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2019年6月

2019年6月19日 (水)

土方歳三、慶応4年4月12~16日の行軍

慶応4年(1868)4月12日、国府台に集結した旧幕府脱走陸軍(以下 旧幕府軍)は、宇都宮城の攻略を目指して北進を開始します。
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旧幕府軍は兵を前軍と中・後軍から成る本隊とに分け、参謀に就任した土方歳三は秋月登之助と共に前軍を率いることになりました(本隊は総督の大鳥圭介)。
国府台を発した前軍はその後、同月16日には茨城県下妻市の宗道まで進んで下妻藩や下館藩を下していくのですが、宗道に至るまでの行程については、前軍の主力を構成した伝習第一大隊に所属する人物が、その日記「谷口四郎兵衛日記」に淡々と書き残しています。
今回はそれを参考に小金~宗道まで、土方らの進軍経路を辿ってドライブしてきました。
※谷口四郎兵衛は伝習第一大隊の所属ではなく桑名藩士で、後に仙台で新選組に加わる人物ですが、伝習第一大隊の某人物が記した日記を谷口が所持していたため、本史料は「谷口四郎兵衛日記」の名で呼ばれているそうです。

(慶応四年四月)十二日、小金ヶ原ニ兵隊整列、規則ノ礼ヲナス。東泉寺ニ泊陣。
(谷口四郎兵衛日記/以下引用同)

水戸街道の宿場町である小金宿(千葉県松戸市)に東泉寺というお寺はなく、彼らが泊陣したのは関東十八檀林の一つでもある名刹・東漸寺と考えられています。

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東漸寺総門
奥へ向かって長い参道が伸びています。

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参道の中ほどに建つ立派な仁王門。

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総門から本堂前の中雀門(写真奥)まではおよそ200m強。
前軍の総兵数は約1,000人にも及びますが、往時は参道の脇に宿坊なども建ち並んでいたでしょうから、東漸寺だけでも相当な人数を収容できたのではないでしょうか。

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東漸寺本堂
土方ら幹部が泊まったのは、或いは・・・?

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至るところに徳川家の葵紋も見受けられました。

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境内には、竹内廉之助・哲次郎兄弟の碑も。
兄弟は小金宿の出身。尊王攘夷思想に目覚めて天狗党の筑波山挙兵に参加し、廉之助は後に相楽総三と赤報隊を組織しますが、慶応4年(1868)2月8日、碓氷峠で明治新政府東山道軍の命を受けた小諸藩兵の襲撃を受けて命を落としました。

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再び参道を引き返し、総門から表へ出る前に撮影した1枚。この時、時刻はまだ朝の8時過ぎくらいでした。
慶応4年4月13日の朝には、東漸寺を出発する土方らも、こうして同じように参道を歩いて総門に向かったことでしょう。

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東漸寺総門から水戸街道を南へ4~500m、旅籠玉屋(鈴木家)跡。

小金宿は近藤勇が連行された流山にも近く、しかも土方らが小金に着いたのは、近藤との別離から僅かに9日後のことでした。

前軍はこの先、北柏辺りまでは水戸街道を進み、北柏の根戸追分で進路を布施街道にとったものと考えられます。

同十三日、布施弁天駅泊陣。
同十四日、滞陣。

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千葉県柏市布施の布施弁天東海寺
関東三弁天の一つに数えられ、本尊は弘法大師の作とも伝えられています。
写真の楼門は文化9年(1812)の建立。

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本堂
こちらは享保2年(1717)の建立。

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三重塔

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鐘楼は文化15年(1818)建立。
珍しい形をしていますが、これは多宝塔式鐘楼というのだそうです。

楼門・本堂・鐘楼はいずれも県の重要文化財に指定されています。
間違いなく、土方らも目にしたことでしょう。

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布施弁天から、利根川を越える七里ヶ渡方面の眺め。

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江戸時代、布施街道は水戸街道の脇往還的な位置づけで往来も多く、布施には5軒の旅籠が営まれていたそうです。
谷口四郎兵衛日記には布施弁天”に泊まったとあるので、前軍の幹部などは高台にある東海寺に泊まったかもしれませんが、日記の記主ら多くの将兵は、そうした旅籠などにも分宿していたのでしょう。

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利根川へ向かって一直線に伸びる布施街道。
道端には古い地蔵や庚申塔が並べられていました。

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布施街道、利根川寄りから振り返る布施弁天。

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七里ヶ渡跡
布施と対岸の戸頭(茨城県取手市)とを結ぶ、利根川の渡し場です。

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堤防を下りて実際の渡船場跡にも近づいてみましたが、あいにくのド藪に行く手を阻まれました。
案内板の意味よ。。。

13日に布施に着いた前軍は14日も留まって、出発は15日の朝になりました。

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利根川の対岸は常陸国。
七里ヶ渡は、下総と常陸に跨る国境越えの要地でもありました。

同十五日、水海道泊陣。

15日は茨城県常総市の水海道泊陣しています。

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水海道八幡神社

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水海道八幡神社には、日露戦争で旅順を攻略したことを記念する石碑も建てられていました。

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水海道本町の町並み。
水海道は鬼怒川舟運の拠点として栄え、特に幕末~明治にかけては隆盛を極めたそうです。

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その繁栄の中心ともいえる河岸跡にも向かってみたのですが、なんと鬼怒川の護岸改修工事中で近づくことすら叶いませんでした・・・。

十六日、日光西街道宗道村ニ泊陣ス。

16日、水海道を出発した前軍一行は下妻市の宗道まで達しました。

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宗道神社

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宗道神社境内の片隅に建っていた宗道河岸址の案内板。
宗道もやはり鬼怒川の舟運で賑わい、明治の頃までは結構な繁栄を誇っていたようです。
大正期になって鉄道が開通し、更に流路改修工事によって鬼怒川が大きく西へ付け変えられるに至り、往時の面影は失われていきました。

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この高低差が流路改修前の鬼怒川の名残、ということになりますでしょうか。
写真左奥が宗道神社です。

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宗道神社付近を歩いていると、立派な長屋門のお宅を見掛けました。
この長屋門・・・

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どことなく、宗道河岸址の案内板にあった絵の中央に見える長屋門を彷彿とさせませんか?

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こちらは宗任神社。
祭神は前九年の役(1051~1061)で源頼義に敗れた安倍宗任。宗任の家臣であった松本秀則・秀元父子がこの地に来住し、旧主を祀ったのが始まりとされています。
戦国期には小田氏治の崇敬も受け、江戸幕府からは5石の朱印地を与えられていました。
現在に至るまで代々、松本氏が宮司を務めているようです。

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宗任神社の裏手には、文政12年(1829)に完成した江連用水の分水施設である宮裏両樋。
宗任神社の裏にあるから「宮裏」で、明治33年(1900)に煉瓦造りに改修されたそうです。

16日に宗道村へ到着した前軍は、直ちに下妻藩に圧力を掛けてこれを恭順させ、翌17日には下館藩をも下して兵糧などを提供させました。
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彼らが宇都宮城に攻めかかり、一旦はその攻略に成功するのは4月19日。下館藩を下した僅かに2日後のことです。
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2019年6月 3日 (月)

足利政氏館跡(甘棠院)

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埼玉県久喜市本町、甘棠院総門。
甘棠院はコチラの記事でも少し触れた足利成氏の子で、古河公方第二代・足利政氏の館跡と伝えられています。

政氏は、古河公方の座や山内上杉氏の後継を巡って嫡子・高基と対立し、次男・義明にも反旗を翻されて次第に追い詰められていきます。
古河城を失った政氏は小山氏の庇護下に入り、後に出家して久喜の館に隠棲することで高基と和睦しました。
永正16年(1519)、出家した政氏は自らの館を寺とし、この甘棠院を開きます。

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総門には、足利氏の二つ引両紋も。

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中門
この両脇に堀跡が残っています。

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中門東側の堀跡。

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こちらは西側。
西側の堀は写真の先で右へ折れ・・・

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墓地脇の館跡西面へと続いています。

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甘棠院北側の甘棠院史跡公園。
芝生で堀跡の形状を示している、とのことでしたが・・・いまいちイメージが掴めませんでした。
写真右手の樹林も館の跡地になるのですが、現在では白鷺の巣窟になっているそうで、夥しい数の白鷺がけたたましく鳴き、そこら中に糞や羽が散乱していました・・・。

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甘棠院東側の路地。
この細い屈折した形状も、なんとなく堀跡を思わせます。

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甘棠院本堂
政氏の墓所もありますが、お寺の方とコンタクトを取れなかったので拝観は諦めました。
政氏に関連する宝物も残されているようです。

この後は、前の記事で書いた通り鴻巣の勝願寺へ、伊奈忠次の墓参に立ち寄ってから帰路につきました。
圏央道は渋滞もないし、距離的にも日帰りで出かけるにはちょうどいい感じ。いいドライブになりました。

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2019年6月 2日 (日)

伊奈氏屋敷跡

今回は埼玉県北東部へのドライブ。
まずは伊奈町小室の伊奈氏屋敷跡を目指します。

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伊奈氏屋敷跡図(上が南)
天正18年(1590)の主君・徳川家康の関東移封に伴い、武蔵国小室・鴻巣1万3000石を拝領した伊奈忠次が築いた屋敷(陣屋)跡です。
東西350m×南北750mにも及ぶ広大な敷地を誇っていました。

忠次は関東代官頭に任じられ、江戸幕府開府後は関八州の天領、約30万石を管轄します。
各地の検地、新田開発や河川改修、中山道をはじめとする街道宿駅の整備などを手がけ、創成期の幕府財政の基盤確立に多大な功績を残しました。

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伊奈屋敷、表門跡。
沼南駅前の駐車場に車を置き、そこからは1㎞ほどの道のりをのんびりと歩いて向かいました。

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表門脇にも横堀?枡形虎口?らしき痕跡があったのですが、生い茂る樹木に完全に覆われ、近づくことすらできませんでした。
屋敷跡一帯には私有地も多いので迷惑にならないよう、上の図で散策路()に定められている部分と車道に沿って見学していきます。

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A地点の横堀。
想像以上の遺構に、のっけから興奮を覚えました。
(この付近で、ひょっこり姿を現した狸とも遭遇しました)

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図に「現在地」とある地点に建つ石碑と説明板。

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B地点から東を見た横堀と・・・

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同じくB地点から西側の横堀。
右へくっきりと折れている様子もわかります。

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Cの堀底

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G地点から北へ伸びる横堀。
藪がきつく、散策路にも指定されていないので立ち入りませんが、見応えのある遺構が続きます。

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続いて、今度はDの堀底を伝って頭殿権現社へ向かいます。

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頭殿権現社
長禄年間(1457~1460)に太田道灌が勧請したとも伝わり、忠次が陣屋を築いた後に社殿を整え、陣屋の守護神にしたと云われています。

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頭殿権現社脇に残る、Eの横堀。
屈曲させている様子も見て取れます。

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細く曲がりくねった道を北へ進み、裏門跡へ。
屋敷跡内には、こうした細くて屈折した路地が多く残ります。これらも、この地に屋敷が存在していた名残なのだそうです。

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裏門付近の横堀(F

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裏門跡に建つ伊奈氏屋敷跡の標柱。

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標柱の建つ広場からは、発掘調査で障子堀が検出しているそうです。

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縁石で障子堀の位置を示しているというので、高い場所から見てみましたが・・・
なんとなく、U字型をしているのがわかります・・・かね?(^_^;)

伊奈氏屋敷跡、近年の史跡整備のお陰もあって、結構見応えがありました。
屋敷跡にお邪魔させていただいたので・・・

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鴻巣市本町の勝願寺へ、伊奈忠次の墓所にもお参りさせていただきました。
向かって左端が伊奈備前守忠次の宝篋印塔です。慶長15年(1610)没、享年61。

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