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2019年9月 4日 (水)

松原城の現説と三田城

2019年8月31日は急遽、兵庫県神戸市北区の道場町へ。

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神鉄道場駅の目の前にある松原城(蒲公英城・道場川原城)の発掘調査現地説明会(以下「現説」)に行って参りました。

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松原城跡図
着色されている部分が、今回の現説での公開範囲となります。

松原城は南北朝期、三田城の支城として赤松氏によって築かれたのが始まりとされ、後に赤松氏の流れを汲む松原氏が城主となっていたようです。
城主の娘に鼓の名手がいたとの伝承から「つづみ草」=蒲公英(たんぽぽ)城(※諸説あり)、或いは麓にあった村の名前から道場川原城とも呼ばれました。

有馬郡の御敵さんだの城へ差し向かひ、道場河原・三本松、ニケ所足懸かり拵へ、羽柴筑前守秀吉、人数入れ置き、
(信長公記 巻十一「丹波国波多野館取り巻くの事」より)

天正6年(1578)12月、叛旗を翻した荒木村重を攻める織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、荒木方の三田城に対し、道場河原・三本松に付城を仕立てて兵を入れています。
この松原城こそ秀吉がこの時、三田城に対する付城とした一つ、道場河原に比定されているのです。
※現地案内板には「天正7年に秀吉に攻められて落城した」とありましたが、秀吉が道場河原を付城としたのは天正6年なので、もっと早い段階で松原氏は城を退去していたということになりますでしょうか。

今回の発掘調査は宅地開発計画に伴うもので、開発で城跡が消失する前に一度は見ておかなくては!との思いから、殆ど勢いだけで東京からわざわざ訪れたのです(笑)

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最初に資料を受け取り、出土遺物などを見学。
土器や・・・

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短刀、 弓矢の雁股鏃なども出ているようです。

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曲輪6(写真右上部分)
曲輪2の北西斜面に付けられた帯曲輪のようです。

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順路に沿って麓を曲輪7方向へ歩いていくと、石積みらしき痕跡も見受けられました。

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松原城から南方の眺め。

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曲輪7

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曲輪7の脇を抜け、曲輪2へと続く登城道。

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曲輪2
写真左側の土塁の切れ目が、先ほどの登城道からの虎口になっていたようです。

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曲輪2から出土した石敷きの遺構。
どことなく昨年、愛知県の小牧山城から出土したものと似ている印象を受けました。
なお、今回の発掘調査では建物の痕跡は確認できていないようです。

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曲輪2の土塁上から。

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曲輪2から曲輪1方向。

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改めて曲輪2の全体を俯瞰する。

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曲輪2と1の間を断ち切る堀切(北側)

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堀切の南側は発掘されておらず、見学者のための歩行ルートに充てられていましたが、実際にはこちら側も切られていたことでしょう。

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堀切を塞ぐように見えている土壁は、発掘の際に掘り残した観察用の畦ですが、その先から・・・

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土留めの石積みを伴う閉塞土塁(写真手前)が見つかっており、堀切というよりは箱堀のようになっていたようです(奥は先ほどの観察用畦)。
また、堀底は岩盤を削って平らに整地されていたとのことです。

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堀切の先は曲輪4

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曲輪4の切岸。
下層部分は岩盤を切り開いていました。
この切岸の上は曲輪2になります。

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曲輪4からは、集石土坑も見つかっています。
駐屯する兵たちの生活を窺い知る、貴重な遺構ですね。

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主郭となる曲輪1はまだ調査中で、今回の公開範囲には含まれていませんでした。

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曲輪1から望む曲輪2。
曲輪1側を除く三方を囲む土塁は、麓を通る丹波街道に面した北~東側(写真右半分)の方がより高く、強固に築かれていたようです。

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松原城(道場河原)から、三田城(さんだの城)方面を望む。
・・・丘陵が視界を横切り、見通しは全く利きません。

三田城を攻める(包囲する)ための付城という意味に於いては、横山城や立石城など、より適した立地の城跡がいくつか存在しています。
信長公記に道場河原と並んで出てくる三本松とされる場所は、松原城(道場河原)の遥か南西、三田城からは更に遠く離れ、有馬から三木へと続く湯の山街道沿いの神戸市北区屏風に位置しています。(「摂津名所図会」)
こうした点を踏まえると、信長公記に出てくる道場河原・三本松の2つの砦は、さんだの城へ差し向かひとはあるものの三田城を攻めるためのものというよりは、主要な街道(丹波街道・湯の山街道)を押さえ、敵対した荒木方の三田城を警戒しつつ、この時期の秀吉の主戦場となる三木への兵站線を確保・維持するためのものだったのではないかと思います。

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八多川の対岸から望む松原城。

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松原城下を抜ける丹波街道の旧道。

この後は、松原城の現説でお会いしたお城仲間の方々とご一緒させていただき、三田城へ向かいました。

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三田藩主・九鬼家御下屋敷跡の築山と、家臣が寄進した石燈籠。
(法務局三田出張所)

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金心寺の山門として移築された、御下屋敷の黒門。
金心寺はかつて、織田信長の摂津・播磨攻めの兵火で失われるまでは壮大な七堂伽藍を誇り、本尊の弥勒菩薩像(国重文)の胎内からは、
「金心寺三福田により三田と改める」
と、三田の地名の由来を記した墨書銘が見つかっているそうです。

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九鬼家の菩提寺、心月院。
心月院の山門は、天正13年(1585)の創建。
同寺が九鬼家の菩提寺として心月院と改められたのは、九鬼家の三田入封後の寛永10年(1633)のことなので、この山門はその前身・梅林寺からのものということになりますでしょうか。

※心月院の山門は、豊臣秀吉が有馬温泉に築いた湯山御殿からの移築なのだそうです。
ただ、湯山御殿の創建は文禄3年(1594)と伝えられているので、やはり門の創建年代とは合いません…湯山御殿を築く際にも、何処かから移築してきたということになるのでしょうか?
2021年2月13日追記

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総門の創建は宝暦3年(1753)

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九鬼家歴代の墓所

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心月院には、三田県大参事を務めた白洲退蔵を祖父に持つ白洲次郎・正子夫妻も眠ります。

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旧九鬼家住宅資料館
お隣の三田ふるさと学習館では三田城に関する資料をいただいたり、城跡に立つ有馬高校内の見学についてご教示いただきました。

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三田城(陣屋)図
江戸時代、鳥羽から三田に移封された九鬼家は、旧城域を取り込んで陣屋を構えました。
現在、上の図で「陣屋」とある一帯は三田小学校、「古城」は有馬高校の敷地となっています。

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三田城跡碑(図1

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2の内堀

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満々と水を湛える内堀

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3部分
水路のヘアピン具合が、図の堀とピタリ一致していませんか?

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「古城」北側の地形高低差(図4

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5の竪堀・・・か?

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それにしても「古城」北側の高低差は、横から見ても見事の一言。

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6辺りにある石組みの井戸跡。
五輪塔なども石材として用いられていました。
こちらの井戸からは1582~1601年頃まで三田城に入っていた山崎氏の家紋入りの瓦が発見されていることから、九鬼氏以前からの貴重な遺構である可能性が高そうです。

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鳥羽から内陸の三田へと転封となった九鬼水軍。
それでも、水軍としての技術を忘れないようにと、舟を浮かべて訓練していたと伝わる三田御池。

松原城の現説も期待以上でしたし、ご一緒させていただいたお城仲間の皆様のお陰で、三田城とその周辺めぐりも想定以上の成果を得られました。
週末の天気予報にやきもきし、前日まで迷っていた強硬日帰り旅でしたが、思い切って決行して本当に良かったと思います。

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