葛山城
さて、旅の2日目。
前日の夜から合流したメンバーのリクエストにより、この日も本当は初日に訪れた深沢城からスタートしたのですが、記事が重複するので省略し、2つ目の葛山城から書いていきます。
葛山城の山麓に建つ仙年寺。葛山氏の菩提寺です。
葛山城は戦国期、駿東一帯に勢力を持った葛山氏の居城でした。
葛山氏は駿河今川氏に従っていましたが、今川氏の直接支配は富士川以東にまでは及んでおらず、独立性の強い国人領主だったようです。駿河・甲斐・相模三国の境目のような位置関係から、武田氏や北条氏とも関係を結んでいました。
永禄12年(1569)に武田信玄が駿河へ侵攻すると、葛山氏元は武田方へ内通し、後に大宮城や蒲原城攻めにも従っています。
氏元は信玄の六男・信貞を養子に迎えますが、元亀4年(1573)、謀反の嫌疑により処刑されたと伝えられています。実際に氏元が謀反を企んだのか否かはわかりませんが、おそらくは向背の定まらない、独立性の強い葛山氏の乗っ取りを図ったものではなかろうかと思います。
仙年寺には葛山氏歴代の墓所もありますが、参拝は後回しにして、まずは何より葛山城へ向かいます。
葛山城へは、仙年寺の裏手から伸びる階段でも直接アプローチできますが、我々は東側の大手口から登るルートを選択しました。
静岡古城研究会作図の葛山城図。
こちらの図の表記に則して進めていきます。
最東端に位置する大手曲輪。
ここから尾根に沿って西へ進みます。
東出丸
更に進むと・・・
いい感じの2重堀切が現れました。
(一号堀/二号堀)
上(東)から見下ろした様子。
主郭部東側の防備を固めています。
主郭部の南側へ回り込むと、三号堀に・・・
四号堀と、綺麗な竪堀が連続していました。
主郭部西側の守りを固める五号、六号堀の連続堀切。
木の影のコントラストがきつくて見えづらいですが、ちゃんと2本連続しています。
二の丸
土塁や虎口も確認できます。
二の丸から帯曲輪。
左は本丸の切岸。
本丸
土塁が結構いい感じで残っていました。
あちらの土塁から、北側の斜面を覗き込むと・・・
横堀らしき痕跡が見えていました。
一旦五号堀まで戻り、本丸北側へ回り込んでみると・・・
ウネウネ(笑)
見事な畝状でしたが外縁の土塁がなく、実際に降り立ってみると横堀のようには見えませんでした。
むしろ、畝状竪堀の残欠?・・・よくわかりません。
西出丸
西出丸から、六号・五号堀越しに振り返る二の丸方向。
ちなみに、図にある七号堀は規模が小さかったのか、藪で殆どわかりませんでした。
最後は沢を北側へ回り込み、荒れ果てて崩れた林道を下りながら「沢水堀」の「堰」へ向かいましたが・・・
見事に写真を失敗!(涙)
葛山城・・・本丸と二の丸、帯曲輪から成る主郭部と、東西に伸びる尾根の両サイドに出丸を配置し、その東西出丸と主郭部の間を2本の堀切で断ち切る・・・とてもシンプルな構成ながら遺構の保存状態もよく、見応えのある城跡でした。
下山後は、城山南麓に位置する葛山館跡へ。
写真は、その北東隅部分の土塁。
北面の土塁。
東西97m×南北104mの広さを誇ります。
南西側の土塁開口部が、往時の門跡とされています・・・微妙。
葛山館跡からの葛山城遠景。
山城と山麓居館両方の遺構が残されているのは、貴重な事例なのではないでしょうか。
城山麓のお寺(ここでいう仙年寺)が、必ずしも居館跡とは限らないという、いい教訓・戒めにもなりそう?(笑)
ただ、写真を見ても明らかなように、城山から少々離れ過ぎなきらいもあります・・・この居館跡が実は葛山氏のものではなく、家臣のものだった可能性はないのでしょうか?
最後に仙年寺へ。
昭和53年まで葛山館に存在した、樹齢3~400年の「館の松」の写真が山門に貼ってありました。
葛山氏歴代墓所
石扉には武田の四ツ菱紋が見えます。
葛山氏最後の当主・信貞が、武田信玄の六男だったことによるものと考えられています。
信貞は天正10年(1582)、武田氏滅亡と共に甲斐善光寺で処刑され、葛山氏もその命脈を絶たれることになりました。
さて、旅の最後はやはり前日、悪天候で断念していた千福城へ向かいます。
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