釼術覚帳 (古谷家所蔵)
5月26日(日)はまず、佐藤彦五郎新選組資料館へ。
この日から公開される、古谷家で見つかった天然理心流の釼術覚帳(万延二年 古谷祐之助)を拝観いたしました。
※古谷祐之助は、日野宿の組頭を務めていた人物とのことです。
何度か登場する土方歳三の名前の表記は全て「年蔵」でした。
以前から、多摩に残る土方上京前の関係史料では「歳蔵」「年蔵」と表記しているものが多いように感じていましたが、これには何か理由でもあるのでしょうか。
いくら当時は当て字を用いることも多かったとはいえ、土方本人が認めた書状などの署名は「歳三」となっていますし、「蔵」より「三」の方が書くのも楽だと思うのですが・・・多摩の人々は、土方の名前の表記を「蔵」で認識していたのでしょうか。
当て字といえば、山南敬助の名前は「三南敬助」となっていました。
以前からも指摘されていたことですが、やはり彼は「やまなみ」ではなく「さんなん」と呼ばれていたことは、ほぼ間違いのないところでしょう。
同史料には佐藤彦五郎の長男、源之助の名前も見えました。
万延二年といえば1861年。源之助は当時、僅か12歳の少年でした・・・幼い頃から熱心に稽古に励んでいたのですね。
また、特別公開最終日となった越前康継の刀身も拝観いたしました。
釼術覚帳の公開は8月18日までとのことです。
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