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2019年5月 1日 (水)

深沢城

平成最後のGW。大型10連休の幕開けとなった4月27日は駿東地区の城めぐりドライブです。
渋滞を避けるため、夜明け前の午前3時に自宅を出発し、集合場所の道の駅ふじおやま(静岡県小山町)には4時30分に到着。
約束の時間まで仮眠を、と思ったものの、想定以上の冷え込みで結局眠れず仕舞い・・・。

午前8時、無事に到着した美濃、及び遠江からの仲間と合流し、まずは御殿場市深沢の・・・

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深沢城へ。
城址碑の奥に、早くも空堀跡が見えています。

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深沢城図
馬伏川と抜川が合流する段丘の先端に築かれていました。

※現地案内板では一番北の郭を本丸とし、そこから南へ順に二の丸、三の丸としていますが、多くの方々が指摘されているように、我々も実際に歩いてみて、主郭は真ん中の二の丸とされている郭だろうと感じました。
従いまして当記事では、上の図に青文字で書き入れたように、北から順に「北郭」「主郭」「南郭」として進めていきます。

永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄が駿河へ侵攻したことにより、甲相駿三国同盟は破綻をきたします。
この深沢城は、大宮城(富士宮市)や興国寺城(沼津市)と共に、興津川を挟んで武田氏と対峙する北条氏の薩た山や蒲原城といった最前線を支える拠点の一つとなります。
そして翌永禄12年(1569)6月に大宮城を信玄に落とされ、更に12月になって蒲原城(静岡市)をも攻略されたことで、北条氏は薩た山の陣所も維持できなくなり、富士川以西の拠点を全て失うことになります。これにより、深沢城は興国寺城と共に対武田の最前線に立たされることになりました。
北条氏は北条綱成を城将として深沢城の守備を固めていましたが、元亀元年(1570)12月、遂に信玄率いる武田軍に包囲されるに至ります。
信玄は城内に降伏を促す矢文を射かけさせたり、黒川金山の金山衆に城の「本城の外張」まで横穴を掘らせるなどして揺さぶりをかけ、翌元亀2年1月16日、深沢城を開城させることに成功しました。
これ以降、深沢城は天正10年(1582)の武田氏滅亡まで武田氏の支配に属し、その後は駿河に入った徳川氏の下で北条氏に対する境目の城として維持されますが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると廃城となりました。

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城址碑の背後、南郭の横堀。

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南郭に隣接する馬出し。
半円状の丸みを帯びた形状がよく見て取れます。

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横堀越しに南郭。
写真中央奥の茂みは、主郭との間の横堀になります。

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南郭と主郭の間に設けられた馬出し。
「下馬溜」とされている箇所です。

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南郭~主郭間の横堀。

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この南郭~主郭間の堀には「二鶴様式の堀跡」との標柱がありました。
同行者とも「この先で主郭方向と南郭方向へと分岐する堀の形が、翼を広げて飛ぶ鳥のように見えるからかな?」などと話しましたが、結局のところは理解するに至りませんでした。

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主郭南側。
土塁のように一段高くなっていますが、用水路を通すために切られた箇所もあり、実際にどのような形状をしていたかは不明です。この奥にも分け入ってみましたが削平は甘く、用水路の敷設などで崩されているのかもしれません。
南郭との間に高低差を設けるための措置か、或いは櫓台のようなものがあったのかも・・・とも考えました。

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主郭(北方向)
付近には「食糧庫跡」の標柱が立ちます。
先程の南側よりは一段低くなっていました。

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主郭から北郭への土橋。

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土橋脇の横堀。

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北郭側から主郭を見る。
主郭の方が一段高くなっています。

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図には何故か描かれていませんが、主郭~北郭間にもやはり馬出しが置かれていました。
こうした地表面の高低差や、南北両サイドの郭との間に馬出しを配して防備を固めていることなどから、やはり中央の郭が主郭だったのだろうと思います。

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広大な北郭。

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眼下を流れる馬伏川越しに城域を振り返る。
信玄の命を受けた金山衆は果たして、どこから掘り進んで城を崩しにかかったのでしょうか・・・。

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城外に出て、馬伏川の畔から北郭の断崖を仰ぎ見る。

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少し場所を移し、最初の城址碑から車道を挟んだ西側にある堀跡。
「三日月堀」との標柱も立っていますが、図面を見る限りは南郭の横堀が車道によって分断され、然も三日月のような形になっただけでは・・・?
(城址碑裏の堀も同様)

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南郭に祀られている八幡宮のお社。

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深沢城からは、富士山の雄大な姿を間近に拝むこともできます。

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近くの大雲院山門は、深沢城の大手門を移築したものと伝わります。
大正12年(1923)の関東大震災で倒壊していますが、昭和25年(1950)に再建されました。

大雲院の周辺には大雲院土居や宝持院土居などがありますが、これらが深沢城の惣構えの南限を示しているのかもしれません。

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某地図アプリを見ているうちに、城址の北東4~500mほどの地点に「信玄塚」の文字があるのに気付き、立ち寄ってみました。
碑や案内といったものは一切ありませんでしたが、どうやらここが、深沢城を攻める信玄が本陣を布いた場所と伝えられているようです。
・・・すると信玄はここから深沢城を眺め、矢文を射かけたり、金山衆を用いる作戦を命じていたのでしょうか。

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