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2019年5月 6日 (月)

千福城(平山城)

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今回の旅のラストは、葛山城から少し南下した千福城
麓の普明寺裏手から城山へアプローチします。

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山門前には、普明寺の由緒を記した石碑「大平山由緒」があり、この地は御宿勘兵衛の居館跡であったこと、元亀3年に武田信玄が寺名を普明寺に改めた(元亀2年暮れの甲相再同盟により、この地は武田領となっている)ことなどが、駿東郡誌や駿河国新風土記よりの抜粋として記されています。

元亀2年(1571)に深沢城を武田氏に奪われた北条氏は、それに対処するため、新たに「平山」を拠点としたことが朱印状などで確認されています。
千福城がこの「平山」城に比定され、普明寺山門前の標柱にも「千福城址(平山城址)跡」とありますし(址と跡を続けるのもどうかとは思うけどw)、近くを通る国道246号には「御宿平山」という交差点もあります。また、普明寺の山号も「大平山」です。

すぐ北方には、武田方について大宮城や蒲原城攻めにも従った葛山氏の葛山城もあり、まさに北条×武田という大大名同士の軍事境界上の城と言えます。

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普明寺境内には、千福城への親切な案内板も設置されていました。

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案内に沿って登り始めると、すぐに竪堀が現れます・・・が、藪で写真ではなんのこっちゃ?ですね(;^_^A

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主郭部と、そこから北西側へ伸びる郭群の間を断ち切る堀切。

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その堀切から西側斜面に落とされた竪堀。
横幅を見ても、かなりの規模です。

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そのまま北西方向へ進むと、西側の斜面に竪堀が連続して落とされていました。

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東名高速によって尾根が分断されているため、現段階で確認できる城域の最北西端部。
尾根上に築かれた細長い郭の北面から東面にかけて、大きな横堀が口を開けています。上の写真の手前がその北面の横堀で、写真の右手方向で右へ直角に折れ、郭の東面に沿って続いています。
そして、この北面の横堀の奥にはもう1本、横堀のようなものがありました。

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こちらがその遺構。
郭に沿う横堀に比べると規模の小さなものです。

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北西端郭東面の横堀。
深さといい、幅といい、、、これはちょっと驚きの規模です。

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堀底に下りて、東面から北面(写真正面)とのコーナー部分を見た様子。
藪がきつくて殆ど歩けませんでしたが、堀の深さは充分に伝わるのではないでしょうか。

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主郭部へ戻って、城内最高所の郭。
こちらが主郭、本丸ということでいいのではないでしょうか。

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主郭の南西斜面には細かい連続竪堀のようなものがある、との情報も目にしていたので確認してみました。
藪でわかりづらいのですが、確かに柵平地の縁が波打っているようにも見えます。しかし構造上、この部分に施す細かい連続竪堀が果たしてどれほどの効果をもたらすものなのか、その必要性にも疑問を感じますし、実際に目にした印象としては、法面の自然崩落によるものではないかなぁといったところです。

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主郭から南東へ進み、城内で最も広い円形の郭を見下ろすようにして時計回りに東へ回り込み、城域の南東端付近まで来ると・・・

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堀切のようなものに行き当りました。
右下は郭のような平坦地になっており、歩いてきた郭?尾根?が、そのまま右下の郭を守る土塁のようにもなっています。

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右下の郭に下りて見てみると明らかですが、この堀切のようなものは虎口だったようです。

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虎口から外側を見ると道が付けられており、脇には横堀のようなものも見えます。

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外側から振り返った様子。
間違いなく南東端郭への虎口ですね。

万一この虎口を突破された際は、その先の南東郭や先ほどの円形の郭で敵を受け、南を除く三方を包み込むようにして一段高い位置に配された郭群から包囲迎撃する・・・その際、この虎口は敵を上段の郭群へ上げないための堀切としても機能する・・・。
とてもよく考えられた構造のように思えてきました。

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虎口を出た先から北の方向へ進み、左手を見ると見事な切岸がそそり立っています。
人尺付きなので、その規模を実感していただるのではないでしょうか。
あの上は、主郭から南東端の郭へ向かう際に歩いた場所になります。

千福城・・・元々は葛山氏や、その同族である御宿氏の城だったとも云われていますが、先に訪れた葛山城と比較しても郭の数や配置、構造、特徴が全く別物です。とても同じ氏族が築いたものとは思えないほどに。
こうした郭や堀などの遺構を見る限り、やはり元亀2年の正月に深沢城を奪われた北条氏による、大幅な改修の手が加えられたことを感じさせる土木量でした。

北条氏によって変貌を遂げたであろう千福城でしたが、しかし、対武田の拠点として機能した期間はほんの僅かでした。
深沢城を奪われたのと同年の元亀2年暮れ、北条氏康の死去(同10月)に伴って北条氏は外交方針を転換し、上杉謙信に対して手切れを通告して越相同盟を破棄し、武田氏との甲相同盟を再締結します。
この同盟再締結に伴って北条氏は、興国寺城を武田氏へ引き渡し、平山城(千福城)も破却したことが武田信玄の書状で確認されています。
つまり平山城、即ち千福城が北条氏の拠点として機能した期間は、僅か1年にも満たなかったということになるのです。

2泊3日の行程で急遽挙行した駿東の城めぐり。
1日目こそ大雨にたたられたものの、2日目に思いがけず再チャレンジできたこともあり、個人的には大満足。
何といっても北条&武田という、東国を代表する大大名同士による軍事対立の緊迫感漲る規模の遺構を体感でき、貴重な機会となりました。
同行の皆さん、ありがとうございました。

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