小栗上野介 最期の地をめぐる
今回は群馬県高崎市倉渕までドライブし、小栗上野介ゆかりの地をめぐってきました。
小栗上野介忠順
小栗家は徳川家譜代の旗本。忠順は安政7年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節の一員(目付)としてポーハタン号で渡米し、帰国後は江戸町奉行や勘定奉行、軍艦奉行、外国奉行などの幕府要職を歴任します。
その間、幕府の財政再建に携わり、洋式軍隊の整備や横須賀製鉄所(造船所)の建設を推し進めるなど、日本の近代化にも功績を残しました。
慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見戦後、江戸に帰還した徳川慶喜に対して主戦論を唱えますが退けられ、同年3月、領地の上野国権田村(群馬県高崎市倉渕)に隠棲します。
後に、彼が唱えた「陸軍を以って箱根で待ち受け、榎本の艦隊を駿河湾に展開させて海陸両面で新政府軍を迎撃する」という作戦を耳にした大村益次郎は、「もしそれが実行されていたら、今頃は我々の生命は危うかっただろう」と語ったとも云われています。
権田村隠棲後は、村人のための水路を開くなどして暮らしていましたが、閏4月4日、襲来した新政府軍に捕縛され、まともな取り調べもないままに2日後の閏4月6日、烏川の水沼河原において家臣3名と共に斬首されました。
権田村に移り住んでから、僅かに2ヶ月後のことでした。
日本の近代化に寄与した小栗の功績は、後に明治政府の要人となった大隈重信や東郷平八郎らからも評価され、作家・司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と評しています。
(幕府内においてライバルでもあった勝海舟などは、小栗の死後も世知辛い見方をしていたようですが・・・)
道の駅くらぶち小栗の里に車を置かせてもらい、まずは小栗らが斬首された烏川の水沼河原へ。
国道406号から、烏川に架かる県道125号へ進路をとると、小栗最期の地に建つ顕彰碑が見えてきました。
偉人小栗上野介
罪なくして此処に斬らる
昭和7年の建碑です。
当時は碑文の「罪なくして」という表現が問題視され、苦労も多かったそうです。
現在の烏川
そのまま徒歩で、今度は小栗が引かせた小高用水を目指します。
目指す小高の集落は、この急坂を上った先・・・
(旧東海道の小夜の中山や潮見坂ばりにきつかった・・・)
小高の集落
奥には榛名山も見えています。
小高用水
水利に恵まれない小高の村人のため、慶応4年(1868)4月に小栗が器械測量で水路を定め、村人の掘削によって完成した用水路です。長さは1.2㎞余り。
用水のお陰で、今もこうして水田が潤っているのですねぇ・・・。
丘陵上とはいえ、小高の集落はこうして周辺より一段低い場所に位置しています。
こうした地勢も、小高が水利に恵まれてこなかった一因だったのでしょうか。
続いて小栗の墓所がある東善寺へ。
東善寺は権田村へ移った小栗一家が、屋敷完成までの仮住まいとしたことでも知られています。
※当時の本堂は昭和初期に焼失。
境内にある小栗上野介忠順の胸像。
小栗上野介と、無実訴願のために遣わされた高崎城内で処刑された養子・又一忠道の供養墓。
周辺には家臣らのお墓も並んでいました。
供養墓の傍らに生える小栗上野介遺愛の椿には一輪だけ、綺麗な花が残っていました。
小栗父子の本墓。
先程の供養墓から更に石段を上った先、山の中腹にあります。
処刑後、小栗の胴は村人の手によってこの地に埋葬され、首は養子又一の首と共に総督府のあった館林へ送られて後、法輪寺へ埋葬されました。
その一年後(1869)、一周忌の夜に権田村の百姓代らが法輪寺より父子の首級を奪い、改めてここ東善寺に改葬したと云われています。
遺品館や庫裡・本堂では;
・小栗がアメリカから持ち帰ったネジや、
・水沼河原へ連行される際に乗せられた駕籠、
・東郷平八郎が「日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所(造船所)を作った小栗氏の功績によるところが大きい」として、明治45年(1912)に忠順の孫(身重の妻が会津へ逃れた後に産んだ実子・国子の子)の又一に贈った「仁義禮智信」の書、
など、多くのゆかりの品や史料を拝観させていただきました。
最後は東善寺の南東1㎞、観音山に築かせていた小栗邸跡へ。
登り口からして道が細くて心許ないのですが、東善寺のご住職から「ちょっと勇気が要るけど、舗装されていて車で上がれる」と伺ったのでトライしましたが・・・
まー怖かった(;^_^A
道幅は乗用車一台がやっとの狭さで、路面の舗装は随所で崩れ、左右には今にも崩落しそうな斜面と切り立った崖。。。
そんな、ヘアピンもあるクネクネとした林道を細心の注意を払いながら登ること5分・・・やっとの思いで駐車スペースに到達しました。。。まだ下りの恐怖が残っているけど。
観音山小栗邸跡
削平地には今も随所に礎石が残っていました。
屋敷地に引き込まれた用水路。
小栗邸跡からの眺め。
権田村へ移り住み、東善寺に仮住まいしながら屋敷の建設を進めていた小栗上野介。
しかし新政府軍は、この屋敷建設をも「陣屋を厳重に構え」て、小栗に「反逆の企てあり」との口実にしたとか。
権田村での後進の育成と、静かな余生を思い描いていたであろう小栗上野介。
しかし、その思いは僅かに2ヶ月後、突如として理不尽にも掻き消されてしまったのでした。
なんとか無事に下山した後は、ドライブ旅の締め括りに麓の「満寿池」さんで名物の「ます重」に舌鼓。
お蕎麦も美味しかった。
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