道明寺・誉田の戦い関連地
慶長20年(1615)5月、大和口から迫る徳川勢(本多・水野・松平・伊達、etc...)に対し、豊臣方は後藤又兵衛を先陣に真田信繁や毛利勝永らの軍勢を派遣します。
5月6日、道明寺村に着陣した後藤又兵衛は、敵の軍勢が既に国分村まで迫っていることを知り、遅れていた後続部隊を待たずに石川を渡って国分村眼前の小松山に布陣しました。
こちらの階段で小松山を直登?します。。。
小松山の山頂には前方後円墳も。(玉手山一号墳)
小松山古戦場跡の碑
南都奉行奥田三郎右衛門忠次戦死之墓地
奥田忠次は水野勝成隊(徳川方)の一手として道明寺の合戦に参戦し、戦死しました。
小松山から東、徳川方の諸隊が展開していた国分村方面を望む。このすぐ麓が国分村(柏原市国分本町)になります。
丘陵の合間を大和川が流れる狭隘な地で、迎え撃つ豊臣方の戦略意図は充分に読み取れる地勢でした。
後藤隊は奮戦し、小松山を包囲する徳川方の大軍を何度も押し戻しましたが衆寡敵せず、又兵衛も壮絶な最期を迎えました。
又兵衛が戦死して後藤隊が敗走した後、戦いの舞台は石川西岸の道明寺村・誉田村へと移ります。両村には、遅れていた真田や毛利らの諸隊が布陣しました。
道明寺
菅原道真の先祖・土師氏の氏寺(土師寺)として建立され、後に道真の号にちなんで道明寺と改められました。
道明寺天満宮
こちらもやはり、元は土師神社と称していました。
誉田林古戦場址(誉田八幡宮境内)
誉田八幡宮の付近は、南北朝期より数々の戦いの舞台ともなりました。
大坂夏の陣では、豊臣方の薄田兼相も誉田八幡宮に陣を張り、道明寺で戦死を遂げています。
誉田八幡宮拝殿
豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任じて再建させましたが、完成前に大坂の陣が勃発したため、未完のまましばらく放置されました。
その後、徳川家光の代になって工事が再開され、寛永初期に竣工しています。
誉田八幡宮本殿と応神天皇陵(写真奥)の間を流れる放生川に架かる放生橋。
物凄い反りで、殆ど壁のようです。
道明寺・誉田でも豊臣方は善戦したようですが、八尾・若江口の敗報(参考記事)に接し、撤退を決めました。
この時のことですね、真田信繁のあの有名な台詞が吐かれたと云うのは。
関東勢百万と候へ、男は一人もなく候。
さて、この日はこれで打ち止めとし、この後は宿を取る茨木駅前へ移動。
夜は大阪の城仲間も合流し、城と歴史を肴に楽しく飲みました。