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2019年9月

2019年9月30日 (月)

道明寺・誉田の戦い関連地

慶長20年(1615)5月、大和口から迫る徳川勢(本多・水野・松平・伊達、etc...)に対し、豊臣方は後藤又兵衛を先陣に真田信繁毛利勝永らの軍勢を派遣します。
5月6日、道明寺村に着陣した後藤又兵衛は、敵の軍勢が既に国分村まで迫っていることを知り、遅れていた後続部隊を待たずに石川を渡って国分村眼前の小松山に布陣しました。

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こちらの階段で小松山を直登?します。。。

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小松山の山頂には前方後円墳も。(玉手山一号墳)

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小松山古戦場跡の碑

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南都奉行奥田三郎右衛門忠次戦死之墓地
奥田忠次は水野勝成隊(徳川方)の一手として道明寺の合戦に参戦し、戦死しました。

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小松山から東、徳川方の諸隊が展開していた国分村方面を望む。このすぐ麓が国分村(柏原市国分本町)になります。
丘陵の合間を大和川が流れる狭隘な地で、迎え撃つ豊臣方の戦略意図は充分に読み取れる地勢でした。

後藤隊は奮戦し、小松山を包囲する徳川方の大軍を何度も押し戻しましたが衆寡敵せず、又兵衛も壮絶な最期を迎えました。
又兵衛が戦死して後藤隊が敗走した後、戦いの舞台は石川西岸の道明寺村・誉田村へと移ります。両村には、遅れていた真田や毛利らの諸隊が布陣しました。

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道明寺
菅原道真の先祖・土師氏の氏寺(土師寺)として建立され、後に道真の号にちなんで道明寺と改められました。

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道明寺天満宮
こちらもやはり、元は土師神社と称していました。

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誉田林古戦場址(誉田八幡宮境内)
誉田八幡宮の付近は、南北朝期より数々の戦いの舞台ともなりました。
大坂夏の陣では、豊臣方の薄田兼相も誉田八幡宮に陣を張り、道明寺で戦死を遂げています。

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誉田八幡宮拝殿
豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任じて再建させましたが、完成前に大坂の陣が勃発したため、未完のまましばらく放置されました。
その後、徳川家光の代になって工事が再開され、寛永初期に竣工しています。

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誉田八幡宮本殿と応神天皇陵(写真奥)の間を流れる放生川に架かる放生橋。
物凄い反りで、殆ど壁のようです。

道明寺・誉田でも豊臣方は善戦したようですが、八尾・若江口の敗報(参考記事)に接し、撤退を決めました。
この時のことですね、真田信繁のあの有名な台詞が吐かれたと云うのは。
関東勢百万と候へ、男は一人もなく候。

さて、この日はこれで打ち止めとし、この後は宿を取る茨木駅前へ移動。
夜は大阪の城仲間も合流し、城と歴史を肴に楽しく飲みました。

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2019年9月29日 (日)

八尾・若江の戦い関連地

今回の旅の行程は、同行者任せの完全ミステリーツアー。
新大阪駅で合流し、まず最初に連行…もとい連れて行かれた(同じかw)先は・・・

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若江城跡でした。
5年前、織田信長の天王寺合戦めぐりで訪れて以来の再訪となりました。
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どうやら今回は、大坂の陣の関連地を中心にめぐるようです。

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若江城跡碑から南へ100mほど、蓮城寺に建つ木村重成の霊牌所
大坂夏の陣、八尾・若江の戦い(慶長20年5月6日)で若江口に出撃し、徳川方の藤堂や井伊らの軍勢と戦って討死を遂げた木村重成を祀っています。
霊牌所の中には重成の肖像画や位牌、日蓮宗を庇護した加藤清正の小さな木像が安置されていました。

この付近には「若江木村通」という交差点もあります。

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少し場所を移して、八尾市幸町の木村重成墓所
宝暦14年(1764)、重成の首を挙げた井伊隊・安藤長三郎の子孫で彦根藩士(井伊家)だった安藤次輝が、重成の150回忌にあたって建立しました。
すぐ北を流れる第二寝屋川の開削工事により、昭和になって50mほど移動しているようです。

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墓所は公園の中に位置しているのですが、その公園には;
此附近木村重成奮戦地
の碑も建てられています。

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続いて八尾口の古戦場方面にも足を運びました。
写真は、八尾神社境内に建つ矢尾城址碑。

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八尾神社の西にある常光寺の門柱?に刻まれた、大坂夏の陣古戦場の文字。

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常光寺には多田満仲の子孫で、楠木正成の家臣として活躍した八尾城主・八尾別当顕幸のお墓もありました。

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長宗我部物見の松跡
八尾口へ出撃した豊臣方の長宗我部盛親は久宝寺一帯に布陣し、この地に生えていた松の木に兵を上げて藤堂隊の動静を探ったのだそうです。

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久宝寺城跡
天正5年(1577)、久宝寺城は本願寺の攻撃を受けて陥落しているそうです。
時の城主・安井定重が織田信長に与していたためとか。

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久宝寺城のものと思われる土塁を写した古い写真。

八尾・若江での戦いは、徳川方の先鋒・藤堂隊の武将を多く討ち取るなど、豊臣方も特に八尾口では善戦したようですが、繰り出される新手(井伊隊など)に若江口が徐々に押し込まれ、木村重成の戦死によって木村隊も壊滅し、若江口は破られました。
若江口の崩壊を受けて八尾口の長宗我部盛親も孤立を恐れ、大坂城へと撤退します。

この後は道明寺方面へ向かいます。

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2019年9月20日 (金)

「松平家忠とその時代 ~『家忠日記』と本光寺~」展

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駒澤大学の耕雲館(昭和3年築)

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耕雲館に入っている禅文化歴史博物館で、令和元年11月13日まで開催されている企画展松平家忠とその時代 ~『家忠日記』と本光寺~に足を運んでみました。

松平家忠は深溝松平家の4代目。
天文24年(1555)に生を受け、徳川家康の家臣として活躍しています。慶長5年(1600)、関ケ原合戦の前哨戦となる伏見城籠城戦で討死を遂げました。(享年46)
彼が残した「家忠日記」(駒澤大学図書館蔵)は同時代の歴史・情報を得られるだけでなく、戦国武将の日常を知る上でも貴重な史料となっています。

また、本光寺(愛知県幸田町/長崎県島原市)は深溝松平家の菩提寺。松平家の島原移封に伴い、同地にも創建されました。
所蔵する数多くの貴重な文書類が、今回の企画展にも出品されています。

展示内容は「家忠日記」をはじめ、今川義元・同氏真・織田信長・上杉謙信・北条氏政・石田三成らの書状や感状、安堵状といった文書類が中心の構成で、中には「伝・鎮西八郎為朝鏃の鑓」(愛知県本光寺)や、「権現様御手拭」(長崎県本光寺)といったものまでありました。
展示資料数は40点弱と決して多い訳ではありませんが、その一つ一つの全てが、とても興味深いものばかりといった印象です。

何よりもやはり、三河(深溝~岡崎)にいる家忠の元へ刻々と寄せられる本能寺の変にまつわる風説や家康一行の動向を、リアルタイムに記した「家忠日記」天正10年(1582)6月3~4日の項を直に拝観できたのが嬉しかったです。

入館無料な上に、図録も無料とのこと。
私が訪問した9月19日現在、図録はまだ未完成でしたが、申し込めば後日郵送(送料無料/一人一冊)していただけます。
チャンスのある方は是非、開館日(平日の10:00~16:30/但し平日にも休館日有)に注意して訪れてみてください。

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2019年9月15日 (日)

江戸歴史散歩コーナー

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仕事で市ヶ谷に行く用事があったので、地下鉄市ヶ谷駅構内(南北線側)にある江戸歴史散歩コーナーに立ち寄ってみました。
普段、市ヶ谷から南北線を利用する機会が殆どないので、実は初めて…σ(^_^;

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雉子橋(千代田区九段南)で出土した石材を利用した石垣の再現(写真)や、市ヶ谷~四谷周辺の外濠調査の成果などをまとめた簡単なパネル展示が中心です。

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石垣に残る刻印の紹介も。

お城や歴史に興味をお持ちの方は、近くを通られた際、ちょっと足を止めてご覧になってみてはいかがでしょうか。

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2019年9月 4日 (水)

松原城の現説と三田城

2019年8月31日は急遽、兵庫県神戸市北区の道場町へ。

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神鉄道場駅の目の前にある松原城(蒲公英城・道場川原城)の発掘調査現地説明会(以下「現説」)に行って参りました。

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松原城跡図
着色されている部分が、今回の現説での公開範囲となります。

松原城は南北朝期、三田城の支城として赤松氏によって築かれたのが始まりとされ、後に赤松氏の流れを汲む松原氏が城主となっていたようです。
城主の娘に鼓の名手がいたとの伝承から「つづみ草」=蒲公英(たんぽぽ)城(※諸説あり)、或いは麓にあった村の名前から道場川原城とも呼ばれました。

有馬郡の御敵さんだの城へ差し向かひ、道場河原・三本松、ニケ所足懸かり拵へ、羽柴筑前守秀吉、人数入れ置き、
(信長公記 巻十一「丹波国波多野館取り巻くの事」より)

天正6年(1578)12月、叛旗を翻した荒木村重を攻める織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、荒木方の三田城に対し、道場河原・三本松に付城を仕立てて兵を入れています。
この松原城こそ秀吉がこの時、三田城に対する付城とした一つ、道場河原に比定されているのです。
※現地案内板には「天正7年に秀吉に攻められて落城した」とありましたが、秀吉が道場河原を付城としたのは天正6年なので、もっと早い段階で松原氏は城を退去していたということになりますでしょうか。

今回の発掘調査は宅地開発計画に伴うもので、開発で城跡が消失する前に一度は見ておかなくては!との思いから、殆ど勢いだけで東京からわざわざ訪れたのです(笑)

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最初に資料を受け取り、出土遺物などを見学。
土器や・・・

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短刀、 弓矢の雁股鏃なども出ているようです。

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曲輪6(写真右上部分)
曲輪2の北西斜面に付けられた帯曲輪のようです。

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順路に沿って麓を曲輪7方向へ歩いていくと、石積みらしき痕跡も見受けられました。

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松原城から南方の眺め。

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曲輪7

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曲輪7の脇を抜け、曲輪2へと続く登城道。

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曲輪2
写真左側の土塁の切れ目が、先ほどの登城道からの虎口になっていたようです。

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曲輪2から出土した石敷きの遺構。
どことなく昨年、愛知県の小牧山城から出土したものと似ている印象を受けました。
なお、今回の発掘調査では建物の痕跡は確認できていないようです。

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曲輪2の土塁上から。

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曲輪2から曲輪1方向。

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改めて曲輪2の全体を俯瞰する。

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曲輪2と1の間を断ち切る堀切(北側)

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堀切の南側は発掘されておらず、見学者のための歩行ルートに充てられていましたが、実際にはこちら側も切られていたことでしょう。

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堀切を塞ぐように見えている土壁は、発掘の際に掘り残した観察用の畦ですが、その先から・・・

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土留めの石積みを伴う閉塞土塁(写真手前)が見つかっており、堀切というよりは箱堀のようになっていたようです(奥は先ほどの観察用畦)。
また、堀底は岩盤を削って平らに整地されていたとのことです。

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堀切の先は曲輪4

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曲輪4の切岸。
下層部分は岩盤を切り開いていました。
この切岸の上は曲輪2になります。

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曲輪4からは、集石土坑も見つかっています。
駐屯する兵たちの生活を窺い知る、貴重な遺構ですね。

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主郭となる曲輪1はまだ調査中で、今回の公開範囲には含まれていませんでした。

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曲輪1から望む曲輪2。
曲輪1側を除く三方を囲む土塁は、麓を通る丹波街道に面した北~東側(写真右半分)の方がより高く、強固に築かれていたようです。

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松原城(道場河原)から、三田城(さんだの城)方面を望む。
・・・丘陵が視界を横切り、見通しは全く利きません。

三田城を攻める(包囲する)ための付城という意味に於いては、横山城や立石城など、より適した立地の城跡がいくつか存在しています。
信長公記に道場河原と並んで出てくる三本松とされる場所は、松原城(道場河原)の遥か南西、三田城からは更に遠く離れ、有馬から三木へと続く湯の山街道沿いの神戸市北区屏風に位置しています。(「摂津名所図会」)
こうした点を踏まえると、信長公記に出てくる道場河原・三本松の2つの砦は、さんだの城へ差し向かひとはあるものの三田城を攻めるためのものというよりは、主要な街道(丹波街道・湯の山街道)を押さえ、敵対した荒木方の三田城を警戒しつつ、この時期の秀吉の主戦場となる三木への兵站線を確保・維持するためのものだったのではないかと思います。

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八多川の対岸から望む松原城。

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松原城下を抜ける丹波街道の旧道。

この後は、松原城の現説でお会いしたお城仲間の方々とご一緒させていただき、三田城へ向かいました。

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三田藩主・九鬼家御下屋敷跡の築山と、家臣が寄進した石燈籠。
(法務局三田出張所)

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金心寺の山門として移築された、御下屋敷の黒門。
金心寺はかつて、織田信長の摂津・播磨攻めの兵火で失われるまでは壮大な七堂伽藍を誇り、本尊の弥勒菩薩像(国重文)の胎内からは、
「金心寺三福田により三田と改める」
と、三田の地名の由来を記した墨書銘が見つかっているそうです。

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九鬼家の菩提寺、心月院。
心月院の山門は、天正13年(1585)の創建。
同寺が九鬼家の菩提寺として心月院と改められたのは、九鬼家の三田入封後の寛永10年(1633)のことなので、この山門はその前身・梅林寺からのものということになりますでしょうか。

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総門の創建は宝暦3年(1753)

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九鬼家歴代の墓所

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心月院には、三田県大参事を務めた白洲退蔵を祖父に持つ白洲次郎・正子夫妻も眠ります。

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旧九鬼家住宅資料館
お隣の三田ふるさと学習館では三田城に関する資料をいただいたり、城跡に立つ有馬高校内の見学についてご教示いただきました。

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三田城(陣屋)図
江戸時代、鳥羽から三田に移封された九鬼家は、旧城域を取り込んで陣屋を構えました。
現在、上の図で「陣屋」とある一帯は三田小学校、「古城」は有馬高校の敷地となっています。

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三田城跡碑(図1

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2の内堀

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満々と水を湛える内堀

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3部分
水路のヘアピン具合が、図の堀とピタリ一致していませんか?

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「古城」北側の地形高低差(図4

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5の竪堀・・・か?

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それにしても「古城」北側の高低差は、横から見ても見事の一言。

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6辺りにある石組みの井戸跡。
五輪塔なども石材として用いられていました。
こちらの井戸からは1582~1601年頃まで三田城に入っていた山崎氏の家紋入りの瓦が発見されていることから、九鬼氏以前からの貴重な遺構である可能性が高そうです。

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鳥羽から内陸の三田へと転封となった九鬼水軍。
それでも、水軍としての技術を忘れないようにと、舟を浮かべて訓練していたと伝わる三田御池。

松原城の現説も期待以上でしたし、ご一緒させていただいたお城仲間の皆様のお陰で、三田城とその周辺めぐりも想定以上の成果を得られました。
週末の天気予報にやきもきし、前日まで迷っていた強硬日帰り旅でしたが、思い切って決行して本当に良かったと思います。

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