺より中島天満森へ陣替候なり。(以下、緑文字引用同)
とあります。

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大阪天満宮近くに残る星合の池

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案内板によると「石山軍記」天正二年(1574)の項に;
「天満山の北、明星の池、星合の池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き」
と記されているようですが、天正2年は4月に一度、本願寺周辺を刈田・放火させたことはあるものの、それ以外に大坂での目立った戦陣は記録されていません。
本願寺を攻める際、地形的にも上町台地の先端に位置する本願寺から見下ろされるような位置にわざわざ本陣を布くとは考えづらく、むしろ野田・福島攻めの時と混同しているのかもしれません。

九月十二日、野田・福島の十町ばかり北に、ゑび江と申す在所侯。公方様・信長公、御一所に詰め陣に御陣を居ゑさせられ、

九月十二日に、中島の内浦江と申所に、御所様入城なり。(中略)信長は、御所様御近所に御陣取由候なり。諸勢は敵近に堤田の中に陣屋かけられ候と申候。
※浦江=海老江

9月12日、信長は本陣を更に移動し、中島城に着陣していた足利義昭と共に野田・福島両城から僅か1㎞ほど北に位置する海老江に布陣しました。

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海老江八坂神社
村の旧記で永徳3年(1383)の霜月に社殿が再建されたことが確認できるため、それよりも古い歴史を有します。
野田・福島攻めの際、織田信長は荒木村重を遣わし、陣馬・陣刀を奉納して戦勝を祈願させたと伝えられています。

ところで、織田軍の諸勢は堤田の中に布陣しています。
天満ヶ森へ本陣を移した際にも、敵城近くにあった江堀うめ草を集めて埋めさせたとありましたが、当時、この辺り一帯は大小の河川が複雑に入り組む湿地帯でした。
現在も、八坂神社のすぐ近くには淀川が流れています。

ここで織田方に雑賀・根来・湯川などから、鉄砲3,000挺を含む20,000の援軍も参陣し、天王寺や住吉、遠里小野に陣取って野田・福島攻めに加わりました。
敵味方が放つ鉄砲の音で、戦場は日夜天地も響くばかりであったと云います。

然れば、野田・福島種々懇望致し、無事の儀申し扱ひ侯と雖も、迚も程あるべからずの間、攻め干さるべきの由侯て、御許容これなく、

織田の大軍による猛攻に耐えかねた籠城側は和議を申し入れますが、もはや攻略にそれほど時間もかからないと判断した信長は、これを認めずに攻城を続けました。
すると・・・

野田・福島落去侯はぱ大坂滅亡の儀と存知侯歟、
九月十三日夜中に手を出し、ろうの岸・川口両所の御取出へ大坂より鉄炮を打ち入れ、一揆蜂起侯と雖も、異る子細なく侯。

野田・福島が落城すれば、大坂=本願寺も滅亡すると考えたのか、突如として本願寺が蜂起し、織田方の陣所へ攻撃を加えてきました。

「細川両家記」にも;
野田福島一途以後は、大阪へ可被取懸候由風聞候也。

とあることから、野田・福島の後は本願寺が攻撃される、という風聞は確かに流れていたようです。
牛一は「信長公記」に異る子細なく=別にたいしたことはなかった、と記していますが、「細川両家記」には;

九月十二日夜半に、寺内の鐘撞かれ候へば、即人数集けり。信長方仰天也と云。

とあります。
本願寺の目と鼻の先、足元のような天満ヶ森に布陣したり、ろうの岸に砦を築いたりしていることからも、信長は本願寺の蜂起を全く予期していなかったように思えます。
※ここでも両史料間に日付の相違がありますが、本願寺の蜂起は9月12日が定説になっているようです。

河端の堤をわざと切ければ、水内へ入候得ば、信長方の陣屋共悉つかり、難儀に及候由。

本願寺勢に堤を切られ、堤田の中に布陣していた織田方の陣屋はことごとく水に浸かって難儀しました。
その後も何度か衝突があったようですが、22日になって信長の元に、近江で朝倉・浅井の軍勢が南進して京に迫っている、との急報が届き、信長は23日に摂津の陣を引き払って京へと急ぎ引き返し、朝倉・浅井勢に対処することにします。
こうして戦局は摂津から、志賀の陣へと移っていくのでした。


ところで、東淀川区にある定専坊というお寺には、本願寺で使われていた鐘が残っているというので、そちらにも足を運んでみました。

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今里筋線「だいどう豊里」駅から西へ800m、こうした趣ある路地を抜けて・・・

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定専坊に到着。
行基菩薩による創建とされ、元は真言宗に属する西光寺というお寺でしたが、本願寺第八代法主蓮如に帰依した当時の住職浄賢によって浄土真宗に改宗され、寺号も定専坊に改められました。
浄賢の孫了賢は、織田信長と本願寺による石山戦争において本願寺側に立って活躍したことが、古い文献にも記されているようです。
顕如上人の消息の他、荒木村重や鈴木孫一の書簡なども残されているそうです。

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こちらが天正8年(1580)、教如らが退去した後に出火した本願寺から運び出されたと云う鐘

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先程も「細川両家記」から引用しましたが、本願寺は信長に対して蜂起する際、鐘を撞いて軍勢を集めたと云います。
或いはこの鐘がその時の・・・と考えると、なんだか身の震える思いがします。

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境内には楠一族の墓碑もありました。
楠木正成の孫にあたる正勝がこの地に隠棲したことによるもので、正勝とその子の正盛・信盛を供養する五輪塔とのことです。
浄賢や了賢は楠(楠木)氏を祖としていたようです。

2014年に、天王寺の戦いの関連地をめぐって以来に訪れた大阪。不慣れな身には電車の移動ルート選択ですら、なかなかハードルが高かったです。
今回は日帰りで時間もあまり取れなかったので、いずれまた地形や詳細な位置関係を把握しつつ、じっくりと検討を加えながらめぐってみたいと思います。

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