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2019年5月 3日 (金)

(伝)織田信長首塚(西山本門寺)

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土砂降りの雨の中、富士宮市の西山本門寺に到着。
少し境内を散策します。

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大火による被害から本門寺を復興した、第16代・日映上人の墓所。

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鐘楼
梵鐘は寛永21年(1644)の鋳造。

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本堂
西山本門寺は、康永3年(1344)の開創。
歴代住職の中には甲斐武田家や水戸徳川家の出身者もいることから、武田信玄の制札や勝頼の高札、徳川家の朱印状なども残されているようです。

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織田信長の首塚への案内板。

寺伝によると、囲碁の名手としても名高い寂光寺の日海上人(本因坊算砂)の指示により、原志摩守宗安という人物が、炎上する本能寺から信長に殉じた父や兄の首と共に信長の首を運び出し、本門寺本堂の裏手に埋めたとされています。
この伝承は、本門寺第18代・日順上人の内過去帳や、「原家記」という文献にある記述が元になっているようです。
日海(算砂)は本門寺に坊舎(本因坊)を建てて住んでいたこともあるとされ、原氏出身の日順を弟子にして本門寺の住職に就けたとも云われているそうです。

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(伝)織田信長首塚と、県の天然記念物に指定されている柊。
原志摩守はここに3人の首を埋め、その上に柊を植えたのだとか・・・。
ところが、昭和31年(1956)の日付がある説明板によると、柊の推定樹齢は「500年」・・・信長が亡くなったのは1582年ですので、ちょっと年代が合わないのですが・・・?
まぁ、別の場所に設置されていた説明板には「4~500年」とありましたが・・・(;・∀・)

ところで、先程から登場する原志摩守なる人物のことがよくわかりません。
ざっと調べたところ、本能寺や二条御新造で信長や信忠に殉じた家臣の中に「原」という名は確認できませんでした。詳細な史料が手元にないので、確かなことは言えませんが・・・。

京都の阿弥陀寺にも信長の遺骸に関する伝承があります。
それぞれの事の真偽はともかく、こうした伝承が現代まで伝えられることになった、その端緒や背景というものには興味を覚えます。

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