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2019年8月

2019年8月 6日 (火)

日本初の動力飛行を記録した飛行機

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今回は久しぶりに、所沢航空発祥記念館へ。

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所沢航空発祥記念館に訪れるのは、2013年に零戦を観に来て以来です。
今回の目的は・・・

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日本で初めて動力飛行を記録したアンリ・ファルマン機(1910年製)です。
明治43年(1910)4月、徳川好敏・日野熊蔵両大尉は飛行機の研究と購入を目的に、それぞれフランス・ドイツへと派遣されました。
なお、徳川大尉は御三卿清水徳川家の八代当主にあたります。

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同年10月に帰国した両大尉は12月、代々木練兵場(現代々木公園)にて、それぞれが購入してきた飛行機での飛行実験に臨みます。
12月14日、まずは日野大尉の操縦するハンス・グラーテ機が地上滑走試験・予備飛行に於いて高度2m/飛行距離100mを記録し(但し滑走時に"浮いた”"ジャンプした”だけ、との見解もあり)、次いで19日、公式の飛行記録会に於いて徳川大尉のアンリ・ファルマン機が高度70m/飛行距離3000m、飛行時間3分を記録しました。これが日本初の動力飛行となります。

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代々木練兵場で飛行実験に臨むアンリ・ファルマン機の様子(模型)
アンリ・ファルマン機が離陸した地点は、現在の明治神宮境内にあたるようです。

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アンリ・ファルマン機は退役後も所沢の航空参考館に展示・保管されていましたが、1945年の第二次大戦終結後にアメリカに運ばれます。
そして1960年5月21日、日米修好100周年と日本の航空50周年を記念して返還されました。
(以降、2008年までは千代田区の旧交通博物館で展示)

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会式一号飛行機(レプリカ)
アンリ・ファルマン機での飛行実験に成功した翌明治44年(1911)、徳川大尉は同機を参考に、自らの設計・製作による日本初の軍用訓練機・会式一号飛行機を所沢飛行場(現所沢航空記念公園)で完成させます。
同年10月13日、所沢飛行場での飛行実験では最大高度85mを記録し、航続時間も3時間を実現するなど、フランス製のアンリ・ファルマン機よりも高い性能と操縦性を評価されました。

・・・たまにはジャンルの違う分野のお勉強もいいものですね。

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2019年8月 5日 (月)

萩原諏訪城

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旅のラストに岐阜への帰路、下呂市萩原町の諏訪神社に立ち寄りました。
こちらは萩原諏訪城跡でもあります。

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萩原諏訪城跡図
この地には、1300年代には既に諏訪上社が勧請されていたようです。
萩原諏訪城は天正14年(1586)、飛騨を領有した金森氏が、諏訪神社を萩原町上村の大覚寺近くに移して築城しました。
元禄5年(1692)の金森氏の出羽移封に伴い、古川の増島城同様に一国一城令で「旅館」と称していた萩原諏訪城は廃城され、宝永6年(1709)になって再び諏訪神社がこの地に戻されました。

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諏訪神社境内の片隅で、末社を祀る櫓台跡。

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南東隅部分の石垣と堀跡。

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その南東隅から北西方向。

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北東隅の石垣。

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南西側の堀跡は、何故か石塁で堰き止められて箱型に。

おまけのように立ち寄っただけでしたが、なかなか見応えのある城跡でした。

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岐阜駅まで送ってもらった後は名古屋へ移動し、久しぶりに「住よし」のきしめんをいただいてから帰路につきました。
初日の天気はともかくとして、今回も念願だった二王清綱の拝観が叶い、知らなかった歴史もたくさん学べて有意義な旅になりました。

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2019年8月 4日 (日)

東町城、他

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江馬氏館の後は、同じく神岡町の東町城跡へ。

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東町城は16世紀後半、甲斐武田家の飛騨・越中攻略の拠点として、山県昌景が江馬氏に築城させたものと伝わります。
武田勢が引き上げた後は江馬氏の家臣・河上氏(河上家は現在も続き、江馬輝盛の肖像画を守り伝えています)が入城し、江馬氏滅亡の後は金森氏の支配するところとなりました。
元和の一国一城令で廃城となっています。

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高原川の河岸段丘の縁という立地で、現在では模擬天守が建って「神岡城」とも呼ばれていますが、空堀や石垣の一部は実際に残っていた遺構なのだそうです。

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模擬天守最上階からは日本一の立達磨が見えるというので、備え付けられていた双眼鏡にスマホのレンズを合わせて撮影してみた1枚・・・(;^_^A
銅製の達磨像で、本体の高さ9m、重量は8tあるそうです。

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同じく模擬天守から城下の眺め。
奥に鉱山らしき山も見えています。
神岡といえば鉱山の町。模擬天守横には鉱山資料館も併設されています。

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旧松葉家
こちらも城内に移築保存されている、明治元年築の古民家です。

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内部もサクッと見学させていただきました。

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お昼はこちらのお店で・・・

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奥飛騨ラーメンに舌鼓♪

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道の駅スカイドーム神岡に併設されたカミオカラボにもお立ち寄り。

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世界最大の地下ニュートリノ観測装置であるスーパーカミオカンデについて、簡単に学びました。

ここらで神岡にも別れを告げて岐阜方面へ引き上げますが、今回は行けなかった高原諏訪城にも登ってみたいし、いずれまた再訪したいと思います。

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2019年8月 3日 (土)

江馬氏館

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飛騨市神岡町殿(トノ)にある江馬氏館跡
16世紀後半まで、神岡町を含む飛騨国高原郷を領した江馬氏の平時の居館跡です。

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江馬氏館跡図
発掘調査の成果に基づき、会所や土塀、庭園(池)、空堀などが復元されています。

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北堀

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館の正面にあたる西堀。
こちらは薬研堀になっていたそうです。

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門前区画
こちらでも建物跡が検出しており、宿直屋や馬屋(厩)が建っていたものと考えられています。

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南堀
発掘の結果、新旧2つの堀跡が検出しており、一部掘り直されていたことが判明しています。

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会所
復元された建物はこの会所のみですが・・・

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それ以外の建物跡には板を張り、その位置を示しています。
写真左から台所・対屋で、写真には写っていませんが、更に右には江馬氏の居住空間である常御殿が建っていました。

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館の背後(南東)の尾根上には、前の記事で江馬輝盛のお墓をご紹介した際に少し触れた主城、高原諏訪城も。
※尾根上、少し木の根元が透けている辺りが主郭。

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庭園の池跡
発掘調査前、この地が田んぼだった頃から地表面に大きな石が5つ覗いており、地元では「江馬の殿様の庭石」と言い伝えられていたそうです。
昭和51年、神岡鉱山の公害による土壌汚染の影響で土地改良工事に着手することとなり、それに先立つ調査で実際に池などの庭園跡が検出し、平成6年に本格的な調査が再開されて整備されるようになりました。
実際に調査してみると、池や築山の庭石はかなりの部分で旧態を留めていたそうで、倒れたりしていたものは根石等の状況を確認した上で庭石との合わせを考慮して復元されています。
更に耕作によって撤去されたり、畦を固めるために転用されたりしていたものは景観を考慮して配置し、不足分は追加で購入して復元されました。

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ボランティア?の方のお話も端的でわかりやすく、結構勉強になりました。

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2019年8月 2日 (金)

高山の町並み、江馬輝盛墓、増島城

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飛騨高山で迎える2日目の朝。
まずは宮川朝市でお土産の物色から・・・。

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古い町並みも散策♪

朝の高山散策を終えた後は、車で北上して古川方面へ。
まずは高山市国府町八日町にある・・・

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江馬輝盛の墓所へ。

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江馬氏は飛騨北部、高原郷(神岡町など)に勢力を張った一族。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が斃れると、時の江馬氏16代当主・輝盛は飛騨の支配を賭け、織田家に接近していた三木氏(飛騨国司姉小路氏の名跡を奪取)らとの対決に踏み切ります。
同年10月に大坂峠を越えて南進し、三木方の小島氏(姉小路一族)の領域へ侵攻しました。迎撃に出た三木勢と、この八日町で荒城川を挟んで対峙して決戦に及びますが敗れ、輝盛は戦死を遂げます。(八日町合戦
八日町での敗戦~輝盛の戦死で江馬勢は崩れ、本拠の高原諏訪城も落とされて江馬氏は事実上滅亡しました。
※大坂峠では輝盛の家臣13名も輝盛の後を追って自害していますが、後に土地の人々が彼らの墓を建てて供養したため、いつしか大坂峠は「十三墓峠」とも呼ばれるようになったそうです。

この後、三木氏は一旦は飛騨を統一しますが、やがて豊臣秀吉の命を受けた金森長近の攻撃を受けて敗れ、飛騨国は豊臣政権によって平定されました。

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輝盛の墓標脇には、「切腹石」と呼ばれる大きな岩が。
輝盛の子と推定される時政は父の死後、金森長近を頼ったものの、後に所領問題から反旗を翻して粛清されたとも云われています。
この切腹石は、その時政が腰を掛けて腹を切ったものと伝えられているようです。

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江馬輝盛墓所付近から、三木勢が陣取った南方の眺め。この谷間を縫うように、荒城川が東西に流れています。
※眼下の小川は荒城川ではありません。

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続いて飛騨市古川町の増島城へ。
増島城は本城の高山城と共に、飛騨を平定した金森氏の拠点として築城されました。
石垣の高さは8mを超え、飛騨では最大級の規模を誇ります。
元和の一国一城令で古川旅館(公用宿所)と改称し、金森氏の出羽移封で飛騨が天領となり、増島城も役目を終えました。

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ところで、飛騨古川は映画「君の名は。」の舞台にもなっているようで、写真の気多若宮神社がモデルではないかとされる神社も登場しているそうですね。

この後は更に北上し、鉱山でも有名な飛騨市神岡町へ向かいます。

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2019年8月 1日 (木)

高山陣屋

高山に到着し、宿へチェックインした後は・・・

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高山陣屋へ。
高山には2年ぶりの再訪で前回も陣屋前までは来たものの、朝早い時間で開いていなかったので、今回が初めての見学となります。

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順路に沿って見学していきますが、広くて結構時間を要します。
この敷地内のどこかで、父・小野高福が飛騨郡代を務めた幼き日の山岡鉄舟も過ごしていたのですねぇ・・・。

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台所では、屋根材となる檜皮の準備が進められていました。
近々葺き替える予定があるのでしょうか。

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関係資料の展示も多く、最後の方は結構足に疲れが・・・(;^_^A

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この後は楽しいお酒と温泉で、飛騨高山の夜を満喫しました。

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