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2019年5月

2019年5月29日 (水)

井上源三郎資料館の蔵

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佐藤彦五郎新選組資料館の後(前記事)は、井上源三郎資料館へ。
資料展示室にもなっている蔵が建て替えられることになったと聞き、その解体前最後の公開(開館)日となった5月26日、急遽訪れることにしました。

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この蔵は明治初期、日野義貴宅から移築されたものとのこと。
湿度が高く、資料の保存に適さないと判断されたそうです。

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記念として、お煎餅もいただきました。

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「誠」の蔵、現代の日野宿のシンボリックな建物の一つにもなっていたので寂しいですが、大切な資料を守り伝えていくための措置・・・致し方のないところですね。

※近藤勇が井上松五郎に贈った大和守源秀國の刀身も公開されていました。
久しぶりの拝観となったのですが、改めてその美しさに見惚れました。単純に刀身の姿形だけの比較ならば、和泉守兼定や越前康継よりも、この秀國の方が個人的には好きかもしれません。

建て替え後の再開は10月とのこと。その時にまた訪れたいと思います。

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2019年5月28日 (火)

釼術覚帳 (古谷家所蔵)

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5月26日(日)はまず、佐藤彦五郎新選組資料館へ。
この日から公開される、古谷家で見つかった天然理心流の釼術覚帳(万延二年 古谷祐之助)を拝観いたしました。
※古谷祐之助は、日野宿の組頭を務めていた人物とのことです。

何度か登場する土方歳三の名前の表記は全て「年蔵」でした。
以前から、多摩に残る土方上京前の関係史料では「歳蔵」「年蔵」と表記しているものが多いように感じていましたが、これには何か理由でもあるのでしょうか。
いくら当時は当て字を用いることも多かったとはいえ、土方本人が認めた書状などの署名は「歳三」となっていますし、「蔵」より「三」の方が書くのも楽だと思うのですが・・・多摩の人々は、土方の名前の表記を「蔵」で認識していたのでしょうか。

当て字といえば、山南敬助の名前は「三南敬助」となっていました。
以前からも指摘されていたことですが、やはり彼は「やまなみ」ではなく「さんなん」と呼ばれていたことは、ほぼ間違いのないところでしょう。

同史料には佐藤彦五郎の長男、源之助の名前も見えました。
万延二年といえば1861年。源之助は当時、僅か12歳の少年でした・・・幼い頃から熱心に稽古に励んでいたのですね。

また、特別公開最終日となった越前康継の刀身も拝観いたしました。

釼術覚帳の公開は8月18日までとのことです。

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2019年5月27日 (月)

小栗上野介 最期の地をめぐる

今回は群馬県高崎市倉渕までドライブし、小栗上野介ゆかりの地をめぐってきました。

小栗上野介忠順
小栗家は徳川家譜代の旗本。忠順は安政7年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節の一員(目付)としてポーハタン号で渡米し、帰国後は江戸町奉行や勘定奉行、軍艦奉行、外国奉行などの幕府要職を歴任します。
その間、幕府の財政再建に携わり、洋式軍隊の整備や横須賀製鉄所(造船所)の建設を推し進めるなど、日本の近代化にも功績を残しました。

慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見戦後、江戸に帰還した徳川慶喜に対して主戦論を唱えますが退けられ、同年3月、領地の上野国権田村(群馬県高崎市倉渕)に隠棲します。
後に、彼が唱えた「陸軍を以って箱根で待ち受け、榎本の艦隊を駿河湾に展開させて海陸両面で新政府軍を迎撃する」という作戦を耳にした大村益次郎は、「もしそれが実行されていたら、今頃は我々の生命は危うかっただろう」と語ったとも云われています。

権田村隠棲後は、村人のための水路を開くなどして暮らしていましたが、閏4月4日、襲来した新政府軍に捕縛され、まともな取り調べもないままに2日後の閏4月6日、烏川の水沼河原において家臣3名と共に斬首されました。
権田村に移り住んでから、僅かに2ヶ月後のことでした。

日本の近代化に寄与した小栗の功績は、後に明治政府の要人となった大隈重信や東郷平八郎らからも評価され、作家・司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と評しています。
(幕府内においてライバルでもあった勝海舟などは、小栗の死後も世知辛い見方をしていたようですが・・・)

道の駅くらぶち小栗の里に車を置かせてもらい、まずは小栗らが斬首された烏川の水沼河原へ。

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国道406号から、烏川に架かる県道125号へ進路をとると、小栗最期の地に建つ顕彰碑が見えてきました。

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偉人小栗上野介
罪なくして此処に斬らる

昭和7年の建碑です。
当時は碑文の「罪なくして」という表現が問題視され、苦労も多かったそうです。

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現在の烏川

そのまま徒歩で、今度は小栗が引かせた小高用水を目指します。

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目指す小高の集落は、この急坂を上った先・・・
(旧東海道の小夜の中山や潮見坂ばりにきつかった・・・)

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小高の集落
奥には榛名山も見えています。

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小高用水
水利に恵まれない小高の村人のため、慶応4年(1868)4月に小栗が器械測量で水路を定め、村人の掘削によって完成した用水路です。長さは1.2㎞余り。

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用水のお陰で、今もこうして水田が潤っているのですねぇ・・・。

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丘陵上とはいえ、小高の集落はこうして周辺より一段低い場所に位置しています。
こうした地勢も、小高が水利に恵まれてこなかった一因だったのでしょうか。

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続いて小栗の墓所がある東善寺へ。

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東善寺は権田村へ移った小栗一家が、屋敷完成までの仮住まいとしたことでも知られています。
※当時の本堂は昭和初期に焼失。

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境内にある小栗上野介忠順の胸像。

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小栗上野介と、無実訴願のために遣わされた高崎城内で処刑された養子・又一忠道の供養墓。
周辺には家臣らのお墓も並んでいました。

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供養墓の傍らに生える小栗上野介遺愛の椿には一輪だけ、綺麗な花が残っていました。

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小栗父子の本墓。
先程の供養墓から更に石段を上った先、山の中腹にあります。
処刑後、小栗の胴は村人の手によってこの地に埋葬され、首は養子又一の首と共に総督府のあった館林へ送られて後、法輪寺へ埋葬されました。
その一年後(1869)、一周忌の夜に権田村の百姓代らが法輪寺より父子の首級を奪い、改めてここ東善寺に改葬したと云われています。

遺品館や庫裡・本堂では;
・小栗がアメリカから持ち帰ったネジや、
・水沼河原へ連行される際に乗せられた駕籠、
・東郷平八郎が「日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所(造船所)を作った小栗氏の功績によるところが大きい」として、明治45年(1912)に忠順の孫(身重の妻が会津へ逃れた後に産んだ実子・国子の子)の又一に贈った「仁義禮智信」の書、
など、多くのゆかりの品や史料を拝観させていただきました。

最後は東善寺の南東1㎞、観音山に築かせていた小栗邸跡へ。

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登り口からして道が細くて心許ないのですが、東善寺のご住職から「ちょっと勇気が要るけど、舗装されていて車で上がれる」と伺ったのでトライしましたが・・・

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まー怖かった(;^_^A
道幅は乗用車一台がやっとの狭さで、路面の舗装は随所で崩れ、左右には今にも崩落しそうな斜面と切り立った崖。。。
そんな、ヘアピンもあるクネクネとした林道を細心の注意を払いながら登ること5分・・・やっとの思いで駐車スペースに到達しました。。。まだ下りの恐怖が残っているけど。

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観音山小栗邸跡

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削平地には今も随所に礎石が残っていました。

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屋敷地に引き込まれた用水路。

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小栗邸跡からの眺め。

権田村へ移り住み、東善寺に仮住まいしながら屋敷の建設を進めていた小栗上野介。
しかし新政府軍は、この屋敷建設をも「陣屋を厳重に構え」て、小栗に「反逆の企てあり」との口実にしたとか。

権田村での後進の育成と、静かな余生を思い描いていたであろう小栗上野介。
しかし、その思いは僅かに2ヶ月後、突如として理不尽にも掻き消されてしまったのでした。

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なんとか無事に下山した後は、ドライブ旅の締め括りに麓の「満寿池」さんで名物の「ます重」に舌鼓。
お蕎麦も美味しかった。

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2019年5月19日 (日)

上杉堂(高幡不動尊)

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先週のひの新選組まつりに引き続き、2週続けての高幡不動尊

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その境内の片隅に建つ、上杉堂と呼ばれる小さなお堂。
こちらは室町中期の武将、上杉憲秋(憲顕)の墓所とされています。
※現地案内板では「憲顕」としていましたが、一般的に「憲秋」と表記されることが多く、「憲顕」は山内上杉家の始祖で初代関東管領に就いた人物とも重複するため、当記事でも「憲秋」と表記します。

憲秋は室町期、関東管領を務めた上杉氏の一族で犬懸上杉家の出身。父はあの上杉禅秀・・・鎌倉公方・足利持氏と争った上杉禅秀の乱(1416~1417年)で有名な人物ですね。

享徳3年12月(1455年1月)、時の鎌倉公方・足利成氏による関東管領・上杉憲忠謀殺を発端として、享徳の乱が討伐が勃発します。
憲秋にとって成氏は、父・禅秀の仇ともいえる足利持氏の子。憲秋も関東管領方の一手として成氏討伐に立ち上がり、翌享徳4年1月(1455年1月)の分倍河原の戦いに於いては先鋒を務めますが、立河原(東京都立川市)付近で成氏軍の奇襲を受けて重傷を負いました。
家臣の手で何とか戦場は逃れたものの、この地(高幡寺)で自害して果てたと伝えられています。

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祀られている自然石は、その墓標とされているようです。

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2019年5月14日 (火)

第22回 ひの新選組まつり(没後150 歳三×日野)

5月11~12日は、ひの新選組まつり
地元ということもあって例年足を運んではいるものの、大抵は日曜日(2日目)だけ日野宿をウロウロし、パレードを見て帰る、という程度。
しかし今年は、土方歳三の没後150年。しかも令和改元を迎えた節目の年(改元自体は日野や土方には特に関係ないけどw)でもあり、土曜日から記念すべき年の祭りを楽しむことにしました。

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日野市では昨年末から、JR日野駅構内に土方歳三の大きなパネルを展示するなどして、没後150年を盛り上げていく動きが見られましたが・・・

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新選組まつりウィークに入ると、駅構内の広告パネルを一斉に新選組モードに切り替え、大河ドラマ「新選組!」の、あのテーマ曲もエンドレスで流して祭りの気運を高めていました。

※以下、本記事は私個人の日記的な内容です。
「もっとこうしたら効率的に回れるのに」「あれは見てないの?勿体ない・・・」等々、ご意見は多々あるかと思いますが、そこは人それぞれ、気力も体力も執着心も千差万別なので・・・どうぞお構いなく(笑)


■5月11日(土)
ひの新選組まつりの初日を迎えたこの日は、奇しくも土方歳三の旧暦命日(明治2/1869年)。
初日も様々な催しが組まれていましたが、新選組隊士法要隊士コンテストは外せないところ・・・という訳で、高幡不動へ向かうことにしました。

多摩都市モノレール万願寺駅近くの駐車場に愛車を停めたので、ついでに土方歳三資料館を覗いてみたら・・・

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まだ午前10時過ぎだというのに、ご覧の盛況ぶり。
行列は角を曲がった先まで続いていました。

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久しぶりに兼定の刀身も拝んでおきたかったのですが、さすがに並ぶ気はしないのでスルー・・・万願寺駅からモノレールで高幡不動へ。

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高幡不動尊に到着したら、まずは土方歳三の銅像にご挨拶。

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目当ての隊士法要は12時~、隊士コンテストは14時~で、いずれも五重塔下の会場で行われます。
法要の間は撮影禁止でしたので写真はありませんが、開始から最後まで参席し、焼香もさせていただきました。

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空いた時間は公式グッズや・・・

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会津のお酒などを購入して過ごしました。
※予めたくさん用意されていた土方のお酒は問題なかったものの、斎藤一が想定以上の人気だったそうで、私が購入したものが最後の一本でした…f(^_^;

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隊士コンテストの司会・進行役は武者所お奉行と、さくらゆきの小栗さくらさん。

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隊士コンテストの開始に先立ち、進行役のお奉行から和泉守兼定の模造刀が紹介されました。
今年新たに用意されたもので、歳三の生家でもある土方歳三資料館が公認するものとしては、唯一の模造刀なのだそうです。
令和新刀兼定」と名付けられ、祭りの間、コンテストを経て選ばれるミスター土方に託されます

今年のコンテスト参加者は43名。
全参加者のパフォーマンスを拝見したのも、今回が初めてでした。

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パフォーマンス終了後は、さくらゆきによるミニライブ。

コンテストの結果も気になるところでしたが、事情によりミニライブ後に会場をあとにして・・・

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石田寺へ。
人影もまばらな夕暮れの中、静かに墓参させていただきました。

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お稲荷さんのいなくなったとうかん森にも・・・。
木はまだ伐採されていませんでした。

これにて私の、ひの新選組まつり初日は終了です。


■5月12日(日)
ひの新選組まつり…2日目。
この日のメインは無論、日野宿の甲州街道を練り歩く隊士パレード
午前10時には日野駅に到着し、日野宿界隈をブラブラしました。

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日野駅前にて、市内でもたった一つだけの土方歳三マンホールを。

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佐藤彦五郎新選組資料館では、市村鉄之助が届けた土方歳三の写真を拝観。
年一の恒例として、毎年祭りの際に会いに来ていますが、年々写真の色味が薄くなってきているのだそうです・・・心配。

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渡邊家の蔵もやはり、新選組まつりの週末だけの公開。

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日野宿本陣

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本陣前での日野太鼓パフォーマンス。

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同じく本陣前にて、午前10:50から行われた開会式の様子。
パレードにも松平容保役で参加される容保のご子孫・会津松平家十四代の保久氏や、バレーボール女子元日本代表の大林素子氏らの姿もありました。

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歩行者天国となった甲州街道で駕籠かきを務めるのは・・・ラグビーのトップリーグに参戦する日野レッドドルフィンズの選手たち。
街道上では殺陣など、様々な団体によるパフォーマンスも繰り広げられました。

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オープニングパレード(11:20)

オープニングパレード後は出店で焼きそばを購入し、日野宿だんだら村(日野第一小学校)にて昼食がてらの小休止。

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その後は、八坂神社境内での天然理心流演武を見学するなどして過ごし・・・
(無論、八坂神社では天然理心流奉納額も公開されました)

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13:20、いよいよ新選組隊士パレードのスタート!
先頭を切るのは、会津松平家十四代・保久氏扮する松平肥後守容保
※パレード出陣前には参加隊士一同を集め、容保公よりミスター土方・近藤が「新選組」を拝命するセレモニーも行われたそうです・・・観てみたかったなぁ~

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今年のミスター土方による勝鬨。
てっきり昨年と同じ方が選ばれたのかと思っていたら、何と今年の方は双子のお姉さんなのだそうです。

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沖田総司の一番隊。

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こちらも日野出身、井上源三郎の六番隊。
パフォーマンス的には、源さんが一番目立ってましたかねぇ~(笑)
過去数年も土方や近藤役でお見かけした気がするので、場慣れしてますね。

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総合進行役のお奉行も通りかかりました。

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パレード2周目は、新政府軍に扮した鉄砲隊との銃撃戦パフォーマンス付き。
市村鉄之助ら、近藤・土方両長の前にいる小姓がうずくまっているのは撃たれたのではなく、両長の指示で伏せただけですよ~

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ミスター土方が敵部隊に対して掲げる刀は無論、あの令和新刀兼定
令和という新しい時代を迎え、ひの新選組まつりにもまた一つ、新たな歴史伝統が刻まれていくことになったのですねぇ・・・。

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武田観柳斎の五番隊は地元企業、日野自動車の方々で構成。
お決まりの「トントン、トントン、日野の2t」パフォーマンスも披露していましたが・・・遠くて殆ど見えず。

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源さんは銃撃戦でも大張り切り。
鉄砲隊の隊長も苦笑い…(;^ω^)

各隊、それぞれに趣向を凝らしたアドリブで場を盛り上げてくれました。

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パレードも終わり、日野宿閉会式を待つ隊士たち。
この頃には腰が悲鳴を上げており、私はあえなく脱落・・・閉会式を待たず帰路につきました。

土方歳三 没後150年の記念の年を飾る、第22回ひの新選組まつり
2日間、天候にも恵まれて素晴らしい催しになったのではないでしょうか。
開催に向けて尽力された関係者の方々に敬意を表し、来年以降の継続的な発展も祈りつつ・・・今回はこの辺で。

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2019年5月 7日 (火)

山田城、他

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大型10連休となったGWも後半。
天候にも恵まれた5月3日は、家族を連れて埼玉県比企郡滑川町の国営武蔵丘陵森林公園へ。

南口から入場してすぐ右手の坂を上り、まずはガイドマップにも載っている山田城へ。

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舗装された園路に沿って進み、山田城跡への案内板に従って雑木林へ入っていくとすぐに到達します。
写真は南西部の土塁と横堀。

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・・・山田城に関しては何ら知識を持ち合わせていないので、現地の説明板をそのまま貼っておきます。←

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南西部の土塁と横堀を上から。
少し折れて横矢が掛かっているように見え・・・なくもない?

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西側の土塁から横堀。

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郭内には更に、土塁や横堀で仕切りをつけたような箇所もありました。

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・・・土橋のようにも見える。

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北東側の土塁。
写真でもわかるように郭内の削平は甘く、どことなく急造の砦、陣城といった印象も受けました。

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北東側の虎口らしき痕跡。

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虎口を出た先から見る、北~西へかけての横堀。

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奥に虎口と、東~南にかけての横堀。
一部、堀が二重になっていたようにも見えます。

山田城・・・遺構の保存状態が良く、小規模ながら割と見応えはありました。

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そのまま園内を北へ向かって散策していると、古鎌倉街道の案内板が・・・。
とすると、山田城は古鎌倉街道を意識して築かれた城だったのかもしれません。

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古鎌倉街道
歩いているうちに右側の藪(の中)が気になり、分け入ってみると・・・

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堀のようなものが、街道に沿ってずっと続いていました。

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藪が切れて梅園として整備されている区間に出ても、堀は続いています。

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街道に沿っていることから、初めは「古鎌倉街道の掘割道か?」とも思いましたが、やがて堀は街道から逸れ、丘陵の下(右手)の方へと折れていきました。

後で調べたところ、こちらの遺構は山崎城という城だったともされているようですが、堀は丘陵の縁に沿っており、谷戸のような下った場所を囲むようにして折れています・・・正直なところ、個人的にはあまり「城」をイメージできません。
むしろ、丘陵を守備する防塁・長塁のようなものだったのではないかな、とも思いました。

※山田城から見た時、丘陵縁の堀を越えた先には、荒川を挟んで忍城があります。
案内板によると山田城は小田原征伐の際、前田利家によって落とされたとも伝えられているようですが、豊臣方の軍勢によって構築(改築?)された、忍城包囲の陣跡の一つ、という可能性は考えられないのでしょうか。

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古鎌倉街道は丘陵上を、更に北へと伸びていきます。

この後は園内を中央口付近まで散策し、お弁当を食べて引き返しました。
それでも優に3時間は滞在していたので、森林公園の広大な敷地面積・・・推して知るべし。

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2019年5月 6日 (月)

千福城(平山城)

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今回の旅のラストは、葛山城から少し南下した千福城
麓の普明寺裏手から城山へアプローチします。

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山門前には、普明寺の由緒を記した石碑「大平山由緒」があり、この地は御宿勘兵衛の居館跡であったこと、元亀3年に武田信玄が寺名を普明寺に改めた(元亀2年暮れの甲相再同盟により、この地は武田領となっている)ことなどが、駿東郡誌や駿河国新風土記よりの抜粋として記されています。

元亀2年(1571)に深沢城を武田氏に奪われた北条氏は、それに対処するため、新たに「平山」を拠点としたことが朱印状などで確認されています。
千福城がこの「平山」城に比定され、普明寺山門前の標柱にも「千福城址(平山城址)跡」とありますし(址と跡を続けるのもどうかとは思うけどw)、近くを通る国道246号には「御宿平山」という交差点もあります。また、普明寺の山号も「大平山」です。

すぐ北方には、武田方について大宮城や蒲原城攻めにも従った葛山氏の葛山城もあり、まさに北条×武田という大大名同士の軍事境界上の城と言えます。

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普明寺境内には、千福城への親切な案内板も設置されていました。

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案内に沿って登り始めると、すぐに竪堀が現れます・・・が、藪で写真ではなんのこっちゃ?ですね(;^_^A

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主郭部と、そこから北西側へ伸びる郭群の間を断ち切る堀切。

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その堀切から西側斜面に落とされた竪堀。
横幅を見ても、かなりの規模です。

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そのまま北西方向へ進むと、西側の斜面に竪堀が連続して落とされていました。

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東名高速によって尾根が分断されているため、現段階で確認できる城域の最北西端部。
尾根上に築かれた細長い郭の北面から東面にかけて、大きな横堀が口を開けています。上の写真の手前がその北面の横堀で、写真の右手方向で右へ直角に折れ、郭の東面に沿って続いています。
そして、この北面の横堀の奥にはもう1本、横堀のようなものがありました。

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こちらがその遺構。
郭に沿う横堀に比べると規模の小さなものです。

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北西端郭東面の横堀。
深さといい、幅といい、、、これはちょっと驚きの規模です。

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堀底に下りて、東面から北面(写真正面)とのコーナー部分を見た様子。
藪がきつくて殆ど歩けませんでしたが、堀の深さは充分に伝わるのではないでしょうか。

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主郭部へ戻って、城内最高所の郭。
こちらが主郭、本丸ということでいいのではないでしょうか。

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主郭の南西斜面には細かい連続竪堀のようなものがある、との情報も目にしていたので確認してみました。
藪でわかりづらいのですが、確かに柵平地の縁が波打っているようにも見えます。しかし構造上、この部分に施す細かい連続竪堀が果たしてどれほどの効果をもたらすものなのか、その必要性にも疑問を感じますし、実際に目にした印象としては、法面の自然崩落によるものではないかなぁといったところです。

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主郭から南東へ進み、城内で最も広い円形の郭を見下ろすようにして時計回りに東へ回り込み、城域の南東端付近まで来ると・・・

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堀切のようなものに行き当りました。
右下は郭のような平坦地になっており、歩いてきた郭?尾根?が、そのまま右下の郭を守る土塁のようにもなっています。

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右下の郭に下りて見てみると明らかですが、この堀切のようなものは虎口だったようです。

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虎口から外側を見ると道が付けられており、脇には横堀のようなものも見えます。

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外側から振り返った様子。
間違いなく南東端郭への虎口ですね。

万一この虎口を突破された際は、その先の南東郭や先ほどの円形の郭で敵を受け、南を除く三方を包み込むようにして一段高い位置に配された郭群から包囲迎撃する・・・その際、この虎口は敵を上段の郭群へ上げないための堀切としても機能する・・・。
とてもよく考えられた構造のように思えてきました。

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虎口を出た先から北の方向へ進み、左手を見ると見事な切岸がそそり立っています。
人尺付きなので、その規模を実感していただるのではないでしょうか。
あの上は、主郭から南東端の郭へ向かう際に歩いた場所になります。

千福城・・・元々は葛山氏や、その同族である御宿氏の城だったとも云われていますが、先に訪れた葛山城と比較しても郭の数や配置、構造、特徴が全く別物です。とても同じ氏族が築いたものとは思えないほどに。
こうした郭や堀などの遺構を見る限り、やはり元亀2年の正月に深沢城を奪われた北条氏による、大幅な改修の手が加えられたことを感じさせる土木量でした。

北条氏によって変貌を遂げたであろう千福城でしたが、しかし、対武田の拠点として機能した期間はほんの僅かでした。
深沢城を奪われたのと同年の元亀2年暮れ、北条氏康の死去(同10月)に伴って北条氏は外交方針を転換し、上杉謙信に対して手切れを通告して越相同盟を破棄し、武田氏との甲相同盟を再締結します。
この同盟再締結に伴って北条氏は、興国寺城を武田氏へ引き渡し、平山城(千福城)も破却したことが武田信玄の書状で確認されています。
つまり平山城、即ち千福城が北条氏の拠点として機能した期間は、僅か1年にも満たなかったということになるのです。

2泊3日の行程で急遽挙行した駿東の城めぐり。
1日目こそ大雨にたたられたものの、2日目に思いがけず再チャレンジできたこともあり、個人的には大満足。
何といっても北条&武田という、東国を代表する大大名同士による軍事対立の緊迫感漲る規模の遺構を体感でき、貴重な機会となりました。
同行の皆さん、ありがとうございました。

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2019年5月 5日 (日)

葛山城

さて、旅の2日目。
前日の夜から合流したメンバーのリクエストにより、この日も本当は初日に訪れた深沢城からスタートしたのですが、記事が重複するので省略し、2つ目の葛山城から書いていきます。

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葛山城の山麓に建つ仙年寺。葛山氏の菩提寺です。

葛山城は戦国期、駿東一帯に勢力を持った葛山氏の居城でした。
葛山氏は駿河今川氏に従っていましたが、今川氏の直接支配は富士川以東にまでは及んでおらず、独立性の強い国人領主だったようです。駿河・甲斐・相模三国の境目のような位置関係から、武田氏や北条氏とも関係を結んでいました。
永禄12年(1569)に武田信玄が駿河へ侵攻すると、葛山氏元は武田方へ内通し、後に大宮城や蒲原城攻めにも従っています。
氏元は信玄の六男・信貞を養子に迎えますが、元亀4年(1573)、謀反の嫌疑により処刑されたと伝えられています。実際に氏元が謀反を企んだのか否かはわかりませんが、おそらくは向背の定まらない、独立性の強い葛山氏の乗っ取りを図ったものではなかろうかと思います。
仙年寺には葛山氏歴代の墓所もありますが、参拝は後回しにして、まずは何より葛山城へ向かいます。

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葛山城へは、仙年寺の裏手から伸びる階段でも直接アプローチできますが、我々は東側の大手口から登るルートを選択しました。

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静岡古城研究会作図の葛山城図。
こちらの図の表記に則して進めていきます。

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最東端に位置する大手曲輪。
ここから尾根に沿って西へ進みます。

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東出丸
更に進むと・・・

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いい感じの2重堀切が現れました。
(一号堀/二号堀)

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上(東)から見下ろした様子。
主郭部東側の防備を固めています。

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主郭部の南側へ回り込むと、三号堀に・・・

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四号堀と、綺麗な竪堀が連続していました。

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主郭部西側の守りを固める五号、六号堀の連続堀切。
木の影のコントラストがきつくて見えづらいですが、ちゃんと2本連続しています。

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二の丸
土塁や虎口も確認できます。

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二の丸から帯曲輪。
左は本丸の切岸。

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本丸
土塁が結構いい感じで残っていました。
あちらの土塁から、北側の斜面を覗き込むと・・・

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横堀らしき痕跡が見えていました。
一旦五号堀まで戻り、本丸北側へ回り込んでみると・・・

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ウネウネ(笑)

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見事な畝状でしたが外縁の土塁がなく、実際に降り立ってみると横堀のようには見えませんでした。
むしろ、畝状竪堀の残欠?・・・よくわかりません。

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西出丸
西出丸から、六号・五号堀越しに振り返る二の丸方向。
ちなみに、図にある七号堀は規模が小さかったのか、藪で殆どわかりませんでした。

最後は沢を北側へ回り込み、荒れ果てて崩れた林道を下りながら「沢水堀」の「堰」へ向かいましたが・・・

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見事に写真を失敗!(涙)

葛山城・・・本丸と二の丸、帯曲輪から成る主郭部と、東西に伸びる尾根の両サイドに出丸を配置し、その東西出丸と主郭部の間を2本の堀切で断ち切る・・・とてもシンプルな構成ながら遺構の保存状態もよく、見応えのある城跡でした。

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下山後は、城山南麓に位置する葛山館跡へ。
写真は、その北東隅部分の土塁。

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北面の土塁。

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東西97m×南北104mの広さを誇ります。

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南西側の土塁開口部が、往時の門跡とされています・・・微妙。

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葛山館跡からの葛山城遠景。
山城と山麓居館両方の遺構が残されているのは、貴重な事例なのではないでしょうか。
城山麓のお寺(ここでいう仙年寺)が、必ずしも居館跡とは限らないという、いい教訓・戒めにもなりそう?(笑)
ただ、写真を見ても明らかなように、城山から少々離れ過ぎなきらいもあります・・・この居館跡が実は葛山氏のものではなく、家臣のものだった可能性はないのでしょうか?

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最後に仙年寺へ。
昭和53年まで葛山館に存在した、樹齢3~400年の「館の松」の写真が山門に貼ってありました。

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葛山氏歴代墓所
石扉には武田の四ツ菱紋が見えます。
葛山氏最後の当主・信貞が、武田信玄の六男だったことによるものと考えられています。

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信貞は天正10年(1582)、武田氏滅亡と共に甲斐善光寺で処刑され、葛山氏もその命脈を絶たれることになりました。

さて、旅の最後はやはり前日、悪天候で断念していた千福城へ向かいます。

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2019年5月 4日 (土)

浮月楼の庭園

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GWの直前に急遽決まった静岡への旅。
宿の確保も難しい中、残された少ない選択肢から選んだ宿(ホテルガーデンスクエア静岡)が偶然にも、徳川慶喜が明治2年(1869)~同21年(1888)までを過ごした屋敷跡に建つ浮月楼の庭園に隣接する立地で、しかも自由に散策できるというではありませんか!

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・・・という訳で早速(笑)
右が宿泊するガーデンスクエアで、左は浮月楼の明輝館。

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慶喜の転居後、明治24年(1891)には料亭・浮月亭が開業され、伊藤博文や井上薫なども逗留したことがあるそうです。

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当時の建物は大火により消失していますが、庭園は殆ど姿を変えることなく、明治期の風情を現在に伝えてくれているそうです。

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子福稲荷

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こちらは翌朝、晴れた時に撮影した1枚。

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浮月楼の北門とホテルガーデンスクエア静岡。

偶然にもいいホテルに泊まることができ、嬉しい旅になりました。
部屋もゆったりとして清潔感があり、いろいろと気の利いたいいお宿でした。今後は静岡での定宿にしようかな。

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2019年5月 3日 (金)

(伝)織田信長首塚(西山本門寺)

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土砂降りの雨の中、富士宮市の西山本門寺に到着。
少し境内を散策します。

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大火による被害から本門寺を復興した、第16代・日映上人の墓所。

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鐘楼
梵鐘は寛永21年(1644)の鋳造。

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本堂
西山本門寺は、康永3年(1344)の開創。
歴代住職の中には甲斐武田家や水戸徳川家の出身者もいることから、武田信玄の制札や勝頼の高札、徳川家の朱印状なども残されているようです。

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織田信長の首塚への案内板。

寺伝によると、囲碁の名手としても名高い寂光寺の日海上人(本因坊算砂)の指示により、原志摩守宗安という人物が、炎上する本能寺から信長に殉じた父や兄の首と共に信長の首を運び出し、本門寺本堂の裏手に埋めたとされています。
この伝承は、本門寺第18代・日順上人の内過去帳や、「原家記」という文献にある記述が元になっているようです。
日海(算砂)は本門寺に坊舎(本因坊)を建てて住んでいたこともあるとされ、原氏出身の日順を弟子にして本門寺の住職に就けたとも云われているそうです。

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(伝)織田信長首塚と、県の天然記念物に指定されている柊。
原志摩守はここに3人の首を埋め、その上に柊を植えたのだとか・・・。
ところが、昭和31年(1956)の日付がある説明板によると、柊の推定樹齢は「500年」・・・信長が亡くなったのは1582年ですので、ちょっと年代が合わないのですが・・・?
まぁ、別の場所に設置されていた説明板には「4~500年」とありましたが・・・(;・∀・)

ところで、先程から登場する原志摩守なる人物のことがよくわかりません。
ざっと調べたところ、本能寺や二条御新造で信長や信忠に殉じた家臣の中に「原」という名は確認できませんでした。詳細な史料が手元にないので、確かなことは言えませんが・・・。

京都の阿弥陀寺にも信長の遺骸に関する伝承があります。
それぞれの事の真偽はともかく、こうした伝承が現代まで伝えられることになった、その端緒や背景というものには興味を覚えます。

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2019年5月 2日 (木)

戸倉城

さて、本来であれば深沢城の後は葛山城、千福城へ向かう予定でしたが、朝からの雨がいよいよ本降りとなって山城は断念することに。
急遽予定を変更して向かった先は・・・

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駿東郡清水町の戸倉城です。
※歴とした山城じゃねーか!というツッコミを入れたあなた・・・仰る通り。
しかし戸倉城は山城とはいえ、今では完全に公園化(本城山公園)されており、安全面においても特に問題ないだろうと判断したのです。

戸倉城は小田原北条氏の2代・氏綱が築かせたと伝わります。
後に、上杉謙信の後継を巡る「御館の乱」に端を発する外交関係の悪化から、武田勝頼が天正7年(1579)に駿豆国境の沼津に築いた三枚橋城に対する、北条方の最前線拠点ともなりました(駿河は武田領、伊豆は北条領。当時は黄瀬川が国境線となっていました)。
ところが、天正9年には戸倉城将の笠原新六郎政晴が武田方へ寝返り、戸倉城も武田の支配下となります。
翌天正10年に武田氏が滅亡すると再び北条氏の手に戻りますが、天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、北条氏は城兵を韮山城へ引き上げて戸倉城を放棄しました。

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戸倉城の主郭(本城)跡。
一部、竪堀などの遺構も残っているらしいのですが、悪天候により詳細な探索は断念いたしました。

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しかし、展望台からの眺望は見事の一言に尽きます。
三枚橋城方面は、手前の山に遮られて見えないものの・・・

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韮山城や・・・

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山中城までをも、一望の元に見渡せました。
戸倉城はこれらの各拠点を繋ぐ、中継基地としても機能していたのかもしれません。

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山麓の龍泉寺は、戸倉城主の居館跡と伝わります。

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龍泉寺本堂

この後は富士宮市の西山本門寺へ向かいました。

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2019年5月 1日 (水)

深沢城

平成最後のGW。大型10連休の幕開けとなった4月27日は駿東地区の城めぐりドライブです。
渋滞を避けるため、夜明け前の午前3時に自宅を出発し、集合場所の道の駅ふじおやま(静岡県小山町)には4時30分に到着。
約束の時間まで仮眠を、と思ったものの、想定以上の冷え込みで結局眠れず仕舞い・・・。

午前8時、無事に到着した美濃、及び遠江からの仲間と合流し、まずは御殿場市深沢の・・・

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深沢城へ。
城址碑の奥に、早くも空堀跡が見えています。

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深沢城図
馬伏川と抜川が合流する段丘の先端に築かれていました。

※現地案内板では一番北の郭を本丸とし、そこから南へ順に二の丸、三の丸としていますが、多くの方々が指摘されているように、我々も実際に歩いてみて、主郭は真ん中の二の丸とされている郭だろうと感じました。
従いまして当記事では、上の図に青文字で書き入れたように、北から順に「北郭」「主郭」「南郭」として進めていきます。

永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄が駿河へ侵攻したことにより、甲相駿三国同盟は破綻をきたします。
この深沢城は、大宮城(富士宮市)や興国寺城(沼津市)と共に、興津川を挟んで武田氏と対峙する北条氏の薩た山や蒲原城といった最前線を支える拠点の一つとなります。
そして翌永禄12年(1569)6月に大宮城を信玄に落とされ、更に12月になって蒲原城(静岡市)をも攻略されたことで、北条氏は薩た山の陣所も維持できなくなり、富士川以西の拠点を全て失うことになります。これにより、深沢城は興国寺城と共に対武田の最前線に立たされることになりました。
北条氏は北条綱成を城将として深沢城の守備を固めていましたが、元亀元年(1570)12月、遂に信玄率いる武田軍に包囲されるに至ります。
信玄は城内に降伏を促す矢文を射かけさせたり、黒川金山の金山衆に城の「本城の外張」まで横穴を掘らせるなどして揺さぶりをかけ、翌元亀2年1月16日、深沢城を開城させることに成功しました。
これ以降、深沢城は天正10年(1582)の武田氏滅亡まで武田氏の支配に属し、その後は駿河に入った徳川氏の下で北条氏に対する境目の城として維持されますが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると廃城となりました。

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城址碑の背後、南郭の横堀。

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南郭に隣接する馬出し。
半円状の丸みを帯びた形状がよく見て取れます。

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横堀越しに南郭。
写真中央奥の茂みは、主郭との間の横堀になります。

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南郭と主郭の間に設けられた馬出し。
「下馬溜」とされている箇所です。

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南郭~主郭間の横堀。

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この南郭~主郭間の堀には「二鶴様式の堀跡」との標柱がありました。
同行者とも「この先で主郭方向と南郭方向へと分岐する堀の形が、翼を広げて飛ぶ鳥のように見えるからかな?」などと話しましたが、結局のところは理解するに至りませんでした。

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主郭南側。
土塁のように一段高くなっていますが、用水路を通すために切られた箇所もあり、実際にどのような形状をしていたかは不明です。この奥にも分け入ってみましたが削平は甘く、用水路の敷設などで崩されているのかもしれません。
南郭との間に高低差を設けるための措置か、或いは櫓台のようなものがあったのかも・・・とも考えました。

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主郭(北方向)
付近には「食糧庫跡」の標柱が立ちます。
先程の南側よりは一段低くなっていました。

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主郭から北郭への土橋。

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土橋脇の横堀。

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北郭側から主郭を見る。
主郭の方が一段高くなっています。

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図には何故か描かれていませんが、主郭~北郭間にもやはり馬出しが置かれていました。
こうした地表面の高低差や、南北両サイドの郭との間に馬出しを配して防備を固めていることなどから、やはり中央の郭が主郭だったのだろうと思います。

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広大な北郭。

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眼下を流れる馬伏川越しに城域を振り返る。
信玄の命を受けた金山衆は果たして、どこから掘り進んで城を崩しにかかったのでしょうか・・・。

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城外に出て、馬伏川の畔から北郭の断崖を仰ぎ見る。

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少し場所を移し、最初の城址碑から車道を挟んだ西側にある堀跡。
「三日月堀」との標柱も立っていますが、図面を見る限りは南郭の横堀が車道によって分断され、然も三日月のような形になっただけでは・・・?
(城址碑裏の堀も同様)

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南郭に祀られている八幡宮のお社。

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深沢城からは、富士山の雄大な姿を間近に拝むこともできます。

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近くの大雲院山門は、深沢城の大手門を移築したものと伝わります。
大正12年(1923)の関東大震災で倒壊していますが、昭和25年(1950)に再建されました。

大雲院の周辺には大雲院土居や宝持院土居などがありますが、これらが深沢城の惣構えの南限を示しているのかもしれません。

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某地図アプリを見ているうちに、城址の北東4~500mほどの地点に「信玄塚」の文字があるのに気付き、立ち寄ってみました。
碑や案内といったものは一切ありませんでしたが、どうやらここが、深沢城を攻める信玄が本陣を布いた場所と伝えられているようです。
・・・すると信玄はここから深沢城を眺め、矢文を射かけたり、金山衆を用いる作戦を命じていたのでしょうか。

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